終章 次の一秒
二〇五〇年六月二十一日
国立未生記憶資料館は閉館した。
正確には、閉館させられた。
二月十四日の事故から十七日後、政府は無期限の業務停止命令を出した。
理由は一つではない。
第零継続域の違法な存在。
自らを人間として申告した人格群に、法的保護がなかったこと。
十八年前の研究記録改竄。
外部監督局の破棄命令に対する妨害。
現実履歴混線による民間被害。
未生記憶を資料として所有する制度そのものの妥当性。
どれか一つなら、資料館は形を変えて残ったかもしれない。
すべてが同時に起きたため、従来の形では残せなかった。
正面玄関には白い封鎖板が張られている。
かつて来館者を迎えた看板から、国立未生記憶資料館、という文字だけが外されていた。
跡が残っている。
六月の光の下では、その跡の方が文字よりはっきり見えた。
澪は門の外から建物を見上げた。
最後にここへ来たのは三週間前。
事情聴取、証拠確認、記録照合。
同じ質問を、所属の違う人間から何度も受けた。
なぜ破棄を止めたのか。
第零の人々を人間だと認識していたのか。
なぜ最後に現在履歴を選んだのか。
法的根拠はあったのか。
久世朔から誘導されたのか。
鷺沢環から圧力を受けたのか。
冬木凪の生存を優先したのか。
冬木こよみへの母親としての感情が、判断へ影響したのか。
澪は、影響は受けた、と答えた。
全員から。
こよみからも。
凪からも。
朔からも。
環からも。
恐怖からも、愛情からも、自分の過去からも。
その上で、最後にレバーを動かしたのは自分だった。
調査官たちは満足しなかった。
法的な責任は、簡単な文章の方が扱いやすい。
澪には、その気持ちも分かった。
門の横に、一人の男が立っていた。
帽子をかぶり、古い工具箱を持っている。
久世朔。
「遅い」
「時間は決めていませんでした」
「昼前って言った」
「今は十一時四十分です」
「普通は十一時くらいだろ」
「普通の定義を」
「やめろ」
朔が笑った。
以前よりよく笑うようになった、と澪は思う。
以前の朔がどれほど笑っていたかを知らないだけかもしれない。
左手に腕時計はない。
「時計は」
朔が工具箱を上げる。
「中」
「壊れましたか」
「分解した」
「なぜ」
「直そうと思って」
「もう動いていたでしょう」
「動くのと、直ってるのは違う」
工具箱を見る。
「十八年止まってた機械を、そのまま使いたくない。一度全部ばらして、どこが傷んだか見る」
「元へ戻らない可能性は」
「ある」
「それでも」
「それでも」
時間が進み始めただけで、人が回復したことにはならない。
「時計店は」
澪が聞く。
朔の顔が少し止まる。
第零世界で、父から継いだ店。
「断片だけ。木の机があった気がする。午後に西日が入る」
「そう言っていました」
「僕が?」
「はい」
「そうか」
澪は教えすぎないようにした。
朔が自分から失った記憶を、全部外から埋め戻すことは違う気がした。
本人が聞いたときだけ。
「こよみは」
その名に、今でも胸が反応する。
「林檎は厚い方が好き」
「はい」
「黄色い扉を描いた」
「はい」
「自転車に乗れなかった日がある」
「それは覚えているんですか」
「記録を読んだ」
「そうですか」
「読んでも、思い出した感じはしない」
「はい」
「でも、その日があったことは分かる」
忘れてもいい。
いなかったことにはしないで。
「それでいいと思います」
「こよみが言った?」
「似たことを」
朔はそれ以上聞かなかった。
二人で封鎖された建物を見る。
「環は」
「今日、午後から公判前手続き」
「会いましたか」
「昨日。弁護士に怒ってた」
「何に」
「全部認めるから弁護することがないって言って、揉めてた」
想像できた。
環は館長職を失い、研究資格も停止された。第零実験以前の記録改竄、倫理審査違反、未生人格群の違法維持、事故後の隠蔽について刑事責任を問われている。
二月十四日に第零の即時破棄を止め、記録を公開し、最終操作権を放棄したことは、量刑判断で考慮されるらしい。
環自身は、それを嫌がった。
「最後に正しいことをしたから、前のことが軽くなるのは嫌」
澪へそう言った。
澪は答えた。
「軽くなるかどうかを決めるのも、あなたではありません」
環はひどく嫌そうな顔をし、そのあと笑った。
朔も、外部解錠系統の違法改変と無許可神経接続について起訴判断を待っている。医師資格と研究資格は停止中だった。
「凪は」
「今日も物件探しです」
「もう?」
「店を開くのは来年です」
二月十四日の混線によって、最初に契約していた店舗の履歴は戻らなかった。
現在世界が確定したあとも、完全には元どおりにならなかったものがある。
道路。
建物。
書類。
記憶。
人間関係。
多くは数日から数週間で整合した。
しかし一部は、どちらの履歴にも完全には戻らなかった。
凪と灯が借りる予定だった西口商店街の物件は存在している。けれど、別の夫婦が十五年前から所有していることになった。その夫婦には、そこで暮らしてきた記憶も、写真も、税記録も、近隣住民の証言もある。
返してくれとは言えない。
凪は三日落ち込んだ。
四日目、別の物件を探し始めた。
「店名、決めた?」
「はい」
「何」
「おかえり」
朔が笑う。
「結局」
「凪が折れました」
「灯に?」
「はい」
三枝灯。
澪は、二月十三日以前の灯の顔を思い出せない。
声も、当時抱いていた感情も戻らなかった。
だが事故後、何度も会った。
凪の退院。
事情聴取。
食事。
物件探し。
そのたび、新しい灯を知った。
右頬にだけえくぼができる。
コーヒーには砂糖を二つ。
凪が怒っていると、すぐ謝らずに食べ物を渡す。
疲れると、言葉の最後が少し小さくなる。
昔の記憶が戻ったわけではない。
でも、今の澪には三枝灯という人がいる。
一度失ったから、永遠に他人のままではなかった。
「行く?」
朔が言う。
「中へ」
今日は証拠保全のため、元職員数名にだけ入館が許可されている。
目的は個人所持品の回収と、新設された記録委員会への資料移管だった。
澪は閉館後、委員会の臨時整理員として働いている。
委員会が最初に作ったのは、収蔵一覧ではなかった。
第零継続域・関連生成人格自己申告者名簿。
名簿の一ページ目には、番号の欄がなかった。
資料番号も、危険度も、所有者欄もない。
人名だけ。
冬木こよみ。
水城紗奈。
河合美緒。
桑原実。
浅田修一。
瀬戸文雄。
零三。
そして、回収できた限りの名前。
澪は「冬木こよみ」の名を見つけても、指でなぞらなかった。そこに書かれていることを確かめるために、触れる必要はなかった。
その名簿は、救えた者の一覧ではない。
だからこそ、救ったふりをする番号もつけなかった。
「行きます」
二人で門を通る。
館内は空だった。
展示物はすべて撤去されている。
かつて選ばなかった人生を体験する展示が並んでいた場所には、壁と床だけが残り、足音が大きく響いた。
「寂しいな」
「私は、少し安心します。静かなので」
「君、本当に博物館向いてなかったんじゃないか」
「十六年働きました」
「向いてるのと、続くのは別」
澪は反論しかけ、やめた。
一理ある。
地下二階、第七修復室。
封印は解除されている。
椅子。
再生装置。
最初にこよみを見た場所。
「一人で行く?」
「はい」
「分かった」
朔は廊下へ残った。
澪は一人で入る。
冷却装置は止まっている。
唸りはない。
机の引き出し。
白い封筒。
中には、二月十四日までに書いた紙。
水城紗奈。十二歳。
冬木こよみ。十二歳。
死にたくない。
生きたい。
それでも、自分を選ばないでほしいと言った。
別の紙。
冬木凪・三枝灯。来年四月、西口商店街で食堂を開く予定だった。
別。
冬木凪は、自分で生きる方を選んだ。
こよみを消すためではない。
そして一枚。
澪には、書いた記憶がなかった。
文字は震えている。
冬木こよみ。
私の娘。
澪は紙へ触れた。
顔は、まだ思い出せる。
左側だけ跳ねた髪。
十二歳。
黄色い絵の具。
でも、以前より少し遠い。
声は、もう完全には再生できない。
「お母さん」
その音が、頭の中で少しずつ別の声に変わろうとしている。
怖かった。
忘れていく。
最後に触れた手の温度も、いつか消えるかもしれない。
忘れたくない。
一つも失いたくない。
その欲望は、第零を十一回、こよみが残る側へ動かしたものと似ている。
愛しているから残したい。
そのために、別の何かを押しのける。
澪は再生装置を見た。
こよみの残存資料はある。
断片的な映像も、声も、意味情報も。
毎日見れば、忘れにくくなる。
その代わり、今の生活が再び、こよみを保存するためのものになる。
澪は装置へ触れなかった。
白い封筒だけを持つ。
「もういいです」
誰もいない部屋で言った。
こよみに。
自分に。
資料館に。
何に向けた言葉かは、決めなかった。
部屋を出ると、朔が待っている。
「取れた?」
「はい」
「見せる?」
「いいえ」
「分かった」
二人で廊下を歩く。
第零収蔵域へ続く区画は完全封鎖されていた。
扉の向こうの神経媒体は停止し、復元不能であることを澪自身が確認した。
秘密の複製もない。
こよみがどこかで眠っている、という希望はない。
悲しい。
それでも必要だった。
救えなかったことと、実は救われているかもしれないことを混同しないために。
午後一時。
資料館を出る。
朔とは門前で別れた。
「これから?」
「凪のところへ。その前に買い物を頼まれました」
「何」
「食材。試作するそうです」
「店、まだないのに」
「元気なので」
「そうだな」
朔は少し迷った。
「こよみのこと。僕が忘れたら、教えてくれ」
「全部は教えません」
「何で」
「あなたが聞いたことだけ。それと、私も忘れるかもしれません」
朔が黙る。
澪は白い封筒を少し上げた。
「残っているものを、一緒に読みます」
朔はゆっくりうなずいた。
「それでいい」
二人は別れた。
駅前の市場。
午後一時三十分。
凪から送られた買い物一覧。
玉ねぎ。
鶏肉。
生姜。
味噌。
米。
林檎。
最後の文字で、澪は足を止めた。
青果売り場には、何種類もの林檎が並んでいる。
赤いもの。
黄色いもの。
小さいもの。
大きいもの。
酸味の強いもの。
甘いもの。
こよみは、どれが好きだった。
厚く切る。
噛んだとき、ちゃんと音がするもの。
そこまでは思い出せる。
品種名は出てこない。
澪は、それを無理に探さなかった。
澪は三つの林檎を手に取った。
一つは軽く、一つは傷がなく、もう一つは少し酸い匂いがした。
正しいものはなかった。
二つを棚へ戻した。
澪は、林檎を一つ選んだ。




