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選ばなかった人生の博物館  作者: カイト
第五部 四十七秒

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22/24

第二十二章 十三分

二月十四日 午後四時〇〇分〇一秒


 林檎は澪の足元で止まっていた。


 赤い皮の一部に、小さな傷がある。


 資料館の床に置かれた、第零世界の林檎。


 拾えば、何かが決まるような気がした。


 根拠はない。


 それでも今は、余計な意味を与えたくなかった。


 扉の向こうに、こよみがいる。


 食卓。


 冷蔵庫。


 雨。


 もう記憶ではない。


 少なくとも、澪の神経装置を通した再生ではない。


「聞こえる?」


「聞こえます」


「そっち、寒そう」


「地下なので」


「こっちは雨」


「見えています」


「変なの」


 こよみが少し笑う。


 澪も、ほんの少し笑った。


 二つの世界の境界で、最初に話すことが天気だった。


 それが妙に救いだった。


 完全接続まで、十二分三十七秒。


 環は三メートル後方。朔はその隣。技術職員はさらに離れている。凪と灯は遠隔。


 誰も制御装置へ触れられない。


 澪だけ。


「こよみ」


 朔が言う。


「さっきの林檎」


「うん」


「厚い方が好きなんだな」


「そう」


「覚えた」


「今度は?」


「紙にも書く」


「お母さんの真似」


「悪いか」


「別に」


 一瞬だけ、いつもの家族へ戻ったように見えた。


 澪は、その家族の記憶を完全には持っていない。


 けれど向こうのこよみには、澪が母親としている。


「お母さん」


「はい」


「林檎、拾わないの」


「まだ」


「食べないと傷むよ」


「そうですね」


「現実の林檎も腐るんだ」


「たぶん」


「データなら腐らないのに」


 こよみは笑っていない。


「私たち、本当にデータじゃない?」


 澪はすぐには答えない。


「分かりません」


「またそれ」


「でも、腐る林檎を落としたのは、少し人間らしいと思います」


「何それ」


「自分でも変だと思います」


 こよみは吹き出した。


 笑いは長く続かなかった。


「あと十二分」


「はい」


「最後に決めるんだよね」


「はい」


「何を選んでほしいか、言った方がいい?」


「言いたいなら」


「でも、言ったら困る?」


「困ると思います」


「じゃあ言わない方が」


「それも、私のために決めないでください」


 こよみの目が止まる。


「言いたいことを言ってください」


「お母さんが困っても?」


「はい」


「嫌われても?」


「たぶん、嫌いにはなりません」


「たぶん?」


「約束できないので」


「そこは約束してよ」


「すみません」


 こよみは不満そうに口を尖らせた。


 それから言う。


「生きたい」


「聞いています」


「さっきより、もっと」


「うん」


「扉が開いて、本当にそっちがあるって分かったら、行きたくなった」


 少女は現在世界の床を見る。


「お母さんに触りたい。お父さんとそっちでも暮らしたい。十三歳になりたい。十四歳も。高校も行きたい。紗奈のこと忘れたくない」


「うん」


「でも、私のためにまた誰か消えるのは嫌」


「聞いています」


「分かるって言わないで」


 澪が止まる。


「お母さんは、消える側じゃない。選ぶ側だから」


「そうですね」


「全部分かるって言わないで」


 澪は言い直す。


「あなたが怖いことを、全部は分かりません」


「うん」


「でも、生きたいことも、選ばれたくないことも、両方聞いています」


 こよみがうなずく。


 それで十分だった。


 午後四時〇三分。


「姉ちゃん。私も言っとく」


 凪の声。


「生きたい」


「聞きました」


「もっとちゃんと。私は、今の私で残りたい。灯のこと忘れたくない。救急の仕事も、食堂も。母さんとも、まだ喧嘩したい」


「最後は必要ですか」


「大事」


「分かりました」


「でも、こよみを消して私を残してって言わない」


「うん」


「私は、私の生きたいを言うだけ。決めるのは姉ちゃん」


 怖い言葉だった。


 もう返さない。


「うん」


 午後四時〇五分。


 環。


「冬木さん。私は、現在世界を残してほしい」


 澪は見る。


「第零の人間が本物である可能性を認めても?」


「認める。それでも、こちらを失いたくない」


「研究を守るためではなく」


「違う。ここで生きてきたから」


 環はそれ以上、根拠も安全性も並べなかった。


「説得はしない。私の望みだけ」


「聞きました」


 環は一歩下がる。


 午後四時〇七分。


 朔。


「第零を残してほしい」


「聞きます」


「こよみのため。僕のためでもある。忘れ始めても、僕はあの世界で生きたと思ってる。時計店も、君と暮らしたことも、こよみを育てたことも、なくしたくない」


「聞きました」


「でも、僕の望みで決めるな」


「はい」


「こよみに怒られるから」


「そうですね」


 午後四時〇九分。


 境界が薄くなる。


 第零の台所が資料館側へ数センチずつ近づくように見える。食卓の脚と冷蔵庫の影が、金属壁へ重なる。


 こよみが手を伸ばす。


「お母さん。手」


 澪も伸ばしかけ、止まる。


「触りたい」


「私も」


「じゃあ」


「まだ」


「何で」


「触ったら、判断が変わるかもしれない」


「変わってよ。私のために」


「それも聞きました」


「全部聞くだけ。自分だけ決める。ずるい」


「はい」


「嫌い」


「うん」


 こよみは手を下ろす。


 すぐ、また同じ高さへ上げた。


「それでも、最後までここにいる」


「うん」


「逃げない」


「うん」


「じゃあ、いい」


 触れない距離で、二人の手が同じ高さにある。


 午後四時十一分。


 制御装置が起動する。


 二つの選択面。


 左、現在履歴。


 右、第零履歴。


 午後四時十三分から四十七秒以内に、一つを選び、物理レバーを最後まで動かす。


 途中で手を離せば、両履歴とも不安定化する。


 第三の道はない。


 澪は財布を開く。


 古い百円硬貨。


 十一歳。


 父。


 母。


 凪。


 表か裏か。


 誰かに決めてほしかった人生。


 硬貨を指先へ乗せる。


「投げるの?」


 こよみが聞く。


「いいえ」


 澪は硬貨を、二つの選択面の間へ置いた。


 ころん。


 小さな音。


 表がどちらを向いたか、見なかった。


「使わないと決めました」


「何を」


「偶然には、決めてもらいません」


 硬貨は、どちらの側にも属さず、中央に残った。


 午後四時十二分。


 混線が最大になる。


 監視画面の道路、家、病院、資料館。二つの履歴が同じ濃さ。


 凪の病室も一瞬、別の部屋へ変わる。灯の姿が薄くなり、戻る。


 こよみの家でも壁が透け、第零の町の人々が見える。


「みんな、怖がってる」


「こちらも」


「じゃあ、私だけじゃないね」


「うん」


 悲しいことでも、救いでもあった。


「お母さん。最後に一個だけ」


「何」


「私を忘れないでって言ったけど、忘れてもいい」


 澪の指がレバーの上で止まる。


「どうして」


「お母さん、もういっぱい忘れてるから。忘れないって約束したら、それ守るために、また誰か傷つけそう」


「うん」


「だから忘れてもいい。そのとき、私がいなかったことにはしないで」


 記憶は消える。


 感情も、名前も。


 それでも存在したことまで、消す必要はない。


「うん」


「それなら、いい」


 午後四時十二分五十秒。


 環は黙っている。


 朔は胸元の紙を握る。


 凪は灯の手を握る。


 こよみはこちらを見る。


 澪は制御レバーへ手を置く。


 硬貨は中央。


 雨。


 資料館。


 林檎。


 時計。


 午後四時十三分〇〇秒。


 完全接続開始。


 残り、四十七秒。


 世界の音が、すべて消えた。


 四十七秒が始まった。


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