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選ばなかった人生の博物館  作者: カイト
第四部 扉の前に立つ者たち

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第二十一章 午後四時の扉

二月十四日 午後二時四十三分


 午後四時まで、七十七分だった。


 資料館の周囲では、半径一・八キロにわたって履歴混線が確認されていた。


 同じ交差点を、ある人は四車線道路として認識し、別の人は古い商店街として認識する。


 存在しないバス停で人が待っている。


 昨日まで知らなかった家族写真を、自分のものだと抱える人がいる。


 逆に、十年以上住んだ家を見ても、何の感情も持てなくなった人もいた。


 それでも街は完全には崩壊していなかった。


 人々は互いに、自分が何を見ているかを説明し合った。道路へ黄色いテープを貼り、紙へ名前を書き、家族同士で昨日の夕食を確かめる。


 どちらが正しい現実かではなく、今、互いが何を覚えているかを残す。


「皮肉ね」


 環が言う。


「何がです」


「博物館が、記憶を保存する施設だったこと」


「今もそうです」


「今まで保存してたのは、管理できる記憶だけ。番号を振り、危険度を決めたもの」


 監視画面には、街の人々が紙へ書く姿。


「人間の記憶は、本当はこんなふうに散らばってる。誰か一人が全部持ってるわけじゃない」


 こよみは、消えた人を一人で覚えようとして壊れかけた。


「だから、一人で保存しようとすると壊れるのかもしれません」


 環は答えなかった。


 外部監督局は午後三時三十分に最後の強制介入を準備している。


 その前に、環は外部からの操作経路を完全に切断するつもりだった。


「本当にやるんですか」


「やる」


「政府側の緊急停止も使えなくなる」


「そう」


「私が間違っても、止められない」


「そう」


「怖くないんですか」


「怖い。でも私が外部へ逃げ道を残せば、最後の瞬間に使う。澪がどちらを選んでも、必要なら止められたと思っていたいから」


「それを捨てる」


「そう」


 環は最終画面へ触れる。


 全外部強制操作系統 切断。


 警告。


 実行後、館内選択基準者以外による現実固定操作は不可能。


「止めてほしい?」


 環が聞く。


 外部から止められる。


 最後に迷えば、環や制度が現在世界を選んでくれる。


「いいえ」


「じゃあ」


 実行。


 外部監督局制御、切断。


 政府系統、切断。


 緊急媒体破棄、切断。


 最後に、環の館長権限。


 現実固定権限 放棄。


「そこまで?」


「私が残したら、同じだから」


 指紋。神経署名。


 実行。


 最終選択基準者 冬木澪。


 環は制御装置から一歩下がった。


「これで、私は決められない」


「後悔しませんか」


「すると思う」


「それでも」


「後悔できるくらいなら、それでいいんでしょう」


 十八年前の澪の言葉。


「私の台詞を取らないでください」


「何を」


「それです」


 環は少しだけ笑った。


 午後三時〇六分。


 凪から映像通信。


 病院のベッド。顔色はまだ悪い。


 隣に三枝灯。


 澪には、やはり二月十三日以前の顔としては思い出せない。


 でも今は知っている。


 凪の手を握る人。


「姉ちゃん。今、話せる?」


「はい」


「灯もいる」


「分かっています」


 灯が少し複雑な顔をする。澪が自分を忘れていると聞いたのだろう。


「私、錨から外れられるって」


 澪の身体が固くなる。


「誰から」


「環先生。神経鍵を切れば、現在世界の固定力が下がる。その分、第零側を選びやすくなる」


「代償は聞きましたか」


「姉ちゃんから聞く」


「記憶欠損、人格混線。最悪、現在世界の凪を維持できなくなる」


「今の私じゃなくなる」


「可能性があります」


 凪は静かにうなずいた。


「やらない」


「いいんですか」


「よくないけど、やらない」


 灯が凪を見る。


「私のため?」


「違う。自分のため」


 凪の答えは早い。


「食堂やりたい。温泉行きたい。救急もまだ辞めたくない。灯と一緒にいたい。だから、自分から消える方向へは行かない」


「私も、それを望みません」


「でも私が錨のまま残ることで、姉ちゃんが現在世界を選びやすくなるなら、それはしょうがない」


「凪」


「私は、生きたい方を選ぶ。その結果まで、私のせいにしないで」


 澪は紙を取る。


「書いて」


 凪が言う。


「冬木凪は、自分で生きる方を選んだ」


 澪は書く。


 冬木凪は、自分で生きる方を選んだ。


 こよみを消すためではない。


「それでいい」


 凪は言う。


「私を残すために選ばなくていい。でも私が残ったら、私が犠牲にならなかったことを責めないで」


「こよみが消えたら、あなたが残ったせいだと思わないで、ということですか」


「思うでしょ」


「思うかもしれません」


「じゃあ、今書いたの読んで」


 澪は紙を見る。


「はい」


 灯へ視線を移す。


「凪をお願いします」


 言ったあと、首を横に振る。


「違います。一緒にいてください」


 預けるのではない。


 凪は、誰かに所有される人ではない。


「はい」


 灯が答えた。


 午後三時三十八分。


 朔は外部解錠系統の前にいた。


 進行率、九九・七パーセント。


 継続の錨を切ったことで、第零側の安定性は低下している。それでも物理扉は開く。


 朔の腕時計は午後三時三十八分。


 現実時刻と初めて一致している。


「動く時計、違和感ありますか」


「少し」


「止めたい?」


「いや。止まってた方が、楽だったのかもしれない。そこから先へ行かなくて済む」


「こよみの顔は」


 聞いてしまう。


 朔は目を閉じる。


「輪郭は、だいぶ薄い。声は少し。名前は残ってる」


「最後に言われたことは」


「私を助けたいって思ってて。でも、私の代わりに決めないで」


「はい」


「そこだけは忘れたくない」


 澪は紙へ書く。


 冬木こよみ。父へ。


 私を助けたいと思っていて。


 でも、私の代わりに決めないで。


 朔へ渡す。


「ありがとう」


「どういたしまして」


「僕は、まだ第零を残してほしい」


「分かっています」


「今の僕なら、たぶんそれでも第零を選ぶ」


「そうですか」


「怒らないのか」


「怒っています。でも、あなたがそう思うことまでは、私が決められません」


 朔が少し笑った。


「やっと公平になった」


 午後三時五十五分。


 地下五階、第零収蔵域前。


 初めて全員が集まった。


 澪。


 環。


 朔。


 技術職員二人。


 凪と灯は遠隔。


 第零側からは、扉越しの直接音声。


「聞こえる?」


「聞こえます」


「お父さんも?」


 朔が近づく。


「いる」


「声、変」


「そうか」


「何したの」


「少し忘れた」


「何を」


「いろいろ」


「私も?」


 朔の口が止まる。


「少し」


 扉の向こうが静かになる。


「そっか」


「寂しい?」


「うん。でも、お父さんが決めたなら、いい」


 朔が目を閉じる。


「ありがとう」


「お父さん」


「うん」


「林檎、厚い方が好きだから」


 朔の顔が崩れる。


「忘れてたでしょ」


「忘れてた」


「じゃあ今、覚えて」


「分かった」


 記憶を戻したのではない。


 忘れた父と娘が、今もう一度知り合った。


「お母さん」


 澪の身体が反応する。


「はい」


「あと五分。怖い」


「私も」


「大人なのに」


「大人でも怖いです」


「じゃあ一緒」


「はい」


 凪の音声。


「私も怖いよ」


「凪さん?」


「初めまして」


「たぶん、初めまして」


 互いの存在によって、もう一方が失われるかもしれない二人。


「ごめんなさい」


 こよみが言う。


「それ言わないで」


「でも」


「私も言わないから。私が生きてること、こよみに謝らない。こよみも、生きたいこと謝らないで」


 扉の向こうで、少女が息を吸う。


「うん」


「生きたい?」


「うん」


「私も」


「うん」


「じゃあ、そこまでは同じ」


「うん」


 澪はその会話を聞いた。


 二人とも、生きたい。


 それだけ。


 午後三時五十九分。


 物理扉の制御表示。


 解錠まで六十秒。


 環が制御盤から離れる。


 朔も。


 職員二人は退避。


 最後に残るのは澪。


「ここから、あなた以外は触れない」


 澪は財布から古い百円硬貨を取り出した。


「投げるの」


 環が尋ねる。


「いいえ」


「なら」


「最後まで持っていきます」


 午後三時五十九分三十秒。


「お母さん」


「はい」


「最後に、私が何言っても、ちゃんと自分で決めて」


「はい」


「姉ちゃん」


 凪。


「私も同じ」


「はい」


「澪」


 朔。


「僕も」


 環は何も言わない。


 制御装置から完全に手を離している。


 それが答えだった。


 五。


 四。


 三。


 二。


 一。


 午後四時。


 地の底で、何か巨大なものが外れた。


 最初は音。


 次に空気。


 冷たい廊下へ、暖かい風が流れ込む。


 高さ三メートルの金属扉が、中央からゆっくり開く。


 向こうは暗闇ではない。


 台所。


 白い壁。


 古い冷蔵庫。


 窓。


 雨。


 食卓。


 そして、十二歳の少女。


 映像でも再生でもない。


 同じ空間の向こうに、こよみが立っている。


 少女の手から林檎が落ちた。


 ころ。


 台所の床を転がる。


 境界を越える。


 資料館の冷たい床へ。


 ころ。


 ころ。


 澪の足元で止まった。


 赤い林檎。


 澪は拾わなかった。


 こよみも動かない。


 午後四時〇〇分〇一秒。


 完全接続まで、十三分。


 二つの世界が、同じ扉の前へ立った。


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