第二章 記憶のほうが先に知っていた
二月十三日 午後四時十四分
緊急時ほど、資料館は静かになる。
警告音が鳴ったのは一度だけだった。その後、第七修復室の空調が止まり、天井の照明が白から赤へ変わった。防音扉の内部で施錠装置が作動し、金属同士の噛み合う硬い音がした。
再生中の記憶を汚染しないため、警報も避難放送も最小限に抑えられている。火災でも、神経逆流でも、収蔵資料の流出でも同じだった。
何が起きたか分からないまま、職員は静かな部屋へ閉じ込められる。
澪は立ち上がった。床が揺れたと思ったが、揺れているのは自分の脚だった。
正面の表示には、赤い警告文が残っている。
第零収蔵域に施錠障害が発生しました。
澪は端末へ手を伸ばした。操作欄は灰色に閉じられ、代わりに文字が出た。
資料隔離処理中
担当者による操作を禁止します
「担当者は私です」
返事はない。
職員証を読み取り部へ当てる。
権限が停止されています。
もう一度。
同じ表示。
処理履歴によれば、澪の資格情報が無効化されたのは六秒前だった。誰かが遠隔操作した。
扉脇の通話装置を押す。
「第七修復室、冬木です。隔離事案を報告します」
呼出音も雑音もなかった。
数秒後、女の声が返った。
「その場から動かないで」
鷺沢環だった。
資料館館長が、現場からの第一報へ直接応答することはない。通常なら地下二階の管理責任者を経由し、安全班と収蔵保全部が派遣される。
「館長ですか」
「そうです。端子には触れた?」
「外しました」
短い沈黙。
「許可を待つべきだったわ」
「再生は終了していました」
「終了表示が出たことと、接続が切れたことは同じではない」
環の声は穏やかだった。叱責しているようには聞こえない。だからこそ、言葉の下にある焦りが分かった。
「身体に異常は」
「ありません」
「頭痛」
「ありません」
「知らない記憶が、自分のものとして残っている感覚は?」
澪は答えかけ、口を閉じた。
林檎の切り方を知っていた。マグカップのひびを知っていた。少女が恐怖を隠すとき、手を見えない場所へ置くことも。
「冬木さん」
「林檎の匂いが残っています」
「実際に匂う?」
息を吸う。室内には機械の熱以外、何の匂いもない。
「感覚として残っています」
「ほかには」
「資料の中にいた人物を、知っているように感じました」
環はすぐには答えなかった。
「その人物は、あなたに話しかけたのね」
澪の指が通話装置の上で止まった。
「記録を見たんですか」
「自動抽出された単語だけ。完全な内容はまだ」
「第零収蔵域について、何か知っていますか」
間。
「表示には触れないで。十分ほどで入るわ」
通話が切れた。
質問への答えはなかった。
壁の時計は午後四時十七分。警告文の下では、完全解錠までの時間が秒単位で減っている。
残り 二十三時間四十二分五十一秒
こよみは、明日の午後四時に扉が開くと言った。警告表示も同じ時刻を示している。
少女の発言に装置が反応したのか。
装置が持っていた情報を少女が読んだのか。
あるいは澪自身が、再生中に未知の表示を予測して混ぜたのか。
可能性を一つずつ並べた。どれも証明できない。
澪は無意識に、右手を鼻元へ運んでいた。指先から林檎の匂いがする気がした。
すぐに下ろす。
――今度こそ、私を選ばないで。
以前にも同じことがあったような言い方だった。
しかし澪は、こよみに会ったことがない。
こよみは現実履歴に一度も存在していない。
扉の施錠が解除された。
最初に入ってきたのは、透明な防護服を着た安全管理員二人だった。二人は澪へ近づかず、室内の神経場と空気成分を測定する。床の端子を専用容器へ収め、椅子と再生装置の間へ遮断布を下ろした。
その後から、鷺沢環が入ってきた。
六十二歳。灰色の髪を顎の下で切りそろえ、濃紺の上着を隙なく着ている。研究職を離れ、館長になってから、環が白衣を着ているところを澪は見たことがなかった。
歩調も表情も普段と変わらない。
ただ、部屋へ入った直後、環の視線は澪ではなく、赤い警告表示へ向かった。
そこに書かれた内容を、初めて見た者の目ではなかった。
「瞳孔を確認させて」
環は小型照明を受け取り、左右の目へ順に光を当てた。
「まっすぐ見て」
「館長」
「今は質問をしないで」
「第零収蔵域は存在するんですか」
光が消えた。
「反応は正常。脈拍は?」
「九十八です」
管理員が答える。
「高いわね」
「再生直後ですから」
「そうね」
環はようやく澪を見た。その目は冷たいのではなかった。むしろ傷つけないよう言葉を選ぶ目だった。
環がその目をするとき、すでに結論を決めている。
「今回の資料には、重度の観測汚染が起きた可能性が高い」
「記憶内の人物が、観測者を認識しました」
「それだけなら前例はある」
「名前を呼ばれました」
「再生装置はあなたの神経活動を利用して欠損を補完する。自分の名前を知っているのは当然でしょう」
「個人情報は送信されません」
「文字列としては送られない。でも自分を自分として認識する神経パターンは接続に必要になる。資料側がそれを名前へ変換した可能性はある」
理屈としては成立する。
装置は一方的に記憶を流し込むだけではない。欠けた部分を補うため、観測者の認識を借りる。
「人物は、冬木こよみと名乗りました」
「あなたの姓が使われたことも、汚染の証拠になり得る」
「所有者欄にも同じ名前が出ました」
「再生後に?」
「はい」
「なら、あなたが聞いた名前を索引機構が拾ったのでしょう」
淀みのない説明だった。
澪は表示へ目を向ける。
「なぜ、生年月日まで」
「未生記憶の中では、人物に年齢や経歴が与えられる。珍しくない」
「第零収蔵域は」
「今は、その話をしていない」
「警告表示は、少女が口にした名称を認識しました。存在しない区画なら、施錠障害は起きません」
環の顔から、わずかに表情が消えた。
「第零という名称は、初期開発時代の試験領域に使われていたものよ」
「今も稼働しているんですか」
「現在の収蔵施設とは無関係」
「扉はないのに、施錠だけが誤作動したと?」
「冬木さん」
環の声が低くなる。
「あなたは強い記憶残留の影響下にある。判断力が損なわれている可能性があるわ」
「だから質問をするなと?」
「今すぐ結論を出さないでと言っているの」
「私は結論を出していません」
声が思ったより強く響いた。
安全管理員たちは作業を続け、会話を聞いていないふりをしている。
「一次観測者には、隔離前に原記録の保全状態を確認する義務があります。収蔵資料取扱規程、第四十二条です」
「緊急隔離時には館長権限で省略できる」
「省略理由を記録する必要があります」
「記録するわ」
「理由は」
「あなたを原記録から遠ざけるため」
「資料を守るためではなく?」
環の視線が一瞬外れた。
「三分だけ許可します」
遮断布の前に立ち、館長権限を認証する。灰色に閉ざされていた画面が開いた。
再生履歴。
神経接続履歴。
修復補完率。
色彩安定処理。
意味情報抽出。
「見て」
再生開始。
一六時一三分〇〇秒〇二一。
再生終了。
一六時一三分四七秒〇二一。
規定どおり四十七秒。
所有者名の確定処理は、一六時一三分五九秒四四二。
「索引機構が再生内容を解析した結果です」
環が言う。
「あなたが名前を聞いたあと、その情報が所有者欄へ反映された」
澪は画面へ顔を近づけた。所有者名確定処理の左側に、小さな三角形がある。
「開いてください」
「必要ない」
「表示されています」
環は一瞬ためらい、詳細を開いた。
意味照合。
戸籍照合。
既存収蔵記録照合。
いずれも該当なし。
最下段。
所有者自己申告情報 検出
「自己申告」
記憶資料が、自分の所有者名を申告することはない。
澪は検出時刻を見る。
二月十三日 一六時一二分五十九秒八〇三。
再生開始の二百十八ミリ秒前。
「再生前です」
環が画面を閉じようとする。
澪は反射的にその手首をつかんだ。
安全管理員が顔を上げる。
澪はすぐ離した。
「すみません」
環は怒らなかった。ただ自分の手首と澪の顔を順に見た。
「二百十八ミリ秒なら、時刻同期の誤差として説明できる」
「この室内の処理系は、同じ基準時計です」
「内部の緩衝領域は別」
「昨年の更新で補正されました。私も作業に参加しています」
記録順序の誤認は、未生記憶の法的証拠能力へ関わる。入力、再生、補完、観測者反応は、一ミリ秒以下で同期されている。
「接続履歴を見せてください」
「時間です」
「あと一項目」
「三分経ったわ」
壁の時計は午後四時三十三分だった。三分どころではない。環も知っている。
「接続履歴を」
澪は繰り返した。
環は目を閉じ、短く息を吐いた。神経接続履歴を表示する。
端子装着。
生体確認。
観測者識別。
神経同期。
受信経路開放。
送信経路制限。
再生開始。
神経同期が完了したのは、一六時一三分〇〇秒〇二一。再生開始と同時。
それ以前、正規経路で資料側へ澪の神経信号は送られていない。
画面下部で、通常の接続履歴にはない項目が点滅した。
外部観測者照合要求
時刻、一六時一二分五十九秒六一二。
再生開始の四百九ミリ秒前。
要求元。
資料内部。
照合対象。
冬木澪。
澪は何も言えなかった。
こよみという所有者名より先に、自分の名前がある。
資料は、澪が接続される前に、冬木澪という観測者が外側にいるかを照合していた。
環が画面を閉じた。
今度は澪も止めなかった。
「記録は隔離する」
環が言う。
「複製は禁止。これ以降、あなたが直接確認することも認めません」
「今の項目を、以前に見たことがありますか」
「ないわ」
「本当に?」
環は澪の目を見た。
「少なくとも、同じ形では」
完全な否定ではなかった。
安全管理員が再生装置へ黒い封印板を取りつける。端子の入った容器にも番号が振られ、館長認証が施される。
すべての作業が、澪から資料を遠ざけるために進んでいく。
「色彩記録は」
澪が言った。
「何の話?」
「黄色です」
少女の袖口に付着していた絵の具。冷蔵庫の星形磁石。ほかの色よりわずかに鮮明だった。
「黄色の補正履歴だけ確認してください」
環が拒絶しようとしたとき、遮断布の向こうで装置が小さな処理音を出した。
安全管理員が端末を見る。
「館長。色彩処理に例外があります」
赤、補完率六十二パーセント。
青、五十八。
白、七十一。
灰色、四十九。
黄色だけが違った。
補完率 一〇〇パーセント
観測者情報使用率 〇パーセント
安定補正 不使用
資料所有者による原情報固定
「原情報固定の指定は、寄贈者が事前に設定しなければ入りません」
管理員が言う。
「機器故障として記録して」
環は答えた。
「装置全体に異常が起きている。個々の表示を独立した事実として扱わないで」
澪は黄色い絵の具を思い出した。
こよみは、あの色を外側へ見せようとしていた。
そう考えた途端、それが自分の推測なのか、少女から流れ込んだ認識なのか分からなくなった。
「今日はもう勤務を続けられない」
環が言う。
「医務室で検査を受けたあと帰宅して。三日間の職務停止にします」
「明日の午後四時に扉が開きます」
「扉が実在するとは確認されていない」
「警告は今も動いています」
赤い数字が減り続ける。
残り 二十三時間十二分一七秒。
「外部への連絡は禁止。資料の内容を同僚や家族へ話すことも認めません」
「一次観測報告も?」
「私の監督下で作成する」
「私の言葉で?」
「当然よ」
澪は、その当然を信じられなかった。
「こよみは、人間ですか」
問いは意図しない形で口から出た。
環の視線が止まる。
「現実履歴上は存在していない」
「答えになっていません」
「今は答えられない」
「資料なら、明日消去しても問題はない?」
「冬木さん」
「人間なら、閉じ込められています」
環は端末を胸元へ抱えるように持った。
「今、その二つを区別しようとしないで」
「いつ区別するんですか」
「あなたが、あの子を自分の娘だと感じなくなってから」
澪の胸の奥で何かが強く縮んだ。
娘。
環が初めて、その言葉を使った。
澪自身は、一度も言っていない。
環は失言に気づいたようだったが、取り消さなかった。
「医務室へ行って。これは命令です」
澪は抵抗しなかった。
修復室を出る直前、もう一度振り返る。
黒い封印板。
空の椅子。
赤い数字。
廊下へ出ると、通常照明が眩しかった。
澪は歩きながら、時刻を並べ直した。
再生開始より前に、こよみの名があった。
そのさらに前に、冬木澪への照合要求があった。
その時点では、澪の神経接続は成立していない。
澪がこよみを見るより前に、こよみは澪を探していた。
記憶のほうが、澪を先に知っていた。




