第一章 母親になった記憶
二〇五〇年二月十三日 午後四時十三分
母親になった記憶を、冬木澪は三十八歳の冬に初めて持った。
子どもを産んだことは、一度もなかった。
記憶が再生されたのは、国立未生記憶資料館、地下二階、第七修復室の暗がりだった。
窓のない部屋では、冷却装置が低く唸っていた。澪は黒い椅子に腰を沈め、こめかみへ銀色の端子を貼りつけていた。正面の防音ガラスに、白い文字が浮かんでいる。
所有者 不明
記憶時間 四十七秒
発生分岐 二〇三二年二月十四日
所有者不明の記憶は珍しくない。
人は、自分が選ばなかった人生について、驚くほど無責任になれる。
別れなかった恋人。助けられた子ども。犯さなかった過ち。そうした人生を匿名で持ち込む者もいれば、死後に家族が名前を消して寄贈することもある。
未生記憶は未来予知ではない。重大な選択の直前、脳が作った予測の残りだ。普通なら数秒で消える。消えなかったものを、この資料館は集めていた。
澪の仕事は、欠けた記憶を修復することだった。
見たいものを足さず、見たくないものを削らず、選ばれなかった人生を、選ばれなかった形のまま残す。
その仕事を、澪は十六年続けていた。
接続深度、三十二パーセント。
緊急遮断、正常。
逆流防止機構、正常。
同じ表示を、澪は上からもう一度確かめた。手順を繰り返すことに意味はない。それでも、確認を一つ省いた日に限って事故は起こる。そういう考えを、澪は迷信ではなく職業倫理と呼んでいた。
右手を、再生装置の黒いスイッチへ置く。
「未登録資料、一次再生を開始します」
修復室には一人しかいなかった。それでも澪は必ず声に出した。言葉にしておけば、少なくとも自分が何をしたかは残る。
スイッチを押した。
暗闇が裏返った。
次の瞬間、澪は見知らぬ台所に立っていた。
夕方だった。
古い窓を、細い雨が斜めに流れている。壁紙は白かったはずだが、湿気と時間を吸い、隅から薄い灰色へ変わっていた。流し台の上には洗い終えた皿が二枚。水滴が一定の間隔で落ちている。
冷蔵庫は旧式だった。扉の表面に、黄色い星形の磁石が貼られている。
小さな食卓には、切りかけの林檎があった。
赤い皮。白い果肉。まだ少し青い、酸味の強い匂い。
澪には、その品種が分かった。
分かるはずがなかった。
見たことのない台所だった。触れたことのない食卓だった。それでも、冷蔵庫の下段に賞味期限の切れた苺のジャムがあることを知っていた。流し台の奥の白いマグカップには、取っ手の内側にひびがある。窓枠の上の小さな時計は、去年の夏から動いていない。
そして食卓の向こうで、少女が機嫌を損ねている。
少女は澪に背を向け、林檎を切っていた。小学校高学年ほど。紺色のセーター。髪は肩より少し長く、左側だけが外へ跳ねている。袖口には、黄色い絵の具が乾いていた。
包丁が、まな板へ触れた。
とん。
少し間を置いて、もう一度。
とん。
林檎は不揃いに切られていた。一切れごとに厚さが違う。
少女は昔から、薄く切った林檎が嫌いだった。
厚い方が、噛んだときにちゃんと音がするから。
澪はそう思った。
考えたのではない。
思い出した。
胸の奥に、鋭い痛みが走った。
異常を検知したとき、修復士は直ちに再生を中断する。訓練された意識が手順を呼び起こそうとした。
だが、記憶の内部にスイッチはない。
そこにあるのは雨音と、林檎の匂いと、少女の背中だけだった。
少女が包丁を置いた。
「お母さん」
澪は息を止めた。
未生記憶の中で、観測者が別の立場を与えられることはある。死んだ友人になったり、選ばなかった配偶者になったり、ときには名前のない他人になったりする。
問題は、その声が場面の中にいる母親へ向けられたものではなかったことだ。
少女はまだ背を向けている。
それでも澪には分かった。
呼ばれたのは、再生装置につながれている自分だった。
「お母さん」
少女はもう一度言い、ゆっくり振り返った。
その目を見た瞬間、澪の喉の奥で何かが音もなく崩れた。
自分によく似た目だった。まぶたの形も、黒目の色も、泣くまいとするときに視線を少し下げる癖も。けれど口元だけは、澪の知らない誰かに似ていた。
少女は真正面から澪を見ていた。
記憶の中の人物が観測者を見ることはない。どれほど精密でも、舞台の役者は客席を知らない。
少女は違った。
「聞こえてるよね」
雨粒が窓を滑り落ちる。
「そっちにいる澪に話してる」
名前を呼ばれた。
再生装置は観測者の氏名を資料側へ送らない。個人情報は、欠損補完に必要な神経信号から分離される。
少女は右手を食卓へ置いた。指先のすぐそばに、切りかけの林檎があった。
「時間がないから、よく聞いて」
声は落ち着いていた。
落ち着こうとしている声だった。
「明日の午後四時、第零収蔵庫の扉が開く」
第零収蔵庫。
澪はその名称を知らなかった。
この資料館の収蔵庫は第一から第十二まで。第零などという区画は、館内図にも職員記録にも存在しない。
「開いたら、私は生まれる」
少女の声がわずかに震えた。
「こっちじゃなくて、そっちに」
冷蔵庫の唸りが止まった。
代わりに、修復室の冷却装置に似た低い音が、台所の壁の向こうから聞こえ始める。
少女は一度、背後を振り返った。何かが近づいてくるのを警戒するような動きだった。
「でも、その代わりに、みんなから『もし』がなくなる」
「もし」
澪は繰り返した。声になったかどうか、自分でも分からない。
少女には聞こえたらしい。小さくうなずく。
「選ばなかった方を、考えられなくなる。あのとき違うことをしてたらって、思えなくなる」
「あなたは」
ようやく声が出た。
「あなたは、誰なの」
台所の照明が一度明滅した。
窓を流れていた雨粒が止まる。空中に浮いたまま、細い銀色の線になった。
少女の輪郭に亀裂が入る。
最初に右手の小指が崩れた。皮膚ではなく、光の粒になって宙へ散っていく。
少女は消えかけた手を見た。恐怖がその顔を横切った。
ほんの一瞬だった。
すぐに何でもないふりをして、手を食卓の下へ隠した。
その仕草まで、澪には覚えがあった。
熱を出したとき。学校で嫌なことがあったとき。何かを壊し、それを言い出せないとき。
この子は怖がっていることを隠す。
何度もそうしてきた。
澪の知らない十二年間の中で。
「冬木こよみ」
少女が言った。
「十二歳」
右手が手首まで消えた。黄色い絵の具のついた袖が、支えを失った布のように垂れる。
「冬木……」
自分と同じ姓を、澪は口の中で繰り返した。
こよみは少しだけ笑った。うまく笑えなかったときの、子どもの顔だった。
「お母さんが、選ばなかった娘だよ」
台所の奥から、硬いものを引きずるような音がした。
こよみがそちらを見る。
「もう来る」
「何が」
「ここを直すもの」
少女の肩が欠けた。その向こうにあるはずの壁が、暗闇へ溶けている。
「待って」
澪は手を伸ばした。
指先が食卓へ触れる直前、表面が水面のように揺れた。
触れられない。
分かっていた。
それでも、もう一度手を伸ばした。
「どうすればいいの」
こよみの目から、初めて涙が落ちた。頬を流れた滴は、顎へ届く前に光へ変わった。
「今度こそ」
世界が暗くなっていく。
「私を選ばないで」
姿が消えたあとも、声だけが残った。
「お願い、お母さん」
暗闇が閉じた。
澪は第七修復室の椅子に戻っていた。
冷却装置が唸っている。
両手が肘掛けを強く握っていた。爪が黒い革へ食い込んでいる。
鼻の奥に、まだ林檎の匂いが残っていた。
あり得ない。再生は終わっている。匂いは神経信号であり、修復室の空気には何も混ざっていない。
それでも酸味のある甘い匂いが消えなかった。
端子を外そうとした。一度目は指が滑った。二度目で留め具が外れ、銀色の端子が床へ落ちた。
乾いた音。
正面の表示が切り替わった。
記憶所有者 冬木こよみ
生年月日 二〇三七年九月二十一日
年齢 十二歳
現実履歴上の状態 未出生
未死亡ではない。
行方不明でもない。
未出生。
生まれていない。
澪は名前を声にしようとした。
その前に警告音が鳴った。
一度だけ。高く、短い音だった。
表示全体が赤く染まる。
緊急警告
第零収蔵域に施錠障害が発生しました
完全解錠予定時刻
二〇五〇年二月十四日 午後四時〇〇分
壁の時計が、一つ進んだ。
午後四時十四分。
再生時間は四十七秒だったはずなのに、残りの十三秒をどこで失ったのか、澪には分からなかった。
秒針が次の目盛りへ進む。
明日まで、二十三時間五十九分だった。




