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選ばなかった人生の博物館  作者: カイト
第一部 声の所有者

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第三章 林檎の厚さ

二月十三日 午後四時五十分


 医務室の検査装置は、澪に七つの質問をした。


 名前は。


「冬木澪」


 年齢は。


「三十八歳」


 現在地は。


「国立未生記憶資料館、地下二階医務室」


 今日の日付は。


「二〇五〇年二月十三日」


 最後に食事をした時刻は。


「午後零時二十分ごろ」


 そのとき食べたものは。


「鶏肉と根菜の煮込み。白米。味噌汁」


 あなたに子どもはいますか。


 澪は答えなかった。


 正しい答えはすぐ浮かんだ。


 いない。


 結婚した経験も、妊娠したことも、子どもを養育したこともない。戸籍にも医療記録にも写真にも、自分を母親として示すものは存在しない。


 ただ、その二文字を声にしようとすると、身体のどこかが拒んだ。


 腹部の奥に、ありもしない傷が引きつる。腕の内側には、小さな身体を抱いたあとの重みが残っている。夜中に隣室の呼吸を確かめに行ったことがある気がした。


「質問を繰り返します。あなたに、子どもはいますか」


「いません」


 答えた瞬間、胸の奥に痛みが走った。


 失った事実がないにもかかわらず、何かを否定した痛みだけがあった。


 装置の側面に黄色い表示が点灯する。


 回答遅延 二・七秒

 自伝的記憶との軽度不整合を検出


 再質問。


「あなたに、子どもはいますか」


「いません」


 今度は一秒もかからなかった。


 だからといって、最初より正確になったとは思えない。


 検査は続いた。


 短期記憶。運動反応。嗅覚認識。現実検討能力。


 画面に映る八枚の写真から、実在する場所と未生記憶から抽出された場所を選び分ける。


 澪はすべて正答した。


 最後に林檎の写真が表示された。


 赤い林檎が、白い皿に一つ。


 澪は反射的に目を逸らした。


「気分が悪いですか」


 透明な仕切りの向こうで、技師が尋ねる。


「いいえ」


「心拍数が上がっています」


「分かっています」


 写真の林檎は、こよみが切っていたものとは違う。それでも鼻の奥に、あの酸味が戻った。


 澪は手のひらを握る。爪が皮膚へ食い込む感触を確かめた。


 これは現在の身体だ。


「急性の記憶逆流は認められません」


 検査を終えた技師が言った。


「見当識は正常。運動野、言語野にも異常なし。ただし特定刺激に対する自伝的反応が強く出ています。少なくとも今夜は再生装置へ接続しないでください」


「館長から三日間の職務停止を命じられています」


「妥当です」


 技師は検査端子を外した。


「帰宅後、知らない場所を自宅だと感じたり、会ったことのない人物の名前が浮かんだりした場合は、すぐ連絡を」


 すでに起きている。


 澪は報告しなかった。同じ内容は神経反応から十分読み取られている。言葉にすれば、観察期間が延びるだけだ。


「退館しても?」


「館長から、検査後に待機するよう指示されています。外の面談室です。迎えが来ています」


「迎え?」


 技師は答えず、扉を開けた。


 廊下の待合椅子の端に、男が一人座っていた。


 濡れた黒い外套を脱がず、両手を組んで前へ垂らしている。髪には雨の跡が残っていた。


 久世朔(くぜさく)


 三十九歳。


 神経工学者。未生記憶の長期固定技術を開発した人物の一人。資料館の設立に関わり、現在は館外の研究機関で治療部門を統括している。


 澪は彼について、多くの事実を知っていた。


 大学時代、同じ研究室にいたこと。


 十八年前の第零実験に、神経安定役として参加したこと。


 事故後、研究所を去ったこと。


 そして二十歳のころ、澪と恋人同士だったこと。


 その事実だけは履歴書にも研究記録にもない。凪や環から聞いた。朔本人からも一度だけ聞かされた。


 だが澪には、彼を愛していた記憶がなかった。


 一緒に歩いた道も、初めて触れたときも、別れたときに何を言ったかも知らない。並んで写った古い写真の中で、澪は朔の肩へ頭を預けて笑っていた。その顔が他人に見えた。


 朔は澪に気づいても、すぐには立ち上がらなかった。


 顔を見たあと、視線を手元へ落とす。


 やがて口を開いた。


「林檎は、厚く切っていたか」


 挨拶はなかった。


 澪は医務室の扉の前で止まった。


「その質問に何の意味があるんですか」


「僕にはある」


「再生記録を見たんですか」


「見ていない」


「音声抽出は」


「こよみという名前が検出されたことしか聞いていない」


「誰から」


「第零の監視系から、自動通知が来た」


 環は、第零を現在の施設とは無関係な旧試験領域だと言った。


 その監視系から、朔へ通知が届く。


「なぜあなたに」


「説明するには、五分では足りない」


「では先に、林檎の厚さを知っている理由を」


 朔は息を吸い、答えかけてやめた。


 代わりに左手を上げ、濡れた髪を額から払う。


 袖口から古い腕時計が見えた。


 傷の多い文字盤。何度も修理された革帯。秒針は動いていない。


 長針は十三分。


 短針は四時を少し過ぎた位置。


 午後四時十三分。


「壊れているんですか」


「十八年前から」


「なぜ直さないんです」


「直せないから」


「あなたなら直せるでしょう」


 朔の実家が時計店だったことを、澪は知っている。


「機械の話じゃない」


 朔は立ち上がった。


「五分だけ話したい」


「私は職務停止中です」


「仕事の話じゃない」


「なら、なおさら理由がありません」


「林檎は」


 朔はもう一度言う。


「薄かったか。厚かったか」


 澪は、面談室へ向かった。朔もついてくる。


 室内には机と椅子が二脚ずつ。壁の一面が曇りガラス。


「五分です」


 澪は机を挟んで座った。


「こよみは林檎をどう切っていた」


「記憶の内容は機密指定されています」


「薄かったか、厚かったか。それだけでいい」


「なぜ確認になるんです」


「僕の知っているこよみと同じか分かる」


「あなたの知っている?」


「そうだ」


 朔は机へ両手を置いた。左手の人差し指に、小さな白い傷がある。


 澪はその傷を知っている気がした。


 刃物。古い機械。血のついた布。


 一瞬だけ断片が浮かび、消えた。


「名前だけを聞いたと言いましたね」


「聞いたのは名前だけだ」


「髪は」


「肩より少し下。左側だけ跳ねる」


「袖に黄色い絵の具がついていました」


 朔の指が、机を一度擦った。


「扉を描いていたんだな」


「なぜ分かるんです」


「前から描いていた」


「いつから」


 朔は答えない。


「少女は十二歳だと名乗りました。生年月日は二〇三七年九月二十一日」


 朔は目を閉じた。初めて聞いた日付への反応ではなかった。


「知っていたんですね」


「知っていた」


「どこから」


「覚えている」


「何を」


「その日を」


 話す気があるようで、必要な部分だけを避けている。


 環と同じだった。


 二人とも、澪を守るために情報を制限しているような顔をする。そして守られている側には、何から守られているかを知らせない。


 澪は上着のポケットへ指を入れた。財布の内側に、古い百円硬貨がある。十一歳の冬から持っている。何かを決めなければならないとき、無意識に縁をなぞる。


 投げたことは一度もない。


「あなたが資料を作ったんですか」


「どういう意味だ」


「私を誘導するため、こよみという人物を作った。あなたなら、再生前の照合要求を偽装できる」


「技術的にはできる」


 否定しなかった。


「でも、僕は送っていない」


「証明できますか」


「今はできない」


「なら、信用する理由もありません」


「そうだな」


 あまりに簡単に認めたため、澪は次の言葉を失った。


「君は昔から、信用できるかどうかを最初に決めようとした」


「昔の私について話さないでください」


「どうして」


「確かめようがないからです」


「君が覚えていないことは、起きなかったことになるのか」


「そうは言っていません」


「なら、事実として話してもいいはずだ」


「あなたに都合のよい事実か、判断できません」


 壁の時計が午後五時六分へ進んだ。


「私たちは恋人だった」


 澪は記録を読むように言った。


「二〇三一年六月から二〇三二年二月まで。第零実験のあと関係は解消。私は事故前後の感情記憶を隔離した。あなたは研究所を去った」


「大筋では合ってる」


「私は、あなたを愛していたんですか」


 朔の顔から表情が消えた。


「愛していたよ」


 やがて言った。


「少なくとも僕は、そう思っていた」


「私が、あなたを」


「それを僕に聞くのは不公平だ」


「なぜ」


「僕が何と答えても、君には証明できない」


 その言葉だけは、澪の考えと一致した。


 朔は止まった時計を親指で擦る。


「君は僕を忘れたんじゃない。僕に向けていた感情を切り離した。名前も顔も経歴も残ってる。でも、その情報が君の人生にとって何だったかが抜けた」


「知っています」


「知識としては」


「それ以上を求められても困ります」


「求めていない。僕を思い出してほしくて来たんじゃない」


「では、こよみを?」


「そうだ」


 迷いのない答えだった。


「少女は、機嫌が悪いときに左足で床を擦っていました」


 朔の呼吸が止まる。


「そうか」


「知っていた?」


「三歳くらいからの癖だ」


「彼女は現実には生まれていません」


「現実履歴には」


「言い換えても同じです」


「同じじゃない」


 朔の声が初めて強くなった。


「存在していないことと、現実履歴に採用されていないことは違う」


「資料の中で人物が一貫した特徴を持つことはあります」


「十八年間、一貫していても?」


 澪は答えなかった。


「こよみは今日作られたんじゃない。十二年前に生まれた。歩いた。言葉を覚えた。嘘をついた。熱を出した。僕を嫌いだと言って、翌朝、言いすぎたと泣いた」


 朔は一つずつ、事実を机へ置くように話した。


「七歳のとき、自転車に乗ろうとして転んだ。慰めたら怒った。手を貸したら、触るなと言われた。その日の夜、膝の傷が痛いのに誰にも言わなかった」


 最初の再生で見た少女が浮かんだ。消えていく右手を、食卓の下へ隠した。


「それは、あなたの未生記憶です」


「そうだ」


「脳が作った予測にすぎない」


「最初は」


「最初は?」


 朔は答えず、澪の顔を見た。


「林檎は、厚かったんだな」


 澪は沈黙した。


「包丁が下手なんじゃない。薄く切るのが嫌いなんだ。噛んだときに音がしないから」


 澪の背中を冷たいものが走った。


 それは記憶の中で、澪が思い出したことだった。少女は言葉にしていない。音声抽出にも残らない。


「その情報を、どこで」


「こよみから聞いた」


「資料の中で?」


「朝食のときに」


「いつ」


「八歳の冬」


 即答。


「僕が林檎を薄く切った。こよみは一口食べて、病院の食事みたいだと言った。澪が、病院でこんなものは出ないと笑った」


 その場面の中に、自分がいる。


 映像は浮かばない。


 代わりに、硬い果肉を噛む小さな音がした。


 しゃく。


 澪は机の縁へ手をついた。


「大丈夫か」


 朔が立ち上がる。


「座っていてください」


「顔色が」


「近づかないで」


 朔は止まった。


 澪は呼吸を数える。音は消えた。それでも口の中に酸味が残っている。


「今の話が私の記憶を刺激すると、分かっていたんですか」


「可能性は考えた」


「それでも話した」


「時間がない」


「だから私の状態は二の次ですか」


「違う」


「では、何が一番なんです」


 朔は答えなかった。


 答えは分かっていた。


 こよみだ。


「こよみは何と言った」


「機密です」


「扉を開けろと?」


「答えません」


「自分を外へ出してほしいと?」


「答えません」


「僕の名前は出たか」


 澪は朔の顔を見る。


 恐れている。


 こよみが自分を覚えていないのではないか。父親として認識していないのではないか。


「あなたの名前は出ませんでした」


 朔の目が伏せられた。


「そうか」


「私に、第零を開けるなと言いました」


 朔が顔を上げる。


「開けるな?」


「開けば自分が生まれる。その代わりに、みんなから『もし』がなくなると」


「今度こそ、と言ったか」


 澪は動かなかった。


「なぜ知っているんです」


「言ったんだな」


「説明してください」


「こよみは、今も何かを覚えている」


「何を」


 朔は机を回り込みかけ、澪の視線を受けて止まった。


「環は記録を破棄する」


「館長は隔離すると」


「同じことだ。第零に関して、あの人の言葉をそのまま信じるな」


「あなたの言葉を信じる理由もないと確認しました」


「だから見せる」


「何を」


「僕の記憶を」


 澪は眉を寄せた。


「あなたが保持している第零実験の未生記憶?」


「その一部だ」


「観測汚染の疑いがある状態で、別の資料へ接続しろと?」


「正式な再生装置は使わない。僕を中継にする」


「直接接続は規程違反です」


「知っている」


「神経境界が崩れる危険も」


「それも」


「そこまでして何を見せるんです」


 朔は止まった時計へ右手を重ねた。


「こよみが、作られた役柄ではないこと」


「記憶を見せても証明にはなりません。あなたが信じているという事実しか分からない」


「それでいい。今の君は、僕が嘘をついているのか、本当に覚えているのかさえ判断できない。まずそこを確かめればいい」


 澪はポケットの硬貨へ触れた。


 表なら環。


 裏なら朔。


 そう決めれば、考えなくて済む。


 硬貨を取り出す。


 擦れた桜の模様。


 親指の爪へ載せる。


 朔がそれを見て、目を見開いた。


「まだ持っていたのか」


 澪は硬貨を投げなかった。


 財布へ戻す。


「見せる場面は、私が選びます」


「分かった」


「幸福な記憶は除外します」


「なぜ」


「理想化された未生記憶でないことを確認するためです。誕生日、入学、家族旅行ではなく、価値のない記憶を」


「価値のない記憶」


「起きても起きなくても、人生の意味が変わらないような場面です」


 朔はしばらく考えた。


「七歳の秋。こよみが自転車に乗れなかった日がある」


「成功した日ではなく?」


「乗れないまま帰った。膝を擦りむいて、僕に怒って、澪と僕が喧嘩した。それだけの日だ」


 面談室の扉が二度叩かれた。


「冬木さん。鷺沢館長がお呼びです」


 澪は扉を見た。


 環のもとへ行けば、朔との面談は終わる。帰宅を命じられる。第零からも、こよみからも遠ざけられる。


 朔についていけば、規程違反の直接接続。


 どちらも信じられない。


 澪は扉の向こうへ言った。


「館長には、医務室で追加検査を受けると伝えてください」


「指示は出ていません」


「症状が再発しました。嗅覚残留と、自伝的記憶の混線です」


 嘘ではない。


「分かりました」


 足音が遠ざかる。


 朔は澪を見ていた。


「僕を選んだのか」


「違います」


 澪は立ち上がった。


「あなたが嘘をついているか、確かめることを選びました」


 朔は、ほんのわずかに笑った。懐かしいものを見るような笑い方だった。


 澪には、その意味が分からなかった。


「接続場所は」


「旧観測室。ここから二階下」


「立入権限は停止されています」


「僕が開ける」


「昔の認証で?」


「違う」


 朔は止まった時計を見る。


「第零が、僕をまだ認識している」


 澪は外套を取る朔を見た。


「最後に一つ、先に答えてください」


「何を」


「あなたにとって、冬木こよみは誰ですか」


 朔の動きが止まった。


 閉館を告げる放送が、遠くで流れ始める。


 地上では一日が終わろうとしている。人々は夕食を考え、明日も今日と同じ世界が続くと思いながら帰っていく。


 朔は外套を椅子へ戻した。


「言葉だけで説明しても、君は信じない」


「信じるかどうかは、私が決めます」


「そうだな」


 朔は澪を正面から見た。


「僕は、あの子が生まれた日のことを覚えている」

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