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王都の夜明け前。

誰もいない静かな公園のベンチで、私は手元にある小さな紙袋を開けていた。

数日前、アウグスト領でエルセと会ったときに手渡された焼き菓子。

実家を出るとき、私は伯爵令嬢としての身分も、華やかなドレスも、きらびやかな宝飾品も、すべてをその場に脱ぎ捨ててきた。愛用の武器を含め、旅に必要な道具はすべて私の空間魔法の領域に放り込んである。だから、私の背負うカバンは驚くほどに軽くて、実際は空っぽに等しい。

どんな物も収納できる、便利な魔法。

――だけど、どうしてか、このエルセのクッキーだけは放り込むことができなかった。

「……相変わらず甘すぎるのよ、エルセのお菓子は」

ぶつぶつ文句を言いながら、一口ずつ、噛み締めるように食べる。それは甘くて、優しくて、「大好きな日常」の味がした。

最後の一粒をしっかりとお腹に収め、紙袋を丁寧に畳んでポケットに突っ込む。

そこで、私の失恋(かんしょう)は完全に終わりだった。

「ふん。泣き言なんて、私の辞書にはないのよ」

顔を上げ、いつもの不敵な笑みを貼り付ける。

そのまま地面を蹴り、王都で一番高い教会の時計塔の天辺へと、音もなく一躍で跳び上がった。

冷たい夜風が燃えるような赤髪を激しく揺らす。

膝を抱えて感傷に浸るなんて、世界一格好いい私に似合うわけがない。私は時計塔の縁に堂々と腰掛け、眼下に広がる王都の夜景を、傲然と見下ろした。

これからは手加減なし。全部、私のために、この圧倒的な力を存分に振り回して進んでやる。

やがて、地平線の彼方から真っ赤な朝日が昇り、王都の街並みを鮮烈に照らし始める。

朝日に染まる自分の赤髪を見つめ、私はニヤリと、最高に生意気で美しい笑みを浮かべた。

不意に、指先をパチンと鳴らす。

そこには、朝日すら霞むほどに高密度な、真っ白な極小の炎が踊っていた。私の魔力、私の情熱。それは一瞬で周囲の冷気を焼き切り、夜明けの空気の中に鮮烈な火花を残して消える。

「待ってなさいよ、有象無象ども。世界一格好いい冒険者が、殴り込んであげるわ!」

――こうして完全に前を向いた私は、夜が明けると同時に、王都の冒険者ギルドの重い扉を勢いよく開けたのだった。



――朝一番のギルドロビー。

カツカツと硬い靴音を響かせて受付カウンターへ進むと、緑色の制服を着た若い女性が、柔らかく微笑んで頭を下げた。

「おはようございます。本日はどのようなご用件でしょうか?」

私は無言で、貴族籍除籍済みの身分証明書と、白紙の登録用紙をコト、とカウンターに置いた。

女性は書類を受け取ると、私の姿をまっすぐに見つめた。

仕立ての良い上質な服、手入れの行き届いた燃えるような赤髪、染み一つない白い肌。――我ながら、今の自分がこの血生臭いギルドでどれほど浮いているかは自覚している。だが、手元にある書類の重みを確認した彼女の目つきが、一瞬で変わった。形式的な家出ではない。自らまっとうな手順を踏んで、一切の地位を捨てて平民になったという本物の証明書。

彼女のプロらしい微笑みは崩れなかったが、書類を丁寧に手元へ揃えると、静かに、けれどどこか諭すような温かい声音で私に語りかけてきた。

「……冒険者登録ですね。お預かりいたします。お嬢様、いえ、フレア様。冒険者の世界は大変厳しく、一度外へ出れば命の保証はございません。私どもはどなたの挑戦も拒みませんが……本当に、登録されてよろしいですか?」

「ええ、問題ないわ」

私が傲然と言い放つと、彼女は「……左様でございますか」と小さく頷き、差し出そうとしていた羽根ペンをきゅっと握り直した。

「かしこまりました。それでは、こちらの書類に必要事項の記入をお願いし――」

彼女がペンを差し出そうとした、その時だった。

「おいおいおい、見ろよ。王都のギルドもついに、お人形さん用の託児所になっちまったのか?」

「おいおいお嬢ちゃん、迷子か? ドレスの代わりに動きやすそうな服を着てりゃ、冒険者になれると思ったのかい」

一階ロビーにたむろしていた、大剣を背負った男や、見るからに強そうなベテラン冒険者たちが、にやにやと笑いながら近づいてくる。

まじまじと見下ろしてくる彼らの装備は、どれも無数の傷が刻まれた年季の入ったものばかりだ。対する私は、一応は動きやすい格好を選んだとはいえ仕立ての良い高級品で、おまけに手ぶら。彼らの目から見れば、お遊びの家出令嬢だと映って当然の、あまりに説得力のない姿だった。お遊びと思われても仕方がない――そこまでは、私もちゃんと理解している。

カウンターの奥の彼女は、その喧騒を前にしても眉一つ動かさなかった。ただ、持っていた羽根ペンを静かに置くと、低く、冷徹な声を響かせた。

「そこまでです、バルトさん。――新規登録者への脅迫は規約違反。今期分の報酬、すべて凍結しますよ」

にやついていた男たちの動きがピタリと止まる。

「へっ、お姉さん、冗談きついぜ。俺たちはただ、気に入らねえだけさ」

大剣の男――バルトが、笑みを消して私を冷たく睨みつけた。

「昨日も、色気出した新人が魔物にボロ雑巾にされて、命からがら運び込まれたばかりだ。ここは泥を這いずり回って、血を流して生き残る場所なんだよ。お遊び気分のお嬢ちゃんが、着飾ってピクニックに来ていい場所じゃねえ。……一生消えねえ傷を負って泣き喚く前に、大人しくお家に帰りな」

「バルトさん、言動が過ぎます」

お姉さんの声が鋭さを増す。

「ここはギルドのロビーです。外の理屈を持ち込むなら、相応の処分を受け入れていただきます」

一歩も引かない鋭い眼差し。カウンターの内側から、言葉だけで大男たちを押さえつけるそのプロとしての強さに、大男たちがわずかに気圧される。

だけど、これ以上彼女に泥を被らせる必要はない。

「――いいわよ、もう。ありがとう」

私はカウンターの淵を軽く叩き、不敵に微笑んだ。

彼女は驚いたように私を見つめ、それから、その瞳をひどく心配そうに揺らした。

私はそんな彼女に「大丈夫だから」と視線で告げて前に出る。

そのままバルトの目の前までツカツカと歩み寄り、その顔を傲然と見上げた。

「あんたたちが、私を『お遊びの令嬢』だと思うのは勝手だけど、いちいち群れられて羽虫みたいに騒がれるのは迷惑なのよ。――手っ取り早く、この中で一番強い奴を出しなさい。今からここで試合をして、私の力をその分厚いツラに直接叩き込んで分からせてあげるわ」

「……フレア様」

カウンターの奥から、彼女の静かな、けれどわずかに動慌を含んだ声が聞こえた。

「バルトさんは、数々の難局を越えてきたAランクのベテラン冒険者です。お勧めはいたしません」

冷静に、ただ事実だけを重みのあるトーンで告げてくる。その真っ直ぐな瞳は、言葉にできない心配を痛いほどに私へと投げかけていた。

対するバルトは、私の啖呵に一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに苛立ったように鼻で笑って大剣を肩に担ぎ直した。その目は、本気で私を叩き潰す気でぎらついている。

「へっ、言ってくれるじゃねえか。いいだろう、そこまで言うなら現実って奴を骨の髄まで分からせてやる。……怪我しても恨むんじゃねえぞ」

「ふん、手加減が必要なのは、あんたのほうよ」

私は、言葉を失ったまま心配そうにこちらを見つめている彼女に軽く手を振り、私たちはギルドの裏手にある訓練場へと向かった。

「フレア様。危険だと判断されたら、躊躇なくいつでも降参のサインを出してください。私が責任を持って試合を止め、あなたを保護します」

訓練場の隅から、彼女の凛とした声が響く。周囲を取り囲む冒険者たちが、殺気立った真剣な表情で見守る中、彼女だけは私の安全を確保するためのルールを提示してくれていた。

私とバルトは、訓練場の壁に立てかけられていたギルド備え付けの練習用武器の前に立つ。

バルトはずっしりと重い鉄製の練習用大剣を引き抜き、それを軽く肩に担いで私を睨みつけた。

「ルールは実戦同様、武器も魔法もありだ。お嬢ちゃん、好きなだけ魔法でも何でも使いな。その代わり、こっちも手は抜かねえぞ」

「ふん、上等よ」

私が手に取ったのは、ごくありふれた軽量の練習用鉄剣だ。

私は身構えることもなく、ただ自然体で剣を下げてそこに立っていた。

「合図は必要ないわ。――いつでも来なさい」

「……へっ、威勢だけは一人前だ!」

バルトが地面を蹴り、その巨体に似合わない鋭さで距離を詰めてくる。練習用大剣の腹で私の身体を強く叩き、一撃で現実を思い知らせて終わらせる気の、無駄のない動き。

――その動きが、私には、あまりにも遅すぎて欠伸が出そうだった。

(いつかリチャードの隣に立とうと磨いた、私の力――)

深く息を吸い、練り上げた魔力を全身の細胞へと一気に爆発させ身体強化の魔法を発動する。

「――甘いわよ」

ふ、と私は小さく息を吐いた。

その直後だった。

鍛錬場全体の空気が、一瞬で、生物としての本能が悲鳴を上げるほどの「絶対的な死の気配」に変貌する。

ドン、と。

地響きすら立てず、けれど大気が爆発したような錯覚を覚えるほどの速度で、私は踏み込んだ。魔力強化された踏み込みは、バルトの視界から私の姿を完全に消し去る。

「が――っ!?」

バルトが私の接近を自覚したときには、すべてが終わっていた。

吸い込まれるような完璧な軌道。私の放った練習用鉄剣の刃が、バルトの振り下ろした練習用大剣の側面を、鋭く、正確に弾いた。

直後、鍛錬場の石畳が私を中心に円状にクレーターとなって弾け飛び、凄まじい衝撃波が巻き起こった。

強烈な負荷に耐えかねたギルドの練習用大剣が、根元からバキィィィン!!とガラス細工のように粉々に砕け散る。

その衝撃の余波だけで、巨漢のガルドの身体が真後ろへと弾き飛ばされ、鍛錬場の分厚い石壁に激しく叩きつけられて、そのままズサァ, と地面に倒れた。私の手にある練習用鉄剣もまた、その凄まじい威力に耐えきれず、ひしゃげてボロボロにひび割れている。

一瞬。文字通り、コンマ一秒の決着だった。

「…………え?」

周囲を包むのは、誰も呼吸の仕方を思い出せないような、圧倒的な、絶望的な静まり返り。

バラバラと、火花のように散った練習用武器の破片が地面に落ちる硬い音だけが、やけに響いていた。

私は、手元に残ったボロクズ同然の剣の柄を無造作に放り捨て、服の埃を軽く払うようにして、傲然とガルドを見下ろす。

「言ったでしょう。手加減が必要なのは、あんたのほうだって。……これでもまだ、私の冒険者登録を『お遊び』だって言うのかしら?」


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