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エルセの部屋を飛び出した私は、その足で夜明け前の冒険者ギルドへ滑り込んだ。
やるべきことは、全部今日で終わりにしたかった。
リチャードとの婚約も。
エルセへの引き継ぎも。
アウグスト伯爵家の籍も。
残すのは、最後のひとつ。
私がこれから何者になるのか、という問題だけだった。
以前一度だけ会ったことある伝をたどって、ギルド長グスタフに話を付ける。
私は目の前のデスクへ、アウグスト伯爵家の籍を抜いた書類を置いた。
「貴族を抜けてきたわ。明日から私、ここで冒険者になるから。あんたが朝になって驚かないように、先にあいさつに来てあげたわ。手続き、よろしく頼むわね」
深夜に突然現れた鮮烈な赤髪の少女に、グスタフは眉をひそめる。そして、目の前の書類をじっと確認する。
「アウグスト家の令嬢が、冒険者に?それに、確か婚約者がいたはずじゃ……」
「リチャードよ。あいつとの婚約なら、私が綺麗さっぱり終わらせたの。あいつも同意してくれたからこの話は終わりよ」
そう言って私は強引に話題を戻す。
「とにかく、私は自分の力で広い世界を飛び回ってみたいって思ったの。だからこれからは、ここで好きに暴れさせてもらうわよ」
ふん、と不敵に笑う。
本当のことなんて言う必要はない。
私はただの冒険者に憧れる少女。それでいい。
グスタフは深い溜息をついた。
その顔は歴戦の風格が漂う。スッと目を細めて私を見る。
けれど、私はそれを無視してグスタフに背を向けた。
用はもう済んだ。あとは任せてしまおう。
「……お嬢さん。お前さんは、本当にそれで――」
そこまで言いかけて、ギルド長は言葉を飲み込んだ。 出口に向かって歩きだしていた私には、彼がどんな顔をしていたのかは分からない。
ただ、扉を開ける軋んだ音が、静まり返った室内に響いた。
「配慮はしてやる。だが、冒険者の世界は甘くないぞ」
「ふん、心配ご無用よ」
部屋を出る直前にグスタフの低い声が聞こえた。私は立ち止まらなかった。
誰もいない薄暗い廊下。私は小さく、息を吐いた。
これで、私は冒険者になる。ひとまず全て上手く行った。あの日から、少しずつ進めてきたことがようやく終わって、私は肩の力を抜いた。
本当にそれで――
グスタフの言いかけた言葉だけが、耳の奥に残っている。
それでいいに決まっている。
あの「数ヶ月前の午後」に、私はそう決めたのだから。
◇◇
実家の庭園のうららかな陽光のなか、私は二人の幼馴染みと集まっていた。
王都の学校から遊びに来ていたエルセと、領主仕事の合間に駆けつけたリチャード。
「リチャード、これ、王都で流行っているハーブティーなの。淹れてみるわね」
「ありがとう、エルセ。はは、いい匂いだ。最近書類仕事が多くて目が疲れ気味だったから、すごく落ち着くよ」
「もう、無理しちゃダメよ? はい、フレアちゃんも。これ、フレアちゃんが好きそうな甘い焼き菓子を作ってきたの」
「ふん、気が利くわね」
いつものように言いながらお菓子を受け取り、けれど私は、ふと手元に視線を落とした。そして、ぽつりと呟く。
「……うん。ありがと」
いつもこうだ。
二人の前だと、何だかきつい言い方をしてしまう。
それなのに、二人は全く気にせず笑顔を向けてくれる。
いつも通りの、優しくて、どこまでも居心地の良い時間だった。
笑い合うリチャードとエルセ。いつも通り、少しだけツンとすましている私。
私はリチャードが好きだった。
幼馴染としてだけじゃない。
いつか彼の隣に立つのは、自分なのだと疑ったこともなかった。
そして、エルセのことも大好きだった。
だからこそ、その時間は完璧だった。
好きな人がいて、大切な親友がいて、二人が私に笑いかけてくれる。
何一つ変わらない、温かい日常。
――そのはずだった。
けれどその日、私はその完璧な空間の中に、ほんのわずかな違和感を覚えた。
リチャードは、エルセの淹れたお茶を受け取ると、いつものように礼を言った。
一口飲んで、ほんの少しだけ目を細める。
たったそれだけ。
けれど、その横顔があまりにも柔らかくて、私は言葉を失った。
きっと、他の誰も気づかない。けれど、私は気づいてしまった。ずっとリチャードを見てきたから。
たぶん、リチャード自身でさえ、自分の気持ちに気づいていない。
だって、わかっていて平気な顔で私の婚約者でいられるような、器用な男じゃないもの……。
どうすればいいのか、わからなかった。
自分じゃなかったことが悲しかった。
気づいてしまったことが恨めしかった。
眼をそらしたくて、エルセの方を向いた。
そして、どうすることもできないんだってわかった。
だって、エルセもリチャードを見つめていたから。
エルセは、リチャードのカップが空になりかけていることに気づいて、そっとポットを手に取る。
「リチャード、もう少し飲む?」
何でもない、いつもの一言。
私に焼き菓子を差し出した時と同じ、優しい声。
三人でいる時の、いつものエルセ。
だけど、エルセもちゃんとリチャードを見ている。
私がリチャードを見てきたのと、同じように。
そう思った瞬間、指先から力が抜けた。
ほとんど残っていないお茶に口をつけようとして、カップが小さく揺れる。
カチャン、とソーサーに当たる音がした。
「珍しいな。フレアが手元を狂わせるなんて」
リチャードが、いつものように笑ってくれる。
からかうようでいて、私が恥ずかしくならないようにする、優しい声だった。
「大丈夫? 新しいお茶、淹れるね」
エルセも、いつものように微笑んで、そっとポットを手に取る。
やっぱり、二人は気づいていない。
いつもの時間を、いつものように楽しんでいる。
でも私は、もう上手く笑えなかった。
私が黙っていればいいのかもしれない。
このまま結婚してしまえば、きっと何も起こらない。
きっと、リチャードは私を大切にしてくれる。
きっと、エルセは私たちを祝福してくれる。
もし二人がいつか自分の気持ちに気づいたとしても、誰にもわからないように蓋をするに決まっている。
リチャードも、エルセも、そういう人だから。
だから、ずっと変わらずに三人でい続けられる。
でも、そんなの私の望む幸せじゃない。
二人が結ばれないなんて私が認めない。
私はエルセの焼き菓子を一つ口に入れる。
甘くて優しい味がした。
うん、大丈夫。
悲しいけど。悔しいけど。
私のやることはもう決まった。
「リチャード!あんたも頑張りなさいよ!」
「……えっと、何のこと?」
「ふん、何でもないわ!」
「あらあら、フレアちゃんったら元気ね」
たぶん、もう、いつもみたいに笑えている。
エルセなら仕方ないもの。
他の誰かなら、絶対に譲らない。
だけど、エルセは強くて優しいから。
私の大好きな親友だから。
二人にはできるだけ何も知らないまま笑顔でいてほしい。
だから、絶対に最後まで隠し通す。
私一人で、三人が幸せになる道を見つけてやる。絶対に。
誰にも文句は言わせない。
◇◇
「ふん……。あいつら、今頃少しくらい私がいなくて寂しくなってるんじゃないかしら」
気づけば、私はギルドの廊下に立ち尽くしていた。
自嘲気味にニヤリと笑う。
エルセが次の婚約者になるための根回しも、異例の速度で完了させた。リチャードも、私の「夢を追いかけたい」という大嘘を、疑いもせずまっすぐに信じてサインしてくれた。
……明日から冒険者か。
不安はない。
私は強いもの。
いつかリチャードの隣で、あいつやエルセを守りたかった。そのために必死で鍛えた。
そんな姿は見せたくなくて、完璧でいたくて、ひた隠しにしていたけど。
もう、その必要もない。
大切なものは置いてきた。だったらこれからは、手加減なしで、自分のためだけに振り回してやるだけだ。
私が外の世界で誰よりも自由に暴れて、誰よりも格好いい冒険者として成り上がってやれば、あいつらだって余計な罪悪感を持たずに済む。
「フレアは自分の夢を叶えて幸せにやっているんだ」って、安心できるはずだから。
最後まで完璧に、私の我儘で騙しきってあげるわ。
だから──
「二人とも、絶対に幸せになりなさいよ」
未練なんて欠片もないみたいに、私は夜風の中で鮮烈な赤髪を揺らした。
そして、夜のギルドを堂々と歩き出す。




