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アウグスト伯爵邸を飛び出し、愛馬をマッハの速度で駆ること数日。 私は夜の帳が下りた王都、その一角にある高貴な寄宿学校の敷地内に潜り込んでいた。
目指すは、女子寮の最上階。足元から風を巻き起こし、垂直な壁を音もなく駆け上がる。狙い澄ましたバルコニーに着地すると、鍵の閉まったガラス窓へ、爪先に集めた極小の雷魔法をパチリと弾いて一瞬で解錠した。
──私は誰よりも強い。 だからこそ、これくらいの芸当は造作もないし、これからたった一人で生きていくのだって怖くはない。
そう自分に言い聞かせて、夜風と共にカーテンをなびかせ、部屋へと侵入する。 けれど、ベッドサイドに佇む亜麻色のウェーブヘアの少女の姿を見た瞬間、私の強固なはずの心は、微かに、けれど激しく揺らいだ。
(……怒られる、かもしれない。軽蔑される、かもしれない)
貴族であることを捨て、リチャードに迷惑をかけ、たった一人で暗闇を突っ走ってきた。孤独と心細さで麻痺していた胸の奥で、悲観的な予測が頭をもたげる。いくらおっとりしたエルセだって、私がリチャードとの婚約を一方的に破棄したと知れば、親友を裏切った私に激怒し、激しく問い詰めてくるんじゃないか。
そうやってガチガチに身構えて、私はいつものように勝ち気に、つんと顎を引いて言い放った。
「静かにして、エルセ。……リチャードから手紙が届いているなら話が早いわ。私、冒険者になるからあいつとの婚約は破棄してきたの。だから──これからは、あんたがリチャードの隣にいてあげなさいよね!」
息を呑んで反応を待つ私に、エルセ・フォン・ローゼンタールは、寝間着姿のまま、すべてを優しく包み込むようなおっとりとした笑顔を返し、小首を傾げた。
「ふふ、フレアちゃんたら、相変わらず突飛で元気ね。リチャードの手紙を読んで、私もびっくりしていたところなの。でも, フレアちゃんが世界一格好いい冒険者になるって決めたなら、私は応援するよ?」
「な……っ!?」
──怒られない、の……? あまりの拍子抜けに、私のほうが完全にたじろいでしまった。
「でもね、フレアちゃん。リチャードの手紙少し寂しそうだったの。大好きなリチャードを困らせちゃうなんて、めっ、よ? ……うん、決めたわ。フレアちゃんが次に里帰りしてきた時は、大好きな特製クッキー、絶対にあげないんだから!」
「……っ!ふ、ふん、お菓子なんていらないわよ!」
ぷくー、と頬を膨らませたエルセに、私はすぐにいつもの調子で言い返した。 私の身勝手な行動を責めるのではなく、ただリチャードを心配し、私にお菓子をあげないという可愛い罰で済ませようとする。そのいつも通りの純粋さと優しさに、心が痛いほど温められ、切なさで胸が締め付けられる。
けれどそんな私の強がりを透かすように、エルセがふっと私の顔を覗き込み、碧い瞳を優しく揺らした。
「……フレアちゃん、本当は、少し寂しいんじゃない?」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。 背中に冷たい汗が伝う。まさか、見破られたの──? 私が抱える、本当の理由に。あまりの動揺に、息の仕方を忘れそうになる。
私の返答を待たず、エルセは切なそうに眉を下げて、私の泥のついた手をそっと両手で包み込んだ。
「これから一人で、誰も知らない遠い世界に飛び出していくんだものね。強がって走ってきたけれど……本当は、すごく心細かったでしょう?」
──ああ、よかった。そっちの勘違い、ね。 瞳に宿る隠しきれなかった寂しさの本質を、エルセは「新しい道への不安」だと解釈したのだ。私の企みがバレていなかった安堵と、そんな風に私を心配して寄り添おうとしてくれる彼女の優しさが眩しすぎて、涙がこぼれそうになる。
私が言葉に詰まっていると、エルセはふっと凛とした、私を誰よりも信じてくれている強い笑顔を浮かべた。
「でも、世界一しっかり者なフレアちゃんだもの。私は心配なんてしないわ。だって、どんなに遠くへ行っても、あなたは絶対に最高の冒険者になって、元気に帰ってくるって分かっているから。だから……たまには、ちゃんと遊びに来てね?」
心配はしない、でも、いつでも帰ってきてね。 その言葉に込められた無条件の信頼。
私はこれ以上長居してボロが出ないよう、エルセがそっと添えてくれていた手を優しく振り払って、一気に本題を突きつけた。
「当然よ! それよりエルセ。あいつは本当に手が焼ける大馬鹿野郎なんだから、私がいない間、あんたがしっかり隣で支えてあげて。……いいわね!?」
「うん。リチャード一人じゃ大変だものね。任せて、私がちゃんと支えるわ」
エルセは少しも疑わず、私の言葉にふんわりと微笑んで受け止めている。 私はニヤリと不敵に笑って、本当の爆弾を放り込んだ。
「よし、話は決まりね! 両家の大人たちには、私からもう手を回してあるから! あんたがリチャードの『次期婚約者』として内定するように、明日すぐにでも実家に手紙を書きなさいよね! マッハでやりなさいよ!」
「……え? こん、やく……しゃ……?」
おっとり微笑んでいたエルセの動きが、ピタリと止まった。 今、何を言われたのかを脳内でおっとりと処理した瞬間、彼女の澄んだ碧い瞳がみるみる丸くなっていく。
「え、えええええええええっ!? こ、婚約者って、私がリチャードの!? な、なんでそうなるのよ、私たちはただの幼馴染みで、大切な友達で、でも、ええっ……!?」
完全にキャパシティをオーバーしたエルセは、みるみるうちに両頬を、耳の裏まで真っ赤に染め上げてアタフタと手を動かした。
「じゃあね、エルセ! あとはよろしく頼んだわよ!」
「ちょ、ちょっと待ってフレアちゃん! 私、リチャードのことはその、お、お友達として──って、待ってったらー!」
赤面してパニックになっているエルセの声を置き去りに、私は夜の闇へと飛び降りた。
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王都の夜景を眼下に、風を切って疾走する。 手綱を握る手が、微かに震えていた。
「っ……、くしゅん……」
冷たい夜風のせいか、それとも、胸の奥の微かな淋しさのせいか。視界がほんの一瞬だけ、滲んで歪んだ。 私は誰にも見せない涙を夜風に隠し、強く唇を噛み締めた。
「……これでいい。これでいいんだから、フレア」
自分自身に言い聞せるように、声を絞り出す。 リチャードの前でも、エルセの前でも、私は完璧にわがままな幼馴染を演じきった。あいつらは何も知らなくていい。ただ、のんびりと笑って、幸せになってくれれば、それでいい。
──そう。あの二人は、あまりにもお互いに対して無自覚で、死ぬほど鈍感すぎた。
エルセがあんなに顔を赤くするくらい、幼い頃からずっとリチャードに恋をしていることも。 リチャードが、エルセにだけは見せる特別な眼差しも。 当事者以外の誰もが気づいている「両思い」なのに、あの二人だけが、自分たちの気持ちに気づいていなかった。
リチャードの本当の幸せは、私の隣にはない。 お日様のようにすべてを包み込んでくれる、エルセの隣にこそあるのだ。
私は未練を振り切るように愛馬に拍車をかけ、一人の冒険者として、本当の荒野へと暗闇を駆け抜けた。
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一方、残された部屋で、エルセはぽつんと一人、まだ顔を赤くしたまま机に向かっていた。
「本当に、フレアちゃんの行動力は嵐のようね……。もう、婚約者だなんて、からかわないでほしいわ……」
まだドクドクと高鳴る胸を、おっとりと首を傾げて不思議に思いながらも、エルセは実家やアウグスト家へ送るための手紙を、丁寧な筆跡で書き進める。 フレアの言っていた通り、大人たちへの根回しはすでに完璧に終わっているようで、次期婚約者への内定手続きは、何一つ滞ることなく滑らかに進んでいった。
窓の外を見上げれば、綺麗な月が出ている。
「リチャード、元気にしてるかしら。フレアちゃんがいなくなって寂しがっていないか、明日、私からも優しい手紙を書いてあげなくちゃ」
エルセは何も知らない。 自分の大好きな親友が、どれほど彼らの幸せを願って、夜の闇へ消えていったのかを。ただ純粋に、大切な幼馴染みたちの未来を想って、おっとりと優しい祈りを捧げるだけだった。




