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アウグスト伯爵邸を飛び出して、数日。
私は夜道を馬で駆けていた。
伯爵令嬢としての籍は、もう抜いてきた。屋敷も、家名も、用意されていた未来も、全てを置いてきた。けれど、思ったよりも胸は静かだった。
……それに、リチャードとの婚約も。
その瞬間、わずかに重心が乱れ、咄嗟に手綱を握りしめる。
もうすぐ王都に着く。もう一人の大切な友人にこれから自分勝手な話をしに行くんだ。気を引き締めないと。
それから、私は夜の帳が下りた王都の西、その一角にある由緒ある寄宿学校の敷地内に潜り込んだ。エルセの部屋は昔から知っている。手紙では間に合わない。だから、礼儀も常識も今夜だけは捨てる。
目指すは、女子寮の最上階。
足元から風を巻き起こし、垂直な壁を音もなく駆け上がる。狙い澄ましたバルコニーに着地すると、鍵の閉まったガラス窓へ、爪先に集めた極小の雷魔法を弾いた。
パチリ、と小さな音がして、鍵が外れる。
ほら。できる。
私は強い。誰よりも強い。
だから、一人でだって生きていける。
そう言い切って、私は夜風と共に部屋へ滑りこんだ。
けれど、ベッドサイドに佇む亜麻色のウェーブヘアの少女の姿を見た瞬間、心が微かに揺らいだ。
固く決意したはずなのに。
(……怒られる、かもしれない。軽蔑される、かもしれない)
何もかも置いて、リチャードに迷惑をかけてまで、一人で暗闇を突っ走ってきた。そのせいか、胸の奥は孤独と心細さで少し鈍くなっていた。 けれどエルセの顔を見た瞬間、押し込めていた不安だけが急に形を持ちはじめる。
いくらおっとりしたエルセだって、私がリチャードとの婚約を一方的に破棄したと知れば、親友を裏切った私に怒って、激しく問い詰めてくるんじゃないか。
そうやって身構えて、すぐに澄ましたように取り繕った。
「静かにして、エルセ。……リチャードから手紙が届いているなら話が早いわ。私、冒険者になるからあいつとの婚約は破棄してきたの。だから──これからは、あんたがリチャードの隣にいてあげなさいよね!」
息を呑んで反応を待つ。
それを聞いたエルセは、寝間着姿のまま、すべてを優しく包み込むようなおっとりとした笑顔を返し、小首を傾げた。
「ふふ、フレアちゃんたら、相変わらず突飛で元気ね。リチャードの手紙を読んで、私もびっくりしていたところなの。でも、フレアちゃんが世界一格好いい冒険者になるって決めたなら、私は応援するよ?」
「な……っ!?」
──怒られない、の……? あまりの拍子抜けに、私のほうが完全にたじろいでしまった。
「でもね、フレアちゃん。リチャードの手紙少し寂しそうだったの。大好きなリチャードを困らせちゃうなんて、めっ、よ? ……うん、決めたわ。フレアちゃんが次に里帰りしてきた時は、大好きな特製クッキー、絶対にあげないんだから!」
「……っ!お菓子なんていらないわよ!」
ぷくー、と頬を膨らませたエルセに、私はすぐにいつもの調子で言い返した。 私の身勝手な行動を責める素振りは一切ない。ただリチャードを心配し、お菓子をあげないなんて取るに足らない罰で済ませようとする。そのいつも通りの純粋さと優しさに、痛いほど胸が締め付けられる。
私は歯を噛み締め、平静を保つ。
こんな甘えた感情は許されない。
これは私が決めたことだ。
エルセがふっと私の顔を覗き込み、碧い瞳を優しく揺らした。
「……フレアちゃん、本当は、少し寂しいんじゃない?」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
思わず、窓枠に置いた指に力が入る。
まさか。 そんなはずがない。 エルセにまで見抜かれるような顔を、私はしていたのだろうか。
けれど、エルセは私の泥のついた手をそっと包み込んで、少しだけ眉を下げた。
「これから一人で、知らない世界へ行くんだもの。心細かったでしょう?」
……ああ。 そっち、ね。
肩から力が抜けそうになって、慌てて奥歯を噛みしめた。
安心している場合じゃない。 エルセはただ、私を心配してくれているだけなのに。
その優しさが、今の私には眩しすぎた。
言葉に詰まっていると、エルセは、ふっと凛とした笑顔を浮かべた。私を誰よりも信じてくれる時の顔だ。
「世界一格好いいフレアちゃんだもの。だからどんなに遠くに行っても、私は心配なんてしないわ!絶対に最高の冒険者になって、元気に帰ってくるって分かっているから!だから……たまには、ちゃんと帰って来てね?」
帰ってきてね、か……。
エルセはいつも人が欲している言葉をくれる。
だから、これ以上長居はできなかった。エルセがそっと添えてくれていた手を優しく振り払って、一気に本題を突きつけた。
「当然よ! それよりエルセ。あいつは本当に手が焼ける大馬鹿野郎なんだから、私がいない間、あんたがしっかり隣で支えてあげて。……いいわね!?」
「うん。リチャード一人じゃ大変だものね。任せて、私がちゃんと支えるわ」
エルセは少しも疑わず、私の言葉にふんわりと微笑んで受け止めている。 私はニヤリと不敵に笑って、本当の爆弾を放り込んだ。
「よし、話は決まりね! 両家の大人たちには、私からもう手を回してあるから! あんたがリチャードの『次期婚約者』として内定するように、明日すぐにでも実家に手紙を書きなさいよね! マッハでやりなさいよ!」
「……え? こん、やく……しゃ……?」
おっとり微笑んでいたエルセの動きが、ピタリと止まった。 今、何を言われたのかを脳内でゆっくり処理しているみたいだ。次の瞬間、彼女の澄んだ碧い瞳がみるみる丸くなった。
「え、えええええええええっ!? こ、婚約者って、私がリチャードの!? な、なんでそうなるのよ、私たちはただの幼馴染みで、大切な友達で、でも、ええっ……!?」
完全に許容量を超えたエルセは、みるみるうちに両頬を、耳の裏まで真っ赤に染め上げてアタフタと手を動かした。
「じゃあね、エルセ! あとはよろしく頼んだわよ!」
「ちょ、ちょっと待ってフレアちゃん! 私、リチャードのことはその、お、お友達として──って、待ってったらー!」
赤面してパニックになっているエルセの声を置き去りに、私は夜の闇へと飛び降りた。風をまとって地面に降り立ち、寄宿学校の外れに待たせていた馬の背へ飛び乗る。
王都の夜景を背に、私は再び夜道を駆け出した。
手綱を握る手が、微かに震えていた。
「っ……、くしゅん……」
冷たい夜風のせいか、それとも、胸の奥の微かな淋しさのせいか。視界がほんの一瞬だけ、滲んで歪んだ。 私は誰にも見せない涙を夜風に隠し、強く唇を噛み締めた。
リチャードの前でも、エルセの前でも、私は完璧にわがままな幼馴染を演じきった。あいつらは何も知らなくていい。
私が何を置いてきたのかも、どんな顔でここまで走ってきたのかも。
ただ、のんびり笑っていてくれればいい。
「……これでいい。これでいいんだから、フレア」
そう言い聞かせて、私は夜明け前の王都へ馬を走らせた。
――――――――
一方、残された部屋で、エルセはぽつんと一人、まだ顔を赤くしたまま机に向かっていた。
「本当に、フレアちゃんの行動力は嵐のようね……。もう、婚約者だなんて、からかわないでほしいわ……」
まだドクドクと高鳴る胸を、おっとりと首を傾げて不思議に思いながらも、エルセは実家やアウグスト家へ送るための手紙を、丁寧な筆跡で書き進める。 フレアの言っていた通り、大人たちへの根回しはすでに完璧に終わっているようで、次期婚約者への内定手続きは、何一つ滞ることなく滑らかに進んでいった。
窓の外を見上げれば、綺麗な月が出ている。
「リチャード、元気にしてるかしら。フレアちゃんがいなくなって寂しがっていないといいけど」
そう呟いてから、エルセはそっと胸元で手を組んだ。
「……フレアちゃんも、できれば怪我なんてせずに過ごしてほしいな」
月明かりの下、彼女は大切な幼馴染みたちを想って、ただ静かに祈っていた。




