第9話:作戦会議
吸血鬼の森を抜けたのは、夜明け前だった。
東の空がわずかに白み始めた頃、一行は城への道に戻った。
誰も喋らなかった。
疲れというより、それぞれが何かを処理しているような沈黙だった。
リリナは歩きながら、手帳を開いた。暗くて字が書けない。
それでも閉じずに持っていると、指先の感覚だけが現実に繋がっている気がした。
ピクスがリリナの肩に降りてきた。
「……疲れた?」
「少し」
「でも、よくできた」
いつもの軽さが、少しだけ抑えられている。
「ありがとう」
「あのシーン、下がらなかったの、ちゃんと見てたよ」
リリナは少し考えた。
「下がれなかった、の方が正確かもしれない」
「それでいいんだよ」
ピクスはそれだけ言って、また黙った。
ガルがリリナの足元で、ちらりと後ろを振り返った。城の方角を。それから前を向いた。
ルシルは少し先を歩いていた。いつもの歩調で、いつもの背中だった。
でも、セラフィーンに何かを言われてから、ほんのわずかだけ、雰囲気が変わった気がした。
気のせいかもしれない。
リリナは手帳をもう一度開いた。暗くてもいい、線だけ引いた。
整理するものがある、ということが、今は大事だった。
♢
城に戻ったのは、朝日が出る少し前だった。
ベルザードが玄関で待っていた。
「おかえりなさいませ」
見ていたのか、それとも気配でわかったのか。もう驚くこともなかった。
「ただいま戻りました」
「お顔を拝見するに、ご無事のようで」
「はい」
「この時間のご帰宅ということは、吸血鬼の城、でございますね」
「そうです」
「……ご無事で、何よりでございます」
今度は少し違う重さがあった。リリナは小さく頷いた。
ベルザードはルシルに向いた。
「ぼっちゃま、お怪我は」
「ない」
「……左様でございますか」
一拍だけ、目が細くなった。それだけだった。
♢
目が覚めたとき、部屋は昼の光で満ちていた。
顔の上に、重さがある。
「……ガル」
「おん!おきた!」
起きた、ではなく起こされている。
リリナは小さく息を吐いて、起き上がった。
体は重いが、頭は妙に冴えていた。
♢
広間。
テーブルに地図が広げられる。旅に出る前と同じ地図だが、各地域にリリナが書き込んだ印がいくつか増えている。
「まずは場所と規模を決めましょう」
リリナは手帳を開いた。旅の間にメモしてきたことが並んでいる。各種族の人数感、距離感、嗜好、時間帯の希望。
「まず場所ですが、どこかよさそうな場所はありますか?」
ルシルが口を開く。
「魔王城では駄目なのか」
「駄目です」
「理由は?」
「誰も来ません、人間も、魔物も」
「……そうか」
「では、人間側の都市の外縁部。中立地帯の広場あたりではどうでしょうか?」
レギウスが眉を動かした。
「人間側には馴染みがあるが、魔族には遠い。ワーウルフはともかく、ヴァンパイアは昼間動けない」
「ですよね、魔族が街に行くというのは現実的でないですね」
「ここ、どういう場所ですか」
リリナは地図の一点を指で示した。
全員の視線が集まった。
人間の領域と魔族の領域の、ちょうど境界に近い場所だった。地図上に建造物のようなものが書いてある。
ルシルとレギウスが、ほぼ同時に地図を見た。
ルシルが静かに言った。
「……旧停戦地だ」
「停戦交渉が行われた場所、ですか」
沈黙が落ちた。
「使えますか」
「……建物はある。今は、誰も使っていない」
「どちらの種族にとっても、中立の土地ですよね」
「……そうだ」
「人間も魔族も、来られる距離ですか」
「条件としては、最もいい」
「では、ここにしましょう」
リリナははっきりと言った。
ルシルはしばらく地図を見ていた。何か言いかけて、やめた。
「……問題はないか」
「あります」
全員がリリナを見た。
「三十七年前の場所を使う、ということの重さです。人間側にとっても、魔族側にとっても。悪い意味で受け取られる可能性があります」
「ならなぜ選ぶ?」
「同じ理由で、良い意味にもなりえるからです」
リリナは続けた。
「戦争が終わった場所で、今度は出会う。それは、ストーリーになります」
ピクスが「おお」と言った。
レギウスは何も言わなかった。でも地図から目を離さなかった。
「……ストーリー、か」
ルシルが繰り返した。
「人間に打診するとき、そこを使います。場所の意味を、言葉にして渡す」
「相手が受け取るかどうかは」
「わかりません。でも、何もない場所より、意味のある場所の方が、来る理由になりやすい」
沈黙。
ルシルがゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
「次に規模ですが」
リリナは手帳に書き込んだ数字を読んだ。
「各種族から二から三名。人間側も同数。合計で十から十五名が上限だと思います」
「少なくないか」
ルシルが言った。
「少ない方がいいんです、最初は」
「理由は」
「大きくすると、管理できない。何か起きたとき、抑えられない。それに」
リリナは少し間を置いた。
「初めて会う相手と、大人数の空間にいるのは、どんな種族でも怖い。少人数の方が、顔が見える」
ガルが「ガルはへいき!」と言った。
「ガルはそうですね」
「おん!」
ピクスが地図の上に降り立った。
「時間帯はどうする?ヴァンパイアは夜だけど、ワーウルフは昼も動ける。ドラゴンは正直どっちでもいい。」
「夕方から夜にかけてがいいと思います。夕暮れなら日光の問題が少ない。屋内なら、なおさら」
「旧停戦地の建物、屋内対応できますか」
ルシルがレギウスを見た。
「……確認が必要だが、できないことはないはずだ」
「じゃあ、そっちはレギウスに確認してもらえますか」
レギウスは少しだけ間を置いた。
「……わかった」
初めて、作業を受けた。そういう声だった。
リリナは手帳に書き込みながら、続けた。
「食事は出す方がいいと思います」
「理由は」
「食べると、緊張がほぐれるので」
「確かに」
ピクスが頷く。
「ワーウルフ、飯の後から一気に雰囲気変わったよね」
「料理の担当は」
「私がやります、手伝いでここの料理人を貸して下さい」
全員が、少しだけ間を置いた。
「……お前が作るのか」
「やれます、簡単なものなら」
ガルが「ごしゅじんのごはん、おいしい!」と言った。
リリナは手帳に目を落とした。場所、規模、時間帯、食事。骨格は決まった。
レギウスが声を落とす。
「次は、人間への打診か」
「人間側への打診は、私が一人で動く方がいいと思っています」
少しの間があった。
「一人で行くのか」
ルシルが聞いた。
「ガルに一緒に来てもらいます」
ガルが「おん!」と元気よく鳴いた。
「それだけか」
「それだけです。人間の街に魔族が来たら、目立ちます」
「……何日で戻る」
「何人かに声をかけようと思っているので、二日ほどあれば戻れると思います」
「そうか」
それだけだった。
でも、ルシルは地図から目を離さなかった。旧停戦地の、リリナが指で示した場所を、まだ見ていた。
リリナは気づいていたが、何も言わなかった。
手帳を閉じて、立ち上がる。
「では、準備してきます」
「……リリナ」
ルシルが言った。
珍しかった。自分から名前を呼ぶのは。
「はい」
「無理はするな、危険と感じたら戻ってこい」
命令でも、心配でもない。ただ、そう言った。
リリナは少しの間、ルシルを見た。
「……善処します」
ルシルの目が、わずかに動いた。
「それは我の言葉だが」
「覚えたので、使ってみました」
ピクスが「あははは!」と笑い。ガルがぴょんぴょん跳ねている。
空気が、少しだけ軽くなる。
レギウスは何も言わなかった。でも、視線が少しだけ、窓の外に逃げた。
♢
部屋に戻り、手帳を開く。
ペンを走らせる。
場所、規模、時間帯。
必要な項目を整理していく。
最後に、一行だけ書き足す。
「善処します」
その下に、少し迷ってから――
小さく、線を引いた。
その線が、何を意味するのか。
自分でも、まだはっきりとは分からなかった。
窓の外では、昼の光が満ちている。
それでもリリナは、ほんの一瞬だけ、
夜の古城を思い出していた。




