第10話:人間の街
街が見えてきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
石畳の道。行き交う人々。屋台から漂う焼き菓子の匂い。
リリナは足を止めた。
懐かしい、と思った。思ってから、少し驚いた。まだそれほど経っていないはずなのに、人間の街がずいぶん遠くに感じていたらしい。
「においする!たべもの!」
ガルが鼻をひくひくとさせながら、前のめりになった。
「後でね」
「いつ?」
「仕事が終わったら」
「……はやくおわって」
「努力します」
リリナは手帳を開いた。ピクスから聞いた情報を元に、昨夜書き込んだ名前がある。
商業組合の幹部、ヨハネス。
色んな種族との取引実績がある。損得で動く。感情より数字を信じる。
話が通じる可能性が、一番高い人間だとピクスは言っていた。
「ガル、ここからは普通の犬として歩いてください」
「ふつうのいぬ?」
「喋らない、ということです」
「……むずかしい」
「頑張って」
ガルは「おん」と言って、口を閉じた。三秒後に「ふつうのいぬって、どんなかんじ?」と聞いてきた。
「……今のままで大丈夫です」
♢
商業組合の建物は、街の中心部にあった。
受付で名前を告げ、来意を伝えると、しばらく待たされた。
ガルがリリナの足元で大人しく座っていた。時々、通りかかる人が「かわいい犬ですね」と言った。ガルはそのたびに尻尾を振った。喋らなかった。
頑張っていた。
案内されて通された部屋に、ヨハネスはいた。
五十代ほど。体格がいい。机の上の書類が几帳面に積まれている。目が、値踏みをしている。
「リリナさん、でしたか。商業組合に何のご用で」
愛想はある。でも、その奥に計算がある。
リリナは椅子に座った。
「人間と魔族の交流パーティを企画しています。人間側の参加者を探しています」
ヨハネスは一秒、黙った。
「……正気ですか」
「はい」
「魔族と人間が、同じ場所に」
「はい」
「何のために」
「出会うために」
また沈黙。
今度は少し長かった。
「あなた、出身は」
探るような問いだった。
「遠いところから来ました」
「魔族の使いですか」
「人間です。ただ、依頼を受けています」
ヨハネスはリリナをじっと見た。嘘をついているかどうか、確かめようとしている目だった。
リリナは視線を逸らさなかった。
「……続けてください」
♢
話しながら、リリナは旧停戦地の話を出した。
「場所は、旧停戦地の建物を使う予定です」
ヨハネスの目が、わずかに動いた。
「……あそこを使うと」
「中立の土地です。人間にとっても、魔族にとっても」
「戦争が終わった場所だ」
「同じ理由で、今度は出会う場所になりえます」
ヨハネスはしばらく何も言わなかった。
指が、机の上で一度だけ動いた。
「……なぜ、私のところへ来ましたか」
「商人は損得で動くと聞きました。感情ではなく」
ヨハネスの目が細くなった。
「魔族との取引が始まれば、商業的なメリットがあります。このパーティは、その最初の接点になりえます」
「魔族と取引が、そう簡単にできると思いますか」
「できません、すぐには。でも、顔を知っていると知らないでは、違います」
沈黙。
「……うちの組合から三名、様子見として参加させましょう」
リリナは手帳を持ったまま、一瞬だけ動きが止まった。
「……よろしいんですか」
「様子見です。それ以上でも以下でもない」
「十分です。ありがとうございます」
「ただし」
ヨハネスは続けた。
「もし何か起きたとき、責任は誰が取りますか」
「私が取ります」
「あなた一人が?」
「はい」
ヨハネスはリリナを見た。それから、小さく笑った。
「……変わった人だ」
「よく言われます」
♢
建物を出たのは、夕方近かった。
ガルが外で待っていた。行儀よく座って。
「おそかった!」
「お待たせ、何もなかった?」
「たべもの!」
「今から?」
「はやく!」
屋台で串焼きを買った。ガルの分も。
石畳の端に腰を下ろして、並んで食べた。
「おいしい!」
「美味しい」
「ごしゅじん、うまくいった?」
「うまくいったんじゃないかな」
「えらい!」
リリナは串を持ったまま、空を見た。夕暮れが始まっていた。
城に帰ったら、報告しなければならない。ルシルに。
なぜかそれを思うと、少しだけ急ぎたくなった。
♢
宿に戻ろうとした、路地の角だった。
人影が、前を塞いだ。
一人ではなかった。三人。いずれも体格がいい。傭兵崩れ、という雰囲気だった。
「魔族の使いか」
最初の言葉がそれだった。
リリナは一歩、後退した。
「……何のことですか」
「しらばっくれるな。お前の気配をずっと追ってた。魔族の城から来たな」
気配でわかる人間がいる。ベルザードから聞いていなかった。
「魔族を捕まえれば金になる。役に立ってもらうぞ、素直に来るなら痛い目には遭わせない」
後退しようとしたが、後ろは壁だった。
「ガル、走って」
小声で言った。
ガルは動かなかった。
「ガル」
足元で、ガルが静かに立っていた。さっきまでの、はねるような立ち方ではない。四本足が地面にしっかりと根を張っている。
鼻先が、前を向いていた。
「……ガル」
男たちが一歩踏み出した瞬間。
首輪の銀の装飾が、三つ同時に、暗く沈んだ。
黒い靄が、足元から滲み出る。音もなく。
輪郭が、変わっていく。
大きくなる。
一瞬で。
気がついたとき、ガルはいなかった。
代わりに、そこにいたのは。
三つの頭を持つ、漆黒の獣だった。
肩の高さはリリナの頭を超えている。三つの目がそれぞれ赤く光っている。銀の装飾が、三つの首に一つずつ光っている。
足元の地面に、うっすらと霜が降りていた。
男たちが、後退した。
「け、ケルベロス……?」
ケルベロスは吠えなかった。
三つの頭が、ただ男たちを見ていた。
それだけで、男たちは走っていた。
♢
静寂。
路地に、リリナとケルベロスだけが残された。
三つの頭が、ゆっくりとリリナを向いた。
六つの赤い目が、リリナを見ている。
リリナは動けなかった。怖い。怖いのに。
真ん中の頭が、少しだけ下がった。
リリナの手に、鼻先が触れた。
冷たい。でも、知っている冷たさだった。
「……ガル」
返事はなかった。でも、尻尾が、三本同時に、ゆっくりと揺れた。
リリナは膝をついた。
真ん中の頭に、そっと手を当てた。
「……びっくりした」
声が、少し震えていた。
「……ありがとう」
♢
しばらくして、靄がまた滲み出した。
縮んでいく。
足元に、黒い子犬がいた。
「ごしゅじん、だいじょぶ?」
リリナはガルを抱き上げた。
「……ガルって」
「おん」
「本当はすごく、強いんだね」
「おんおん」
「いつも、ちいさくしてたの?」
「るしるしゃまが、そうしろって」
リリナはガルを抱いたまま、路地の空を見た。夜が始まっていた。
怖かった。膝が震えるくらい。
それでも、鼻先の冷たさは同じだった。
それだけで、手を伸ばせた。
「帰ろう」
「おん!」
ガルはリリナの腕の中で、小さく鼻を鳴らした。
♢
宿に戻ると、ルシルが壁にもたれて立っていた。
「……戻ったか」
「なんでいるんですか」
「念のためだ」
「ずいぶん過保護ですね」
「……気にするな」
「報告があります」
「聞こう」
「商業組合から三名、様子見参加の許可が取れました」
「……そうか」
「それから」
リリナは続けた。
「ガルのこと、教えてもらえませんでしたか」
ルシルはリリナを見た。
「……護衛だと言った」
「護衛が、あんなに強いとは思いませんでした」
「知っていれば、どうした」
「……怖かったかもしれない、最初は」
「今は」
リリナは少し考えた。
「今は、よかったと思っています。知らなかったから、ガルを友達みたいに扱えた。ガルもそれが、嫌いじゃなかったと思う」
ガルが「すき!」と元気よく言った。
ルシルは何も言わなかった。でも視線を外した。窓の外を向く、いつもの動作。
「……一人で行かせるべきではなかった」
「でも、必要な交渉でした」
「そうだが」
「……心配してたんですか」
ルシルは答えなかった。
「ルシル」
「……報告は、以上か」
「以上です」
「そうか」
「ありがとうございます。ガルを連れてきてくれて」
ルシルはしばらく窓の外を見ていた。
「……善処した結果だ」
リリナは笑った。
ガルが「るしるしゃま、ごしゅじんのことすきなんだね」と言った。
「いらぬ世話だ」
「おん!」
ガルはなぜか誇らしそうに尻尾を振った。
リリナは手帳を取り出した。
今日の成果を書き込む。それから最後に一行。
城に帰ったら、また報告しなければならないことがある。
ルシルへの報告ではなく、ベルザードへの。
言ってくれなかった事に文句を言おう。
ペンを置いて、窓の外を見た。
夜空に、見慣れない星が並んでいた。




