第1話:依頼人
結婚相談所というのは、不思議な場所だとリリナは思う。
毎日、誰かの「孤独」が扉を開けて入ってくる。話を聞いて、書類を整えて、次の週には別の誰かの「孤独」が来る。それが繰り返されるうちに、自分自身の孤独には気がつかないふりができるようになっていた。
「先日ご紹介した田中さんとはいかがでしたか?」
「ああ、なんか違うかなって...」
「そうでしたか。次回は少し条件を広げてみましょうか」
微笑みながらメモを取る。胸の中では、また違うのか、という小さな声が通り過ぎていく。でもそれは仕事だ。感情をのせてはいけない。
休憩時間、デスクの端でスマートフォンをいじりながら読んでいるファンタジー小説には、剣を持った勇者が出てくる。異世界の扉を開けて、見たことのない景色に目を見張る主人公が。
「こういう人って、実際いたらどんな顔するんだろう」
と思いながら、お弁当の最後の一口を食べた。
「...少し相談があるのだが」
振り返ると、黒いマントを着た人物が立っていた。
来客の約束はなかった。いつ入ってきたのかも分からない。その立ち姿には妙な重さがあった。視線が合った瞬間、リリナの背筋が勝手に伸びる。
「...どのようなご相談でしょう」
警戒しながらも、反射的に「仕事の顔」になる。それだけは得意だった。
「種族の違いで孤立している者たちを、つなげたい」
静かな声だった。怒鳴ったり、急かしたりしない。ただそれだけを告げる。
「孤独な者たちのために、交流の場を作りたい。君の経験と知恵を借りたい」
リリナは少し考えた。種族の違い、という言葉が引っかかった。比喩にしては変な言い方だ。でも相談所に来る人の言葉を、額面通りに受け取ることは少ない。たいてい、本当に言いたいことは別のところにある。
「...つまり、互いを怖いと思っている人たちに、安心して出会える場を提供したいということですね」
依頼人はうなずいた。
「そういうことだ」
そう言うと、おもむろに床に手をかざした。
足元に光る模様が広がる。見たことのない幾何学的な紋様が、音もなく展開していく。
「え、ちょっと待っ――」
眩い光がリリナの体を包んだ。
足が地面を離れる感覚。鼓動だけが耳に響く。視界が歪み、色が溶け、自分の輪郭さえわからなくなった瞬間
光が、収まった。
甘い香りがした。
ゆっくりと視界が戻る。煌めくシャンデリア。石造りの高い天井。どこまでも続く大広間。正面には、金の装飾と黒光りする巨大な玉座。
きれいだ、と思った。
思ってしまった。恐ろしいはずなのに、全身が震えているはずなのに、目が離せなかった。ファンタジー小説で何度と読んだ景色が、匂いと温度を持って目の前にある。
「ようこそ魔王城へ」
傍らから声がした。
そこに立っていたのは――依頼人だった。
だが、違う。
見た目は、ほとんど変わらない。
黒いマントも、整った顔立ちも、相談所で向かい合ったときのままだ。
それなのに。
同じ人物だと、すぐには認識できなかった。
理由はわからない。
ただ、“質”が違う。
光の当たり方なのか、立ち方なのか。
ほんのわずかな差のはずなのに、そこにいるだけで空気が整う。
無理に支配しているわけではない。
けれど、この場の中心がどこかと問われれば、迷いなくここだと答えてしまう。
そういう存在感だった。
魔王城――、と言った。
リリナの頭が、ゆっくりと追いついてくる。
魔王城。ということはこの人は、この人が。
「あなたが...魔王、なんですか」
声が、思ったより小さかった。
依頼人――魔王は、答えなかった。ただ静かにリリナを見ていた。その目が「そうだ」と言っていた。
全身から血が引く感覚と、心臓が跳ねる感覚とが、同時に来た。
リリナの中で、何かの境界線が静かに軋んだ。
♢
最初に気がついたのは、匂いだった。
石と、蝋燭の煙と、知らない花の香り。
目が覚めると、見慣れない天井があった。
石造りだが粗雑ではなく、細かな装飾が施された高い天井。燭台の炎が静かに揺れ、部屋全体をオレンジ色に染めている。シーツは上質で、むしろ今まで寝たどのベッドより心地よかった。
リリナはしばらく、天井を見つめたまま動けなかった。
夢だ、と思いたかった。でも全部の感覚がリアルすぎる。蝋燭の炎が揺れるたびに天井の影が動く。シーツの縫い目が指に当たる。口の中が乾いている。
夢じゃない。
「...はあ」
声に出してみると、部屋の静けさが余計に際立った。
ゆっくり起き上がって窓に近づく。外には見たこともない異形の山々が広がっていた。雲が、とても近い。
思わず二歩、後退した。
どこだここ。どこ。高い。どうして雲がこんなに近いの。帰れるのか。スマートフォンは。財布は。会社は。今日シフト入れてたっけ。
頭の中が高速で回転し始めたとき、扉がノックされた。
「お目覚めでしょうか」
恐る恐る扉を開けると、長身の老いた紳士が立っていた。上品なベスト、漆黒のジャケット、白い手袋。完璧に整えられた老執事の出で立ちで、しかし肌はわずかに灰色がかり、背中には折り畳まれた黒い翼があった。
「おはようございます、リリナ様。私はベルザードと申します」
深々とお辞儀をされる。思わずリリナもお辞儀を返した。
「あ、えっと...よろしくお願いします」
返してから、なんで私がお辞儀してるんだ、と思った。
そのとき、ベルザードの足元から黒い塊が飛び出してきた。
「おはおう!ごしゅじん!」
子犬だ。全身真っ黒で、首輪には銀色の小さな装飾が3つ揺れている。飛びついてきたそれを反射的に受け止めると、頬に冷たい鼻先が押しつけられた。
「...え、かわいい」
思わず抱きしめてしまった。子犬はうれしそうに身をよじる。
「こちらはケルベロスのガルムでございます。ぼっちゃまがリリナ様の護衛として」
「護衛...?この子がケルベロス?」
ケルベロスは知っているがリリナの知っている姿とは似ても似つかない。
「おんおん!ガル、ごしゅじんまもる!」
「...喋れるんですね」
ケルベロスは「おん!」と元気よく答えた。リリナは子犬の頭を撫でながら、笑いをこらえた。何かがおかしくて笑いたいのか、緊張がほぐれて笑いたいのか、自分でもよくわからなかった。
どちらにせよ、少しだけ息ができるようになった気がした。
「リリナ様、朝食のご用意があります」
部屋の小さなテーブルに、静かに料理が並べられていく。スープと、薄く切ったパンと、小皿に盛られた見慣れない果物。豪華ではない。でも器は丁寧に磨かれていて、スープには細かく刻まれた香草が浮かび、えも言われぬ香りが立っていた。そしてガルの前には骨付きの肉が一本、別の皿に置かれた。
「わーい!おにく!」
ガルが勢いよく皿に顔を突っ込み、太い骨を嬉しそうにかじっている。
リリナはその様子を眺めながら、ふと気がついた。ベッドの脇の椅子に、見慣れない服が畳んで置いてある。昨日まで着ていた自分の服ではない。
「あの、この服は」
「ご用意いたしました。サイズが合わなければ調整いたします」
手に取ると、落ち着いた紺色の生地で、仕立ては中世の西洋風に近い。でも襟口の仕立てや袖回り、全体的にどこか違う。ボタンの代わりに小さな留め具があり、触れると指先にわずかな熱を感じた。
「...魔法ですか、これ」
「防寒と防汚の簡単な術がかけてあります。この城は石造りで冷えますので」
リリナはしばらく服を眺めた。いままでスマホで見ていた異世界に自分自身が入り込むことになるなんて。
着替えてテーブルに座り、スープに口をつける。温かい。塩気は薄めだが、嫌いじゃない味だった。
「おいしい...」
「料理長が加減に悩んでおりました。人間のお口に合うかどうか、と」
リリナはスープの中を見た。
しばらく食べてから、口を開いた。
「聞いていいですか」
「何なりと」
「帰れますか。元の世界に」
ベルザードは少しの間、黙った。その間がリリナには長く感じられた。
「ぼっちゃまに確認が必要ですが、不可能ではないかと」
「不可能ではない、というのは」
「可能かどうか、まだ確約できないということでございます」
正直な答えだった。リリナはパンをちぎりながら、窓の外を見た。遠くに見える山の形は、知っているどの山とも違う。
「私は、どうなるんでしょう」
「詳しいことは、ぼっちゃまからお聞きになるのがよろしいかと思います」
つまり今日、会うということだ。
リリナはパンの最後のひとかけらを口に入れた。答えが出るまで不安が消えるわけではない。でも今すぐ確かめる方法もない。できることは、会って、聞くことだけだ。
それだけは、相談所の仕事と変わらなかった。
朝食の後、広間に通された。
「ルシル様、リリナ様をお連れしました」
部屋の奥、大きな窓を背にして黒いマントの人物が立っていた。昨日の依頼人だ。窓の外を見ていたが、リリナが入ってくると静かに振り返る。
「目が覚めたか、人間」
リリナは一瞬固まった。
「...あの、リリナといいます」
「そうか」
悪びれる様子は一切なかった。リリナは内心でそうか、じゃないと思いながら、勧められた椅子に腰かける。
ルシルはしばらく無言だった。
窓の外の雲が流れていく。ガルがリリナの足元で丸くなる。
沈黙に耐えかねてリリナが口を開こうとした瞬間、ルシルが静かに言った。
「我の名はルシル、この城の主である。人間、お前に頼みたいことがある」
ルシルは少しの間、何も言わなかった。窓の外に視線を向け、また戻す。口を開きかけて、閉じる。
「...その、人間と魔族が」
また止まった。言葉を探しているのだろうか。
そんな中、ベルザードが静かにお茶を注ぎながら口を開いた。
「よろしければ、私からご説明いたしましょう」
ルシルの眉がわずかに動いた。
「...数ヶ月前ぼっちゃまは、人間の都市を視察されたのです」
「ベルザード」
「事情をご説明しております。お静かに」
ベルザードは涼しい顔で続ける。
「山の上から人間の都市をご覧になっていたぼっちゃまが、ある日どうしても近くで見たいとおっしゃいまして」
「...それは」
「人間に化けてお一人で向かわれました。そこで見事なまでに美しい女神の絵をご覧になって、大変感銘を受けられたようで」
リリナはルシルをちらりと見た。魔王は窓の外に視線を向けたまま、微かに口を引き結んでいた。
「絵だけではございません。音楽、詩、料理、大道芸...笑顔の人々。ぼっちゃまにとって、全てが初めてご覧になるものでした」
「...それで、どうされたんですか?」
リリナが思わず前のめりになって聞くと、ベルザードは静かに続けた。
「感銘を受けたぼっちゃまは、魔物にもこの素晴らしさを知ってほしいとお考えになりまして」
「はい」
「とりあえず近くの魔物を引き連れて、その都市へ向かわれました」
リリナは一瞬、言葉を失った。
「...とりあえず?」
「とりあえず、でございます」
ベルザードの声は相変わらず穏やかだった。
リリナは必死に笑いをこらえる。
「人間側は突然現れた魔物の集団に大変な騒ぎとなりまして。連れて行かれた魔物たちも何故そこへ連れてこられたのか理解できず困惑するばかりで、ぼっちゃまのお気持ちはどなたにも伝わらなかったと」
「...そう、なんですか」
リリナはルシルを見た。魔王は完全に体を向け窓の外を見ていて、あいにく表情は見て取れない。
足元でガルがあくびをする。
「それからぼっちゃまはどうすればよいか悩まれ、専門家の知恵を借りることをお考えになりました」
リリナはしばらく黙っていた。笑いをこらえていた、というのは本当だ。でもそれと同時に、胸の中に別の何かがあった。うまく名前をつけられないものが。
相談所で何度も聞いてきた。自分の気持ちを言葉にできなくて、でも誰かに届けたくて、すれ違っていく人たちの話を。
種族が違っても、そこだけは同じらしい。
「...わかりました」
リリナは真剣な顔でルシルを見た。
「協力します。人間と魔物が笑顔で交流できる場を、一緒に作りましょう」
向かいに座ったルシルは、しばらく何も言わなかった。窓の外の雲が流れていく。
ルシルがゆっくりとリリナを見た。
「...頼んだぞ、人間」
「リリナです」
「そうか」
ベルザードのわずかなため息の後で、足元で小さく「ごしゅじん、がんばれ!」と聞こえた。
リリナは小さく息を吐いた。
そうか、じゃない。そう思いながらも、今はそれでもいいか、という気もした。




