【5-2】爪痕と黒き影
鐘楼の余韻がまだ耳に残るうちに、ノクスは「今日はここまでじゃ」とティアナを促し、二人は人々のざわめきが続く広場をあとにした。胸の奥に残る高鳴りを抱えたまま、ティアナは足を速める。
目指すは喫茶店ノクターナ。その裏口をくぐった瞬間、鼻先をくすぐるのは香ばしい豆の香りだった。静かな店内を抜け、二階の一室へと足を踏み入れると――そこには、毛並みの濃いベージュのけもみみ族がどっかり腰を下ろしていた。
大きな尻尾が床をゆるやかに揺らし、耳がぴくりと動く。その姿にティアナは思わず息をのむ。
「……やっぱり、この人が……助けてくれたんだ」
そのとき、ベッドのほうからかすかな声がした。
「……ティアナ?」
驚いて振り返ると、薄い布団の下からフィオナが顔をのぞかせていた。血色はまだ悪いが、かすかな笑みを浮かべている。
「フィオナ! 大丈夫なの!?」
ティアナは駆け寄るが、フィオナは逆に彼女を心配そうに見上げて首を振った。
「ティーちゃんこそ…元気そうで良かったよ」
その温もりあるやりとりを見守っていたノクスが、ふと表情を引き締める。
「しかし……魔獣が街中に現れるなど、普通はありえんことじゃ」
低い声で続ける。
「遺跡の結界が揺らぎ始めておるのかもしれん。いずれにせよ、不穏じゃな」
ティアナの胸に、広場で怯える人々の叫びがよみがえる。賑やかな街に潜む、得体の知れない影――。
「……っ」
思わず胸を押さえたティアナに、フィオナが駆け寄る。
「ティーちゃん! 顔色悪いよ、大丈夫!?」
「……うん、ちょっと、思い出しちゃって」
その様子を、シグは静かに見守っていた。磨いていたカップをそっと置くと、低い声が店内に落ちる。
「胸に重く残るものがあるようじゃな……無理もない」
「シグさん……」
「広場での影、あれはただの獣ではない。魔素に侵されし存在――人の営みを脅かす、魔獣のたぐいじゃ」
その言葉に、フィオナはきゅっと眉をひそめる。
「……ふん。魔獣より、人間のほうがよっぽど怖いときだってあるけどね」
吐き出した声は、鋭くとがっていた。けれど視線はティアナに寄り添い、手は離そうとしない。
ティアナは一瞬、息を呑んだ。フィオナが抱えている葛藤を、少しだけ垣間見た気がした。
(……フィオナは、やっぱり人間を……)
シグは眉一つ動かさず、ただ頷いた。
「確かにのう。人の心の闇もまた、魔素に劣らぬ厄介なものじゃ。――じゃが、ここは人の街。お主らが不用意に魔法を振るえば、ただでは済まぬ」
「……分かってる」フィオナは唇を噛みしめた。「あたしだって、好きで人と関わりたいわけじゃない。でも……ティーちゃんがいるから」
その声は小さく震えていた。
ティアナはただ、彼女の手をぎゅっと握り返すしかできなかった。
椅子に腰掛けたシグが、静かに言葉を落とす。
「街での出来事――魔獣の出現は、偶然ではあるまい。結界の内側にまで入り込んでおった。誰かが意図的に動かしていると考えるべきじゃろうな」
「ふむ、わらわもそう思うぞ」
ノクスが頷き、得意げに続けた。
「これは好機じゃ。イリシアに潜む謎を探るのは、わらわの知識欲を満たすに十分! 遺跡の資料もあるやもしれんのう!」
フィオナが複雑そうに眉を寄せる。
「……ノクスの言うことはわかるけど」
一拍置いて、声音が硬くなる。
「でも、イリシアの人間たちに見つかったら? あの街の連中が、あたしたちをどう見るかなんて」
その声には、過去の痛みを滲ませた諦めと、同時に戦う意志が混在していた。
ティアナは胸が締めつけられる思いで、彼女を見つめた。
「でも……放っておけないよ。魔獣のせいで誰かが傷つくのは嫌だから」
その言葉に、フィオナは目を伏せ、しばらく黙った後、皮肉っぽく笑った。
「……ほんとに、お人好しよね、ティーちゃんは。まあ、わたしもあんな連中に好き勝手されるのは癪だけど」
シグが低くうなずいた。
「いずれにせよ、この街で暮らす以上、目を背けることはできぬ。じゃが――忘れるな。ここは人の街じゃ。魔法を使えばたちまち目をつけられる。心せよ」
窓の外から、再び鐘楼の音が響いた。
その澄んだ響きは一見穏やかだったが、ティアナの耳には、不吉な前触れのように重く響いていた。
昼下がりの街は活気に満ちていた。石畳を行き交う人々、香ばしい焼き菓子の匂い、通りの片隅で弦を弾く旅芸人の音色。ティアナはその全てに目を奪われながらも、胸の奥で冷たい緊張を抱いていた。
ほんの一瞬、耳に触れるざらついた気配。視線の隅に過る黒い影。
「……やっぱりいる」
フィオナが足を止め、低くつぶやく。
ノクスは視線を走らせ、石造りの屋根の上を一瞥した。
「気づかれぬよう、こちらも慎重にならねばな」
人々は何も気づかぬ様子で買い物を続けている。まるで世界に裂け目ができているのに、そこを歩いているのが自分たちだけのような錯覚を覚えた。
すぐ脇の広場では、祭りの飾りつけが進んでいた。鮮やかな布と提灯が風に揺れ、子供らが歓声を上げて走り回る。その笑顔に触れ、ティアナは胸を締めつけられる。
――この光景を壊させてはいけない。
「魔法を使うのは最後の手段だよ」
ティアナは小声で二人に告げる。
フィオナはむっと眉を寄せたが、すぐに視線を逸らした。「わかってるわよ。でも、もしものときは――」
「わらわが抑えてみせよう」
ノクスが短く言い切った。その声音に、フィオナも反論を飲み込む。
鐘楼から、再び澄んだ鐘の音が響いた。人々は祭りの合図と受け取って拍手し、笑顔を交わす。
だがティアナには、それが迫る不穏を告げる警鐘のように思えてならなかった。
華やかな大通りには露店が並び、子供たちの笑い声が弾んでいる。焼きたての甘い香りさえ漂っていたが、ティアナの胸には冷たいざわめきが渦を巻いていた。
――何かが、潜んでいる。
「……こっち」
唐突にフィオナが足を止め、人混みから外れて細い路地へと入っていく。ティアナとノクスもすぐに後を追った。途端に喧噪は遠のき、湿った石壁と薄暗さが三人を包み込む。
フィオナの視線の先には、石壁を抉るような爪痕が刻まれていた。その脇の石畳には、黒い痣のような染みが沈んでいる。血にも油にも見えない、光を吸い込むような不気味な色。
ティアナの背筋に冷たいものが走る。
「……ここを、通ったの?」
「可能性は高いわ」フィオナの声は低く、硬い。
ノクスが痕跡を確かめながら言う。
「犯人がこの路地を使っているなら、手を打っておくべきじゃな」
彼は石壁の模様に指をかざし、淡い光を走らせた。古い紋様が浮かび、わずかに震える。
「ここに触れれば罠が作動する。気づかれぬ程度の仕掛けじゃ」
それを見て、ティアナの胸にふと小さな憧れがよぎった。自分には、こうした繊細な術は扱えない。力が大きすぎるゆえに、かえって細やかな魔法は不器用なのだと感じる。
「さっきお主も使ったじゃろ?」
ノクスが振り返る。
「……少しだけ、ね」
フィオナはそっぽを向きながら答えた。
ふたりの軽いやり取りを見守りながら、ティアナは拳を握った。この力を抑えながら、街を守る方法があるはず――そう自分に言い聞かせるように。
仕掛けを終えたノクスが指を払うと、紋様はすっと闇に溶けて消えた。表向きにはただの古びた石壁に戻り、誰も気づくはずのない罠がそこに潜む。
「よし、これで一歩は先んじた」
声は平板だったが、どこか安堵も滲んでいた。
ティアナは爪痕と黒い痣に視線を残したまま、小さく息を吐く。あの染みは、見れば見るほど不吉さを増していくようだった。けれど今ここで騒ぎ立てても、人々の笑顔を曇らせるだけだ。
「戻ろう」
フィオナが言った。声の硬さは残っていたが、歩き出す足取りは迷いがなかった。
三人が路地を抜けると、祭りの準備に沸く大通りが再び広がった。子供たちの笑い声、笛の音色、陽光に照らされた色鮮やかな布――つい先ほどの冷ややかな闇が幻だったかのように思える。
けれどティアナの胸には、はっきりと痕跡の映像が焼き付いて離れない。
「……やっぱり、嫌な感じがする」
誰にともなく漏らすと、フィオナが横目で彼女を見た。
「だからこそ、確かめるのよ。ここに住む人たちに、知られないうちに」
その言葉には、過去に痛みを背負った者だけが持つ切実さがあった。
ノクスは肩をすくめる。「いずれ化けの皮は剥がれる。だが、先にこちらが動けば街は守れるじゃろ」
その飄々とした口ぶりが、逆に頼もしく響いた。
広場では、祭りを告げる小さな太鼓が鳴り始めていた。踊り子たちが色鮮やかな布を揺らし、観客が集まりつつある。笑い声と歓声が重なり合い、昼の街を包む。
ティアナは思わずその光景に目を細めた。守りたい日常が、たしかにここにある――そう感じた矢先だった。
「……へぇ、いい子ぶりやがって」
背後から投げかけられた声に、ティアナは振り返った。路地の入口に、猫耳をぴんと立てた少女が腰を下ろしていた。艶やかな紺色の髪に、細い尻尾が苛立たしげに揺れる。
「誰?」フィオナが眉をひそめる。
少女はにやりと笑い、ティアナを指さした。
「お前だよ、お姫様気取り。助けてやった顔してんじゃねぇぞ」
挑発的な声音に、ティアナは言葉を失った。知らぬ間に人目を引いていたのか――それとも、この娘は最初から彼女を狙っていたのか。
ノクスが面白そうに目を細める。「ずいぶん元気な小猫じゃの」
「小猫って言うな!」
少女は即座に噛みついた。だが、その視線はティアナから外れない。瞳の奥には、憎しみとも羨望ともつかぬ光が宿っていた。
「フン、あんたみたいなのが街を守る? 笑わせんな。そんなの、あたしが一番知ってんだよ」
吐き捨てるように言い放つと、少女――ザラは石畳を乱暴に蹴り、群衆の影へと消えていった。
その背中を見送りながら、ティアナは小さく呟いた。「……あの子、けもみみ族?」
ノクスが顎に手を当てて首を振る。「いや、違う。いや、正確には――ハーフじゃな。お主と同じ」
「え……?」ティアナは瞬きを繰り返す。
「この街には純血のけもみみ族はおらんはずじゃ。とっくの昔に迫害され、姿を消したと聞いとる。残っとるのは人との混血だけよ」
ティアナの胸に、不思議な痛みが走った。ハーフ――その言葉は、彼女にとっても決して軽い響きではなかったからだ。フィオナがちらりとティアナを見やり、何かを言いかけて、結局飲み込む。
広場からは祭りの音がますます大きく響いてきた。太鼓の拍子に子どもたちが跳ね、飾り布が風に舞う。そこに笑顔があり、喜びがある。けれど、その影であの少女の言葉が耳に残り、胸をざわつかせる。
――“そんなの、あたしが一番知ってんだよ”。
少女が吐き捨てた言葉の意味は何なのか。ただの嫉妬とも思えない。
路地裏に刻まれた爪痕、黒い痣。あの不穏な痕跡と、少女の挑発がどこかで繋がっているような気がしてならなかった。
「行こう」
フィオナが先を促す。
ティアナは深呼吸してうなずき、視線を広場から逸らした。守るべき日常と、その裏でうごめく気配。その両方を見据えなければならない。
――そう胸の奥で静かに思ったとき、風の合間を縫ってどこか遠くから低い唸り声がかすかに響いた。




