【5ー3】居場所なき者たち
石畳の道に朝の光が差し込み、街並みがゆっくりと目を覚ましていく。ティアナとノクスは人通りの少ない通りを肩を並べて歩いていた。
「朝の空気って、澄んでて気持ちいいな」
ティアナが伸びをすると、ノクスはふんと鼻を鳴らす。
「うむ、静かで良い。だが腹が減っては何も始まらぬぞ」
ちょうどよく開いていた小さなカフェに足を踏み入れると、陽気な店主が声をかけてきた。
「お嬢さん方、今日は祭りだすよ! うちも昼から屋台を出すんだ。名物は、りんご飴!」
「りんご……飴?」
ノクスの耳がぴんと立つ。瞳がきらりと輝き、子供のように前のめりになった。
「甘いのか!? 甘いのじゃな!? ならば食べねばならぬ!」
その必死さにティアナは吹き出し、「はいはい、あとで食べようね」となだめる。
昼になると、街は一変していた。色とりどりの布がはためき、笛や太鼓の音があちこちで鳴り響く。香ばしい匂いが漂い、人々の笑い声が重なり合って賑やかだった。ティアナは屋台をのぞき込み、ノクスは甘味を探して右往左往する。そんな平和な時間は、ほんの一瞬で崩れ去った。
「む?」
不意に肩がぶつかり、ノクスはよろめいた。振り返った時には、すでに人混みの向こうへ消えていく背中。胸騒ぎを覚えてポケットへ手をやると――財布がない。
「ぬかったわ! あやつ、取りおったな!」
鋭い眼差しが祭りの雑踏を射抜く。次の瞬間、ノクスは地を蹴った。
「追うぞ、ティアナ!」
祭囃子の中、ふたりの影が人波を裂いて駆けていった。
祭りの喧騒を抜けると、通りは次第に細く暗がりへと変わっていった。ノクスとティアナは息を切らせながら石畳を駆け、ついに路地裏の奥で足を止める。そこに腰を下ろしていたのは――見覚えのある猫耳の少女だった。
「……あなた」
ティアナが警戒の声を漏らすと、少女は口の端をつり上げた。手には、ノクスの財布がひらひらと掲げられている。
「やっぱりあんたらか。追いついてくると思ってたよ」
挑発的な視線にノクスが一歩踏み出しかけるが、少女はすぐに言葉を重ねる。
「取引だ」
「取引、じゃと?」
「妹を助けてほしい。……ま、無理だろうけどな」
強がりに包んだ声の奥に、僅かな震えが混じっていた。少女は視線を逸らし、唇をかみしめる。彼女が握る財布よりも、その一言の方が重く響いた。
ティアナはその言葉に心を引かれるように目を細めた。少女の背後、かすかに漂う気配――それは街で何度か感じたことのあるものだった。
「……魔素、ね」
思わずつぶやいた声に、少女の耳がぴくりと動く。
「あなたの妹の病は、ただの病じゃない。魔素が身体を蝕んでいる」
少女は驚愕の色を浮かべ、そしてすぐに眉をひそめる。
「……だから何だよ。治せるっていうのか? お前に?」
挑みかかるような言葉。だがその奥には、必死に縋りたい思いが滲んでいた。
ティアナは真っ直ぐに見つめる。
「私はティアナ。あなたは?」
「……ザラ」
一瞬の躊躇の後、小さく答えた。
「ザラって呼べよ。お姫様気取りは嫌いだけど、名前で呼ばれないのはもっと嫌いだ」
ノクスが腕を組み、横目でティアナを見やる。
「どうする、ティアナ? こやつの言葉、虚勢ばかりではなさそうじゃが」
ティアナは静かに頷いた。見えないはずの光が胸の奥で揺らめき、迷いを追い払っていく――それが答えを導いていた。
ザラに案内され、ふたりはさらに細い路地を抜けた。小さな扉の奥、古びた部屋の中に横たわっていたのは、まだ幼さを残す子供だった。顔は青白く、細い指は震え、呼吸は浅い。毛布の下からのぞく腕には黒ずんだ痣が浮かび、見るからに苦しげだった。
「……リナ」
ザラが膝をつき、妹の手を握る。挑発的な態度は影を潜め、代わりに必死の姉の顔がそこにあった。
「医者に診せに行ったら『金もねぇ奴に治療するわけねぇだろ、失せろ!』って追い返された。薬を買う金もない。あたしには……どうしようもできねぇんだ」
声が震えていた。強がってきたザラが、初めて見せる弱さだった。握りしめた拳が小刻みに震え、妹を見つめる瞳には悔しさと絶望が入り混じっていた。
ティアナは静かに膝を折り、リナの顔を覗き込む。その小さな身体を包むように、淡い光が目に映った。
「やはり……魔素が体内を蝕んでいる」
呟きながら、彼女は掌をそっとリナの胸にかざした。
ノクスが眉を上げる。
「治せるのか?」
「分からない。でも――やるしかない」
ティアナの瞳が真剣さを帯びる。深く息を吸い込み、胸の奥に宿る光の力を呼び起こす。淡い輝きが手のひらから溢れ、リナの身体をやさしく包み込んだ。部屋の空気が震え、黒い靄のようなものが肌の下から浮かび上がる。それは魔素の毒だ。
リナは苦しげに身をよじり、微かな声を上げる。ザラが慌てて妹を抱きかかえようとするが、ティアナが静かに制した。
「大丈夫。少しだけ耐えて……」
光がさらに強さを増す。黒い靄がひとつ、またひとつと弾かれ、空気に溶けるように消えていく。リナの呼吸は次第に整い、頬にうっすらと赤みが戻ってきた。
「……あ……ねえ……」
かすれた声が響く。リナが目を開き、涙ぐむザラの顔を見上げた。
「リナ!」
ザラは言葉を失い、ただ妹を抱きしめた。肩が震え、頬を伝う涙は止まらない。
「嘘……だろ。ほんとに……治ったのか……?」
ティアナは光を収め、ゆっくりと立ち上がった。額には汗がにじんでいる。
「完全ではないけれど、魔素の影響は取り除いた。しばらく休めば元気になるはずよ」
ザラはしばらく何も言えずにいたが、やがて顔を上げ、複雑な瞳でティアナを見据えた。敵意、驚き、そしてほんの僅かな感謝が入り混じっている。
「……あんた、いったい何者なんだ」
リナの寝息が安らかになった頃、室内には静けさが戻っていた。ザラは妹の手を名残惜しそうに握りしめ、それからティアナへと視線を移す。敵意はまだ消えていない。だが、そこには抗いきれない迷いと感謝も混じっていた。
「……嫌いだ。あんたのことは今でもムカつく。けど……助けてくれたのは事実だ。」
ザラは言葉を噛みしめるように吐き出した。
「あたしには、それに見合うもんなんて大してねぇ。だから――代々伝わってきた伝承を教えてやる」
ノクスが小さく目を細める。「伝承……ほう、興味深いの」
ザラは壁際に腰を下ろし、膝を抱えながら語り出した。
「人間がこの大地に根を下ろせたのは、自分たちだけの力じゃない。最初に彼らを護ったのは、森と獣と共に生きるけもみみ族だった」
ティアナは眉をひそめる。「人間だけじゃ、魔獣に勝てなかったってこと?」
「そうだ。あたしたちが力を貸し、代わりに人間は知識や記録を残した。互いが補い合ったからこそ都市が築けたんだ。イリシアもその一つだ」
ノクスが軽く頷く。「その話は存じておる。結界や浄化を担ったのはけもみみ族、人間は学問と制度を……二つで一つの繁栄、というやつじゃろう?」
ザラは苦い笑みを漏らす。
「よく知ってるな。その通りだ。あたしたちは恐怖の対象となり、追放された。表向きは“保護”とか“安全のため”と飾られてな」
ティアナは目を瞬いた。
「え……でも、そんな話は聞いたことないよ。人間は――自分たちの力だけで街を築いたって……教えられてきたもの」
ザラの瞳に暗い影が差した。
「それは記録から消されたからだ。人間は自分たちだけで文明を築いたと信じ込むようになった。あたしたちが支えた礎を、都合よく塗り替えてな」
ノクスが腕を組む。
「……じゃが、わしが知る記録には一つ抜けておることがある。ハーフの存在じゃ。人間とけもみみ族の血を継いだ者は……どうなった?」
ザラは一瞬ティアナに視線を向け、そしてゆっくり答えた。
「ある時から、すべてが崩れた。魔素に呑まれ、けもみみ族が獣のように暴れる事件が起きた。人間は恐怖し、あたしたちを追い出したんだ。『保護』や『安全のため』と飾ってはいたが、実際は排除だった」
「……だけど、あたしたちハーフは完全には追放されなかった。しかし、人間と同じ扱いはされず、どちらからも異端と見なされ――居場所を失った者がほとんどだった」
ティアナの胸がちくりと痛む。自分自身が、その『居場所を持たない者』の一人であると告げられた気がして。
ザラの声は低く、しかしはっきりと響いた。
「お前の存在こそが、その矛盾の証だ、ティアナ」
ティアナはしばし言葉を失った。ザラの視線に射抜かれるような感覚が、胸の奥をざわつかせる。
ノクスがゆるりと息を吐き、「ふむ、伝承に隠された歪み……やはり面白いの」と呟いた。だがその声音の奥には、僅かな痛みも滲んでいた。
「居場所を失った者……」
ティアナは小さく繰り返した。母から教えられた『人間の街』と、ザラが語る『消された歴史』。そのどちらが真実なのか――いや、どちらも真実であるがゆえに、心は揺れる。
ザラは立ち上がり、財布を無造作に投げ返した。
「助けてもらった礼は、これで十分だろう。……あとは好きにしろ」
受け取ったティアナの手が、わずかに震えていた。彼女自身も、自分の立場も、この街の歴史も――全てが揺らぎ始めている。
ノクスはその横顔を見つめ、そっと囁いた。
「ティアナよ、選ぶのはいつもおぬしじゃ。知ることは痛みを伴うが……それを背負えるのはおぬししかおらん」
ティアナは目を閉じ、深呼吸を一つ。闇に呑まれるのではなく、光を灯すために。そう自分に言い聞かせるように、静かに瞳を開いた。
遠く、祭りの喧噪がまだ響いている。笑い声と歌声。その裏で交わされた言葉は、確かな影となって彼女の中に刻まれていた。
――過去と未来が交差する狭間で、ティアナは新たな決意を胸に抱き始めていた。




