【5-1】街影にひそむ牙
夢の余韻が消えるより早く、ティアナはゆっくりと瞼を開けた。
目に映るのは見慣れぬ天井。木の梁、柔らかな光を落とすランプの灯り、そして外から微かに聞こえる街のざわめき。
「……ここ、は……」
声はかすれて、自分のものとは思えなかった。
身体を起こそうとした瞬間、ふわりと頬に温かな感触が触れた。横を見ると、布団の端から大きな毛並みのしっぽがのびていて、ゆったりとした呼吸に合わせて揺れている。
その持ち主は椅子に座り、机に片腕を投げ出して眠っていた。濃いベージュの毛に覆われた大きな体、ふさふさの耳と胸毛――人間とはかけ離れた、堂々たる獣人の姿だった。
(……この人が、私を助けてくれたの……?)
そう思うと、胸の奥で不思議な安堵が広がる。恐怖よりも、守られている安心感が強かった。
と、その時。
きぃ、と扉が開く音がして、香ばしい匂いと共にノクスが入ってきた。手には湯気を立てる朝食の盆を抱えている。
「おお、やっと目を覚ましたか。ふむ、顔色も悪くないのぅ」
そう言って盆を机に置くと、ノクスは椅子に眠る獣人をちらりと見て、小さく笑った。
「驚いたか? そやつは――シグじゃよ」
「……えっ?」
「今はありのままの姿になっておるんじゃ。真の姿、と言うべきかの。ティアナの前では気が抜けるのと……まあ、2、3日前に魔力を使いすぎたせいで、あぁなっておるのかもしれんがな」
さらりと告げられた言葉に、ティアナは息を呑む。
「し、シグ……じいさん……? えっ……私、そんなに寝てたの……!?」
信じられない事実が一度に押し寄せ、ティアナの心は驚きと困惑でいっぱいになった。だが、頬に触れるもふもふの温もりだけは、夢ではない確かさを持っていた。
ティアナはゆっくりと身を起こし、窓の外を見やった。見知らぬ景色が広がっている。
胸にひとつの疑問が浮かび、彼女は思わず口を開いた。
「……ここは……まだ、森なの?」
ノクスはふふんと鼻を鳴らし、からかうように杖を軽く振った。
「聞いて驚けぇ? ここは人間が暮らす街――『イリシア』じゃ。シグが張った結界のおかげで外からは隠されておるゆえ、安心せぇ」
「……えっ、人間の……街……?」
ティアナは目を丸くした。
さらに部屋を見回し、小さく声を震わせる。
「じゃあ……この部屋は?」
ノクスは口元をにやりと上げ、軽く杖を振る。
「ここの部屋は、喫茶店ノクターナの二階にある一室じゃ。わらわとシグの根城みたいなもんじゃな」
ティアナはもう一度窓の外に目を向けた。
そこには石畳の通りがあり、人々が忙しなく行き交っている。荷馬車が通り、露店では果物や布が並び、子どもたちがはしゃぎながら走っていく。どこからか楽器の音も響き、街全体が朝の活気に包まれていた。
「すごい……本当に、人間の街なんだ……」
だが、ノクスはすぐに真面目な顔になり、言葉を続けた。
「……ティアナよ、ひとつ覚えておけ。ここは"人間"の街じゃ。わらわは幻術の姿でしかイリシアを出歩いたことはないし、今後もそうしていく。
お主は見た目だけなら人間同様じゃから出歩いても問題はない……んじゃが、この街は地下都市とは全く異なる文化を持つ。さまざまな者が集うが、けもみみ族はほとんどおらん。住んでおるのは、ごくわずかなハーフくらいじゃ」
ティアナは小さく息を呑み、外の賑わいをもう一度見つめた。胸の奥には不安と同時に、抑えきれない好奇心が芽生え始めていた。
だがすぐに、彼女の視線は自分の隣にいない仲間へと思い至る。
「……あの、フィオナは……大丈夫なの?」
ノクスは少しだけ表情を緩め、頷いた。
「心配はいらん。シグが手を尽くしてくれたおかげで命に別状はない。まだ安静にせねばならんが、目も覚ましておるし、食事も少しずつ口にできるようになったわ」
「……よかったぁ」
ティアナの胸に、じんわりと安堵が広がった。森での戦いの光景がまだ頭に焼き付いていたからこそ、その言葉が何よりの救いだった。
ノクスはそんな彼女の様子を横目に、わざとらしく咳払いをする。
「さて……街に出てみたいと思わんか? ずっと閉じこもっておっては息が詰まるじゃろう。わらわも散歩がてら案内してやろうかと思っておるのじゃ」
「街に……?」
ティアナの耳がぴくりと揺れる。外に広がる賑わいを見れば、足を踏み出してみたい衝動は抑えきれない。だが同時に、不安も小さく膨らむ。
「でも……私、本当に出ても大丈夫なのかな」
ノクスは肩を竦め、からからと笑った。
「問題あるまい。お主の見た目は人間そのものじゃから、誰も怪しむことはない。むしろ好奇心で目を輝かせる者はいても、害をなす者はそうそうおらん。……もっとも、イリシアは地下都市とは違う。人も文化も多種多様じゃ。そこは肝に銘じておけ」
ティアナは窓の外を見つめ直す。露店から漂う甘い果物の匂い、行き交う人々の声、子どもたちの笑い声。
未知の世界がすぐそこに広がっている。胸の奥で小さく震える不安を抱えながらも、それ以上に芽生えた好奇心が彼女を強く引き寄せていた。
「……うん。行ってみたい」
その言葉に、ノクスは満足げに口角を上げた。
ノクスは立ち上がり、杖を軽く突いた。
「それと……ひとつ、大事なことを言っておかねばなるまい」
ティアナは首をかしげる。
「大事なこと……?」
「ここでは――決して魔法を使うでないぞ」
ノクスの声がいつになく硬く響き、ティアナは思わず背筋を伸ばした。
「えっ……どうして?」
「危険だから、というのもあるが……そもそも人間は魔法を使えんのじゃ。ここで力を見せれば、不思議がられるどころか、通報されかねん」
ノクスはからりと笑いながらも、その瞳には真剣な光が宿っていた。
「お主は目立つ耳も尾も持たん。だからこそ、この街では人間と変わらぬ顔で歩ける。それは強みでもあり、同時に試練でもあるぞ」
ティアナは小さく唇を噛んだ。自分にとっては当たり前の力も、ここでは隠さねばならない。そう考えると、不安が一層膨らむ。けれど、ノクスの言葉の最後に滲んだ『試練』という響きが、胸の奥で小さな灯をともした。
「……わかった。気をつける」
ティアナはこくりと頷いた。
やがて二人は、喫茶店ノクターナの扉を押し開け、街の空気へと足を踏み出す。
石畳の道は朝の光を浴び、露店が軒を連ねて活気に溢れていた。焼きたてのパンの香り、果実を並べる商人の声、芸を披露する旅芸人の笛の音――ティアナの五感を刺激するものすべてが新鮮で、目を輝かせずにはいられなかった。
「わぁ……すごい、人がこんなに……!」
ティアナは子どものようにきょろきょろと辺りを見回す。
ノクスはその様子にくすりと笑い、肩を軽く叩いた。
「落ち着け、落ち着け。ここは人間の街じゃ。珍しいもんに目を奪われるのも無理はないが、口を開けて歩いておったらすぐに田舎者だと見抜かれるぞ」
ティアナは慌てて口を閉じ、頬を赤らめた。けれど胸の奥には、不安よりも新しい世界に触れる喜びが膨らんでいく。見慣れない街並みも、行き交う人々の笑顔も、すべてが眩しくて心を躍らせる。
そんな折、露店の前で立ち止まったノクスが、まるで子供のように目を輝かせた。
「むむっ、これは絶対にうまいやつじゃ!」
店先に並んでいたのは、黄金色の飴のように輝く薄焼き菓子。
蜂蜜をたっぷり使った"ハニークリスタ”だ。甘い香りに誘われて人々が足を止め、屋台の前は小さな人だかりになっていた。
「なあ、嬢ちゃん、ちょっと手を貸してくれんか?」
売店のおじさんがにやりと笑い、ティアナの肩にそっと木のトレーを押し付けてきた。
「えっ……わ、私がですか!?」
戸惑うティアナをよそに、おじさんは声高らかに叫んだ。
「さあさあ、街の名物だよ! 可愛い売り子さんが配ってくれるぞ!」
気づけばティアナは人混みの中で試食品を配る羽目になっていた。透き通るような薄焼きの菓子は、蜂蜜が光を反射して宝石のようにきらめいている。人々は笑顔で手を伸ばし、あっという間に列ができた。
「ありがとう、お嬢ちゃん!」
「まあ、なんて愛らしい売り子さんだろうねえ!」
褒められるたびにティアナは顔を赤くし、戸惑いながらも懸命にトレーを差し出す。その様子を少し離れた場所で見ていたノクスは、どこか得意げに腕を組んでいた。
やがて菓子は完売し、売店のおじさんが満足そうに手を打った。
「いやぁ、助かったよ! こんなに早く売り切れるとは思わなかった! ほら、お礼だ、好きなだけ食べていきな!」
ティアナは安堵の息をつき、ノクスと共に広場の木陰へ腰を下ろす。皿に積まれたハニークリスタをぱくりとかじると、外はぱりぱり、中はとろりと甘く、思わず目を丸くした。
「……おいしい!」
「ふむふむ、やはり間違いなかったのう!」
二人が夢中になって菓子を頬張っていたその時――。
「きゃああっ! な、なんだあれ!」
広場の反対側から悲鳴が上がった。人々が一斉に逃げ惑い、その間を小さな影が跳ね回る。
淡い霧をまとった子犬ほどの魔獣――だが爪先からは黒い靄がにじみ、近づくだけで花売りの屋台がしゅんと萎れていく。
ティアナは皿を取り落とし、立ち上がった。
「ま、魔獣……!」
杖を構えそうになる手を、ノクスが慌てて押さえる。
「おっと、忘れたか? ここは人間の街じゃ。魔法を使えば大騒ぎになるぞ!」
人々の悲鳴、駆け回る小さな魔獣。ティアナの胸は高鳴り、次の行動を決めかねていた――。
小さな魔獣は犬ほどの大きさだが、背には棘のような黒い瘴気をまとい、牙を剥き出して暴れ回る。屋台をひっくり返し、菓子を散らかしながら人々を追い立てていた。
ティアナの喉から「止めなきゃ!」という声が漏れそうになる。しかしノクスが低く囁く。
「落ち着け。魔法は使えぬ。代わりに――“人間のやり方”を思い出すんじゃ」
ティアナはぎゅっと唇を噛む。心臓の鼓動が早鐘を打つ中、周囲を見回すと、子供が倒れ込んで泣いているのが目に入った。魔獣は今にもその子に飛びかかろうとしている。
「――っ!」
ティアナは杖を背に回し、代わりに落ちていた木箱を掴んで投げつけた。木箱は魔獣の脇腹にぶつかり、鈍い音を立てて転がる。怒り狂った魔獣の視線がティアナに向けられた。
「ティアナ!」ノクスが叫び、地面にこっそりと短い印を刻む。
見えぬほど小さな幻術の紋様――魔法とは悟られぬ程度の細工で、魔獣の足元を僅かに鈍らせた。
その隙に、駆けつけた衛兵たちが網を投げかける。魔獣は暴れ回りながらも捕らえられ、やがて縄でぐるぐるに縛られた。
人々のざわめきが収まり始める。泣いていた子供を抱き起こし、母親が安堵の涙を流した。ティアナは胸を押さえ、息をつく。
「ふぅ……魔法を使わずに済んでよかった」
「そうじゃろ?」ノクスがにやりと笑う。「人間どもも案外やるもんじゃ」
衛兵の一人がティアナに向かって頭を下げた。
「嬢ちゃん、勇気ある行動だったな。だが危ないまねはするなよ」
ティアナは頬を赤らめ、軽く会釈する。
胸の鼓動はまだ落ち着かない。けれど――新しい街の息遣いの中で、自分の役割を確かに見つけられる気がした。
騒ぎが収まり、広場には再び日常のざわめきが戻りつつあった。倒れた屋台を片づける人々、泣き止んだ子供の笑顔、そしてどこか張り詰めた空気を残したままの衛兵たち。
ティアナは胸に手を当て、深く息を吐いた。魔法を使わずに切り抜けられたことへの安堵と、初めて人間の街で役に立てたという実感が、胸の奥にじんわりと広がる。
ノクスは彼女の横顔をちらりと見て、口元を緩めた。
「ふむ、見事じゃな。だが――これは始まりにすぎぬ」
その言葉に、ティアナは無意識に街の大通りを見渡した。陽光の下で賑わう笑顔の人々。その背後に潜む、見えない気配。
遠くの鐘楼が時を告げる音が響いた。
迷いの森を抜け、人間の街に足を踏み入れた彼女たちの物語は、まだ序章を終えたばかりだった。




