【4-2】記憶の水底にて
白い霧に包まれた森の中、やがて夜の帳がほどけ、かすかな朝の光が差し込み始めた。枝葉の隙間から射す光は淡く、まだ頼りないが、それでも闇を払うには十分だった。鳥の囀りが遠くで響き、静かな結界の中に生命の気配を告げる。
ティアナは目を覚ますと、すぐ隣に眠るフィオナを見やった。昨夜の出来事が胸に蘇る。暴走しかけた彼女を必死に抱きしめ、泣きながら呼びかけたあの瞬間。
――無事でいてくれる。それだけで、胸の奥が温かく満たされていた。
「……ん……」
小さな吐息と共に、フィオナの瞼が震え、ゆっくりと開かれる。眩い光を宿していた瞳は、今はかすかに濁りを残すものの、昨夜の獣のような輝きはもうない。
「ティーちゃん……」
掠れた声で名を呼ぶ。だが次の瞬間、はっと息を呑み、彼女は自らの両手を見下ろした。指先は細く戻っている。それでも、昨夜鋭い爪となりティアナへと向けられたことを思い出し、血の気が引いていく。
「わ、わたし……っ」
声が震え、胸の奥から罪悪感が込み上げる。
ティアナはすぐにその手を取った。
「大丈夫……フィオナは、ちゃんと戻ってきてくれた。だから――もう、怖がらないで」
フィオナの瞳が揺れる。罪悪感と安堵が入り混じり、言葉にならない。ティアナの温かな掌の中で、冷え切っていた心が少しずつ解けていく。
そんな二人の様子を見守っていたノクスが、結界の外に視線を向けた。霧は依然として濃く、森の奥から流れ込む魔素の気配は昨夜よりも強まっている。
「……やはり、このままではいかぬのう」
低く呟き、彼女は杖を握り直した。
「魔素の源を絶たねば、また同じことが起こるやもしれん。お主らのためにも、先へ進まねばならんぞ」
ティアナは小さく頷き、フィオナの手をぎゅっと握り直した。
「……大丈夫。三人でなら、きっと乗り越えられるよ」
その言葉に、フィオナはようやく微笑みを返した。まだ不安は残っていたが、それ以上に――ティアナに支えられている安心感が胸に広がっていく。
ノクスは二人のやり取りに一つ咳払いをしてから、手を叩いた。
「よし、甘やかし合いはそこまでじゃ。腹が減っては戦もできぬ。まずは朝食といくぞ」
杖をひと振りすると、小さな火花が地面に落ち、ぱちりと焚き火の炎が灯る。結界の内側にあるため、周囲の霧も寄せ付けない。
ティアナは慌てて荷を漁り、携帯していた干し肉や果実を取り出した。フィオナも手を貸し、ぎこちなくも少しずつ普段の調子を取り戻していく。
温かな匂いと共に、三人は簡素ながらも小さな食卓を囲んだ。食事を終える頃には、緊張で硬くなっていた空気もわずかに和らいでいた。
ティアナは荷物を背負い直し、結界の外を見つめる。霧はなお深く、森の奥から漂う魔素が肌を刺すように重苦しい。
「……行こう。立ち止まっていたら、また誰かが苦しむことになる」
フィオナは胸に手を当て、強く息を吐いた。
「うん……私も。今度こそ、自分に負けたりしない」
ノクスは満足げに微笑み、杖の先で結界を払った。
「よかろう。わらわが先導してやる。――心してついて参れ」
淡い光の壁が霧の中に消え、三人は再び迷いの森の奥へと足を踏み出した。
その背を飲み込むように、濃い霧と魔素の瘴気が静かに渦を巻く。
――霧の中を進んで、どれほどの時が経っただろう。
ティアナはふと立ち止まり、見慣れた木の幹に目を留めた。
「……あれ? この傷……さっきも見たような……」
同じ枝振り、同じ苔の付き方。気のせいではなかった。ほんの少し前に通り過ぎた木と、まるで鏡写しのように同じだったのだ。
ノクスは表情を崩さずに、杖の先で地面を軽く叩く。
「ふむ……やはり結界が仕掛けられておるな。歩を進めても進めても、森そのものに絡め取られておる」
フィオナは焦ったように周囲を見回す。
「じゃあ……出口なんてないってこと? このままじゃ、ぐるぐる回るだけじゃない……!」
足元から冷たい霧が這い上がり、三人の心にじわりと不安を染み込ませていく。
ノクスは眉をひそめ、静かに呟いた。
「ふむ……やはり森そのものが幻術で編まれておるな。目印を刻んでも無駄じゃ、木の位置ごと塗り替えられておる。これでは埒があかん……」
フィオナが唇を噛む。
「そんな……じゃあ、本当に出口なんてないの……?」
ティアナは二人のやり取りを聞きながら、不意に胸の奥にざわめきを感じた。
霧に溶け込む気配、木々の間を漂う微かな光。どこかで見覚えがある――いや、感じたことがある。昨夜、自分の掌から奔った光の矢。その時と同じ、自然に魔力が形を取ろうとする感覚だった。
「……あの、ちょっと試してみてもいい?」
ティアナは思わず声を上げていた。
ノクスは片眉を上げる。
「ほう? 何をするつもりじゃ?」
「えっと……うまく言えないけど、この霧……ただの幻じゃなくて、どこかに“本物”の道が隠れてる気がするの」
ティアナは胸に手を当て、深呼吸をひとつ。
指先に集まった光が小さな粒となって宙に舞う。霧に溶けるはずの光が、ひとすじだけ淡い軌跡を残し、森の奥へと導くように揺らめいた。
「……見える。あの光を、追ってみよう」
フィオナは驚いたように目を見開いた。
「ティーちゃん、今の……」
ノクスはしばし瞳を細め、やがて口元を綻ばせた。
「むう……なるほど。わらわの理屈を超えて、感覚で道を掴んだか。面白いのう」
三人は導かれるように光を追い、霧の奥へと歩を進めていった。
最初は並んでいたはずの足音が、霧に溶けるように遠のいていく。
ティアナは胸を張り、先頭に立って歩いた。
――私が……道を見つけなきゃ。
昨夜の出来事が、彼女の背を押していた。自分だって仲間の力になれると、証明したかった。
けれど、しばらく歩いたのち、不意に違和感が胸をよぎる。
「ねえ、ノクス、この先は――」
返事はない。
耳を澄ましても、いつも聞こえるはずのフィオナの気配もなかった。
ティアナは慌てて振り返る。
そこには、誰もいなかった。
霧しかない。
木々しかない。
ただ、自分ひとり。
「え……? 嘘……どこに……?」
喉がひゅっと詰まり、鼓動が早鐘を打つ。
確かに、ほんの数歩前までは隣にいたのに。
彼女の視界の奥で、淡い光がまた瞬いた。
誘うように、迷わせるように、森の奥で揺れていた。
ティアナは一瞬、足を止めて立ち尽くした。
背筋を冷たいものが伝う。胸が締め付けられる。
――ノクスがいない。フィオナも……。
喉の奥から不安がせり上がりそうになったが、すぐに首を振る。
「……大丈夫。ノクスは強いし、フィオナだって……」
自分に言い聞かせるように呟くと、胸に広がる恐怖が少しだけ和らいだ。
ここで立ち止まっても、霧は晴れない。
迷っていても、彼女たちが戻ってくるわけじゃない。
ティアナは深く息を吸い込み、ぎゅっと拳を握った。
「……だったら、進むしかないよね」
彼女の瞳に宿った小さな決意に呼応するかのように、霧の奥の光がふっと瞬き、ゆらりと動いた。
それはまるで、ティアナだけを導く灯火のようだった。
ティアナは震える足を前に出す。
霧の森をひとりで歩き出すその背は、昨夜までの自分よりも少しだけ大きく見えた。
足元の湿った土が軽く沈むたび、霧がひそやかに揺れる。森は静まり返っているはずなのに、どこか懐かしい、遠い記憶のような音が耳をくすぐった。
「……え?」
かすかな声、幼い頃に聞き慣れた笑い声――それは、森のどこからともなく響いてくる。微かに歪んで、現実と幻想の間に漂っていた。ティアナは思わず立ち止まり、霧の中を見渡す。
足元から先へと続く小道は変わらず濃い霧に覆われている。だが、霧の奥から、幼い自分を呼ぶ声が零れた。かつてのいじめの場面、耳や尻尾を引っ張られた感触、追い詰められた恐怖――胸の奥に押し込めてきた記憶が、まるで生きているかのように再生される。
「……いや……これは……幻……」
震える声を自分の耳だけで確認する。霧は淡く揺れ、声と共に、ティアナの前に微かに光を帯びた人影が浮かび上がった。小さな自分、幼い日の自分――その姿が、今も怯えたまま森の奥を見つめていた。
霧の中に浮かぶ小さな自分の姿を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。思わず後ずさる足元、手は無意識に胸元を抱きしめた。
「……あの時……」
記憶が、鮮明に蘇る。幼い頃、耳や尻尾を引っ張られ、笑いながらからかわれたあの日。恐怖と怒りが重なった瞬間、抑えきれぬ魔力が奔り、体が獣のように変わってしまった。相手は半死状態にまで追い込んだ――怪我させるつもりはなかったのに、力は止められなかった。
霧がさらに濃く揺れ、再現された光景は次第に動きを持つ。あの時の自分が、誰かに追い詰められるたびに体を震わせ、叫び声を上げる。ティアナの胸は痛み、息が詰まる。
「……いや……逃げないと……!」
混乱と罪悪感で震える胸を押さえつつ、ティアナは前へと足を進める。しかし、霧の中の幻影はさらに迫り、川の記憶――追い詰められて逃げ、足を滑らせて水に落ち、必死にもがきながら溺れた瞬間――が目の前に現れた。
手足をもがく自分、冷たい水に沈む感覚、心臓が凍るような恐怖。過去のトラウマが鮮やかに再生され、現実の霧と混ざり合う。ティアナは息を詰め、体を震わせた。
だが、すぐに小さな光が目の端に映る。遠くで、微かに光る杖の先――ノクスの存在を思い出す。フィオナも必ず、どこかにいるはずだ。
「……私、進まないと……」
恐怖と向き合いながら、ティアナは足を前に出す。震える手で杖を握りしめ、霧の奥へと進む――たとえ幻影がどれほど恐ろしくとも、自分の意志で歩き続けるしかないのだと、心の奥で小さく誓った。
そのとき――ほんの一瞬、暗闇の中に光が差し込んだ。
水面の向こう、差し伸べられる手が見えた気がする。懐かしい、あたたかな気配。
「……ル……?」
声を紡ぎかけた瞬間、光は霧に呑まれて消えた。残されたのは冷たい水音と、心臓を締めつけるような恐怖だけ。
ざぶん――。
川面が揺れ、幻の中で幼いティアナが必死にもがき苦しんでいる。小さな手足は空を掴むように空しく動き、重い水の底へと沈んでいく。その姿が胸を抉り、息を詰まらせる。
「いや……いやぁ……!」
視界いっぱいに水が押し寄せ、世界が沈んでいく錯覚。鼓動が速まり、助けを求める声すら出せなくなる。
――けれどティアナは、両手で杖を強く握りしめた。耳を塞ぐ代わりに、心に届く声を自らつくるように。
「これは……もう過去のこと……! あの時の私は逃げた……でも、今は逃げない!」
震える足を一歩、また一歩と前へ。
冷たい水は彼女の足元をすり抜け、霧のざわめきが最後の抵抗を見せる。それでも、その幻影は現実の彼女を縛ることはできなかった。
荒い息を吐きながらも、ティアナは過去の自分を振り返らない。
背後に置き去り、ただ前を見て歩き出す。
霧の奥、その先へ――。




