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境界を超える少女の物語  作者: Sekhmet
第4章

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【4-3】静謐なる知の回廊

 だが霧は容易に道を譲らない。前へ進むたびに、視界の端で影が揺れ、耳元でかすかな声がささやいた。

『化け物……』『もう近寄るな……』

 幼い日の記憶に刻まれた言葉が、胸を鋭く抉る。心臓が早鐘を打ち、呼吸が乱れる。膝が震え、思わず立ち止まりそうになる。


――また繰り返すの? 誰かを傷つけて、怖がられて、ひとりになるの?

 胸の奥で弱い自分の声が響く。逃げ出したい衝動が、霧の冷たさと混じり合って足を縛った。

 だがその時、ふと温もりを思い出す。フィオナの笑顔、ノクスの不器用な励まし。

 そして――あの日、川から引き上げてくれたルイの腕の感触。

「……私は、あの頃のままじゃない」

 ティアナは自分に言い聞かせるように呟いた。声はかすれていたが、不思議と胸の奥で響きは広がっていく。

 幻影の中の子供たちが、再び彼女を取り囲もうとする。怒りと恐怖にゆがんだ顔、投げられる石の幻。

 しかしティアナは目を逸らさなかった。

「たしかに……私は暴走してしまった。怖がられて当然だった。でも……それがすべてじゃない!」

 震える足を、一歩。さらにもう一歩。

 幻影がすれ違いざまに腕を伸ばしても、その手は霧となって溶けていく。

「私はもう逃げない。守りたい人がいる。帰りたい場所がある!」

 叫んだ瞬間、胸の奥にあった重石がすっと消えた気がした。

 霧の中で幻影は波紋のように広がり、やがて淡い光に溶けて消えていく。残されたのは、静けさと、前へと続く一本の小道だけだった。

 ティアナは深く息を吸い込む。肺に満ちるのは、もう冷たい恐怖ではなく、わずかながら澄んだ空気だった。

 握りしめた拳を胸に当て、彼女は小さく頷いた。


「……うん、大丈夫。私なら進める」


 かつては足をすくませていた霧の森も、今はただ前へ進むための道にすぎない。

 ティアナはもう、ひとりで立ち上がれる――その確信を胸に、彼女は歩みを再開した。

 足音が霧に吸い込まれていく。

 自分の決意を胸に刻んで歩き出したティアナは、もうさっきまでの怯えをまとってはいなかった。

 だが――次第に胸の奥に別の不安が芽生えてくる。

(ノクスさん……フィオナ……どこにいるんだろう)

 辺りは相変わらず白い霧に閉ざされ、誰の姿も見えない。さっきまでは恐怖から逃げたくて足を進めたが、今は逆に「会いたい」という願いが背中を押していた。

 呼びかけても返事はない。ただ霧の奥から、微かな足音が返ってきた。

――ザッ、ザッ。


ティアナははっとして振り返る。

 白い帳の向こうから影がひとつ、またひとつ現れる。小さな体に杖を抱えたノクス。そして、その隣で心配そうにこちらへ駆け寄るフィオナ。

「ティーちゃん!」

 フィオナが声を張り上げた瞬間、ティアナの胸の奥で何かが解ける。

 足が自然と走り出し、次の瞬間には二人の元へ飛び込んでいた。

「よかった……! 本当に、よかった……!」

 フィオナは強く抱きしめ、耳元で震える声を漏らす。ティアナもまた、その腕の中に顔を埋めた。さっきまでの孤独と恐怖が、じんわりと溶けていく。

 ノクスは一歩離れて、安堵のため息を吐いた。

「まったく……心配をかけおって。しかし、顔つきが少し変わったのぅ。ひとりで乗り越えたようじゃな」

 ティアナは涙を指でぬぐい、しっかりと頷いた。

「……はい。怖かったけど、でも……もう大丈夫です」

 フィオナとノクスの視線が、柔らかくティアナを包む。

 その温もりを胸に受け止めながら、ティアナは心の奥で確信していた。

――自分はもう、逃げない。支えられるだけじゃなく、共に歩ける強さを手に入れたのだ、と。


 霧はいつの間にか少しずつ薄れ、木々の隙間から光が差し込んでいた。

 抱擁が解けて、ようやく落ち着きを取り戻したティアナたち。

 そのとき、ノクスが「そうじゃ、そうじゃ」と思い出したように杖を軽く振った。

「出会ってすぐで済まんが、ここを少し行ったところでな……かなり古い遺跡を見つけたのじゃ」

「遺跡……?」

 ティアナは思わず首をかしげる。

「うむ。ただの廃墟ではないぞ。あそこには不思議な力が流れておる。どうやら結界の要の一部らしくてな。しかも、魔素の汚染がほとんど感じられぬのじゃ」

 ノクスの瞳は、好奇心の輝きに満ちていた。

「さらにじゃ! 崩れた壁の隙間から、どうやら魔道書らしきものも見えたのじゃ。古代の知識が眠っておるやもしれぬ……!」

 その口ぶりにティアナは苦笑する。ノクスが心底行きたくてたまらないのは、誰の目にも明らかだった。

「……危険はないの?」とティアナが尋ねると、先に答えたのはフィオナだった。

「でも、もし安全で休める場所ならありがたいよ! もう少しでへとへとになりそうだったから……」

 フィオナは素直に肩をすくめる。

 ティアナは二人の顔を順に見て、小さく息を吐いた。

「……わかった。じゃあ、行ってみよう」

 ノクスは子供のように頷き、フィオナもほっとしたように微笑んだ。

 こうして三人は、迷いの森の奥に眠るという古代遺跡を目指して歩き出すのだった。


 三人は肩を並べ、森のさらに奥へと進んでいった。

 しんと静まり返った霧の中、枝葉のざわめきさえ聞こえない。やがて、空気の重さが少しずつ変わり、冷えた風が頬を撫でた。

「……ねぇ、なんだか急にひんやりしてきたね」

 フィオナが自分の腕を擦りながら小声で言う。

「結界の中心に近づいておる証拠じゃろうな」

 ノクスは相変わらず余裕の笑みを浮かべながらも、杖の先に淡い光を宿して辺りを探る。

 霧がゆっくりと晴れ、代わりに視界へと広がっていくのは――緑に飲み込まれた石造りの構造物だった。

 かつては壮麗な門であったであろう石のアーチは半ば崩れ落ち、蔦や苔に覆われている。大木の根が石壁を引き裂くように絡みつき、自然と遺跡とが一体となっていた。


「……すごい……」

 ティアナは思わず息をのむ。

 崩れた石段の先に、無数の石柱や建物の残骸が霧の中から浮かび上がっていた。それはまるで森の奥深くに隠された、もう一つの街のように見えた。

「やはりあったか!」

 ノクスの瞳が輝きを帯びる。

「見ろティアナ、あの紋様を。古代魔術の流れを記したものに違いない! おそらく内部にはまだ多くの書物や装置が残っておるぞ」

 夢中で語るノクスの背で、フィオナは苦笑して肩をすくめる。

「ほんと、ノクスってこういうときは子供みたいだよね。でも……休めそうでよかった」

 ティアナは遺跡を見上げ、深く息を吸い込んだ。湿った石の匂いと、苔むした壁の冷気。だが、そこに漂う空気は不思議と澄んでいて、森を覆っていた不快な霧とはまるで違っていた。

――ここが、迷いの森の結界の鍵を握る場所なのかもしれない。

 そんな予感が胸の奥に静かに広がる。

「……行こう」

 ティアナの言葉に、ノクスとフィオナが力強く頷いた。


 足音が、長い年月を眠り続けた石畳を踏みしめる。

 森に飲み込まれた遺跡は、いま再びその静寂を破られようとしていた。

 三人は森の奥へと足を進めるごとに、周囲の空気が変わっていくのを感じていた。

 ひんやりと澄んだ風、霧の向こうに浮かび上がる黒ずんだ石造りの影――それは、森に深く埋もれながらもなお、古の時を刻み続けてきた遺跡だった。

 崩れかけた門をくぐると、石畳の道が奥へと続いていた。両脇に立つ石柱は折れ、苔に覆われ、根を張った樹木に押し潰されそうになっている。だが、不思議なことにその空間だけは濃霧が薄れ、どこか守られているような気配が漂っていた。

「……ここ、本当に森の中なの?」

 フィオナは目を見張り、周囲を見回す。

「ただの廃墟ではないな。魔術の流れを感じる……ほう、やはり古代の結界か」

 ノクスは杖を掲げ、壁に刻まれた模様へと目を凝らす。その表情は、子供のような好奇心に満ちていた。

 ティアナは小さく息をのむ。

 崩れ落ちた天井の隙間から木漏れ日が射し込み、石壁に刻まれた古い紋様を照らし出している。触れれば崩れそうなほど脆いのに、そこに刻まれた文字や紋は不思議と鮮明に残り、彼女を惹きつけた。

「……誰も足を踏み入れてないみたい」

 フィオナが声を落とす。

「いや、誰も“戻ってこなかった”のかもしれんぞ」

 ノクスが口角を上げて冗談めかしたが、その声の奥には確かな緊張があった。

 足元にはひび割れた石畳が続き、途中で崩落して道を塞いでいる場所もある。迂回するたびに、暗がりの中から小さな仕掛けや罠の名残が見つかった。矢を放つ仕組みの穴、封印された扉、魔力を吸い取る紋章――どれも長い年月で力を失っているはずなのに、微かな気配だけはまだ残っていた。

「……この奥に、きっと何かが眠っている」

 ティアナの胸がわずかに高鳴る。

 ノクスは楽しげに頷き、フィオナも不安と期待が入り混じった瞳でティアナを見返した。

 足音が、長い眠りから目覚めさせられた石畳にこだまする。


 入口を抜けた先は広間だった。崩れ落ちた天井から木漏れ日が差し込み、苔に覆われた柱が並び立つ。鳥や小さな獣たちが住み着いたのか、遠くで羽音が聞こえた。だが、その空気には静謐な圧があり、森のざわめきとは違う結界の気配が満ちていた。

「……まるで、時間が止まってるみたい」

 フィオナの呟きに、ノクスが嬉々として頷く。

 ノクスは目を輝かせ、杖をつきながら石壁に近寄った。

「妙じゃな。ここには外の魔素汚染が一切入り込んでおらん。結界の類か……いや、もっと精巧な仕組みかもしれん。いずれにせよ、常識外れの術式が働いておるのは間違いないぞ」

 ティアナは額に汗を浮かべつつ壁を見上げた。

「……誰が、こんなものを?」

「それがわかれば苦労はせんが……」

 ノクスは嬉しげに口の端を上げる。「謎が大きいほど、解き甲斐があるというものじゃ」

 フィオナは苦笑し、肩をすくめた。

「またノクスの探究心に火がついちゃったね……」


 三人は広間を抜け、奥へと続く回廊に足を踏み入れた。石畳の床はわずかに苔に覆われていたが、壁面を走る光の筋が足元を導くかのように淡く輝いている。


 やがて回廊の突き当たりに、半球状の大きな扉が現れた。蔦に絡まれ、長い眠りから目覚めることを拒むように重々しい気配を放っている。

「これは……ただの部屋じゃなさそうじゃぞ」

 ノクスが杖で扉を軽く叩くと、低く鈍い音が石に響いた。

 ティアナは一歩前に出て、掌を扉へ当てた。ひんやりとした感触の奥から、脈動のような微かな反応が返ってくる。

「……魔力が、流れてる」

「封印の類かもしれんな。だが敵意は感じん」

 ノクスは唇を吊り上げ、杖を高く掲げる。「ちと力ずくで開けてみるか」

 彼が小さな詠唱を唱えると、杖の先から閃光が走り、扉を覆っていた蔦が音もなく焼き切れた。続いてフィオナが風の魔法で埃を払い落とすと、ゆっくりと円形の扉が軋みながら開き始める。

 扉の奥に広がったのは、巨大な円形の空間だった。天井は高く、透明な結晶のようなドームが広がり、その内側にはまるで夜空のような光景が映し出されていた。森を囲む霧が淡い線となり、地形や結界の輪郭が立体的に浮かび上がっている。


「すごい……! まるで森全体を上から見てるみたい……!」

 フィオナが瞳を輝かせ、手を伸ばす。指先が触れると、結界の線が波紋のように揺らぎ、淡い光を返した。

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