【4-1】迷いの森に抱かれて
泉の光が次第に弱まり、やがて静寂が訪れた。
安堵が広がるのも束の間、ゼンがふっと身を翻す。
「俺には……まだ果たすべき役目がある」
それだけを短く言い残し、一同に背を向けた。足音が洞窟に消えてゆく。
呼び止める間もなく、闇の中にその姿は飲み込まれた。
残された三人の胸には、拭い切れぬ不安がわずかに揺れる。
しかし、立ち止まっている暇はなかった。泉から溢れ出した魔素は、すでに地上へと侵食を広げているのだから。
ノクスの導きに従い、一行は地下都市のさらに奥――古代遺跡へと足を踏み入れる。
そこは人知れず封じられてきた転移の間。巨大な石扉を押し開けた瞬間、壁一面に刻まれた古代文字が淡く輝き、床に描かれた円環の紋が浮かび上がった。
「ここが……迷いの森へ繋がる道」
ティアナはごくりと喉を鳴らし、拳を固く握りしめる。
ノクスはゆるりと歩み出て、石床の転移陣に杖を突き立てた。
途端に円環が青白い光を放ち、風が逆巻くように彼らの足元を撫で上げる。
「心せよ。これより先は、常識の及ばぬ領域じゃ」
その声と同時に光が一気に膨れ上がり、三人の姿を包み込んだ。
◇ ◇ ◇
――次の瞬間。
視界を覆ったのは濃い霧と鬱蒼たる木々だった。枝葉は歪み、どこまでも同じ景色が続いている。森全体がざわめき、足元からは冷気とも熱気ともつかぬ瘴気が絶え間なく立ち昇っていた。
ティアナは無意識にフィオナの袖を掴む。耳の奥にかすかな囁きが忍び込み、顔をしかめた。
「……今の、声?」
「気のせいじゃない……魔素が思念を増幅してるのかも」フィオナの声にも緊張が混じる。
ノクスは鋭い眼差しを前へと向けた。
「まずは探索じゃ。何が待ち構えておるか……目と耳で確かめねばならん」
こうして三人は、迷いの森の深奥へと足を踏み入れる。
その先に待つ真実を、まだ知らぬままに――。
ティアナは幼い頃、ほんの一度だけこの森を訪れたことがあった。
けれど――目の前に広がる光景は、その記憶とまるで違っていた。
かつては静かで優しい印象を抱いた場所。
だが今は、黒霧に覆われ、息をするだけで胸を圧迫されるような重苦しさが漂っている。
「……こんなに暗い森だったっけ……?」
不安げな呟きが、濃霧に呑まれて消える。
隣を歩くフィオナは、初めて見る景色に眉をひそめた。
「ただの森じゃないわ……まるで罠そのもの」
頭上の枝葉は絡み合い、陽光を一切拒む。
湿り気を帯びた土は、踏みしめるたびにじくじくと音を立て、どこまでも続く濃霧は生き物のように蠢き、時折かたちを変えて幻惑してきた。
ノクスが立ち止まり、杖を握りしめて視線を巡らせる。
「……妙じゃのう。何度も訪れた森じゃが、ここまで魔素が深く侵食しておるとは……初めてじゃ」
その声に重みが宿り、三人の胸に緊張が走る。
――ざわり。
草むらがかすかに揺れた。
潜む気配にティアナの背筋が凍りつく。耳の奥に、風とも声ともつかぬ低い囁きが忍び込み、心の奥底を揺さぶって恐怖を膨らませた。
「気を抜くな」
ノクスの低い声が鋭く響く。
三人は無言で頷き合い、さらに一歩を踏み出した。
その瞬間――霧の向こうで茂みが激しく揺れ、無数の赤い光点がぎらりと浮かび上がる。
「っ……狼……!」
フィオナが声を詰まらせた。
次の瞬間、五つの影が飛び出す。
かつて森を駆けていた狼たち。しかし今や毛並みは漆黒に染まり、垂れた顎からは黒い霧が滴り落ちる。血のように赤く輝く瞳は、理性のかけらも宿していなかった。
ノクスが即座に前へ躍り出て杖を構える。
「下がれ! これは魔素に蝕まれし獣――魔狼じゃ!」
杖先に淡い光が集い始める。
だが狼たちは既に霧を切り裂き、牙を剥いて襲いかかろうとしていた。
その刹那――
「――来ないでっ!」
ティアナの声と同時に、彼女の掌から閃光が奔った。形を成したのは、一筋の光の矢。
眩い弧を描きながら放たれた矢は、先頭の狼の眉間を正確に貫いた。悲鳴すらなく獣は霧に溶け、他の狼たちは怯んだように一瞬足を止める。
フィオナの目が大きく見開かれる。
「ティ、ティーちゃん……今の、魔術……?」
ノクスの瞳にも驚愕が宿った。普段の冷静さを崩し、低く唸る。
「むう……あれほど速やかに、しかも無詠唱で……?」
ティアナは荒く息を吐き、震える手を胸に引き寄せた。自分でも信じられない。ただ、呼吸するように自然と魔力が形を取った――そんな感覚だった。
残る狼たちは再び身を低く構え、赤い瞳を今度はティアナひとりに向ける。
――その瞬間。
ノクスの杖から蒼い閃光が迸り、二匹の狼を絡め取るように結界が展開する。
続けざまにフィオナが詠唱を終え、風刃が唸りを上げて一匹の胴を断ち切った。黒い靄が霧散し、草むらへ溶けて消える。
「これで……っ!」
息を継ぐ間もなく、死角からもう一匹がティアナへ飛びかかった。
「――ティーちゃんっ!」
風壁を張るには遅すぎた。フィオナは咄嗟に駆け、己の体を盾にして獣を弾き飛ばす。
その瞬間、彼女の瞳が淡く光を帯びた。
「ぐっ……う、あぁ……っ!」
握る杖が痙攣し、指先から硬質な爪が伸び出す。漂う魔素に呼応するように、胸の奥で抑え込んでいた衝動が一気に吹き荒れた。
「フィオナ……?」
ティアナの声がかすれる。
ノクスは険しい眼差しを向け、低く告げる。
「……魔素が理性を侵しておる」
「私が……私が守るんだぁッ!」
フィオナは唸り声を上げ、杖を振り払う。風の刃と共に閃いた爪が魔狼の体を切り裂き、黒い靄が霧に弾けて消えた。
だが、その爪はなおも震え、ゆっくりとティアナへと向けられていく。
瞳は敵と仲間の区別を見失ったかのように、ただ淡く光を帯びて揺らめいていた。
「や、やめて……フィオナ!」
ティアナの声は裏返り、震えていた。足は地面に縫いとめられたように動かず、駆け寄る勇気も出ない。
魔法を撃てば止められるかもしれない――けれど、それはフィオナを傷つけることに他ならなかった。
恐怖と葛藤に押し潰され、ティアナにできるのは呼びかけることだけだった。
「フィオナは……そんな人じゃない! お願い……戻って……!」
必死の叫びが森に響く。
その声に応えるように、フィオナの体が小さくびくりと震える。
だが荒い息と共に、振り上げられた爪はなおも下ろされようとして――
「――眠れ」
低く鋭い声が響き、ノクスの杖から淡い光が放たれた。瞬時にフィオナの意識が揺らぎ、その体は力を失ってティアナの腕に崩れ落ちる。
「フィオナっ!」
ティアナは慌てて抱きとめ、震える声で囁いた。
「ごめんね……私のせいで……!」
涙が頬を伝い、彼女の肩を濡らしていく。繰り返される謝罪に、フィオナの体が小さく反応した。
荒い息を吐きながらも、伸びきっていた爪は徐々に細く戻り、瞳に宿っていた獣の光もやわらいでいく。
胸の奥で暴れていた怒りと衝動は、抱き締められた温もりに吸い込まれるように静まっていった。
「……よかった……」
ティアナは嗚咽を押し殺しながら、強く、強くフィオナを抱き締める。
フィオナはゆっくりと呼吸を整え、ティアナの胸に顔を埋める。
「……ありがとう、ティーちゃん……」
微かに震える声が、胸元に響いた。危険に晒された心も、混乱した感情も、この温かな抱擁の中でゆっくりと静まっていく。
霧が立ち込める迷いの森の中で、寄り添う二人の存在は小さくとも確かな光となっていた。これから待ち受ける試練のことを思えば、今この瞬間に心を通わせられたことが、きっと互いの支えとなるだろう。
やがてティアナは、フィオナをそっと横たえた。穏やかな寝息を確かめながら、荒かった呼吸がようやく落ち着いたのを見て取る。疲れ切った体が、今度こそ本当の休息を得られそうだった。
「……日が暮れてきたのう。この辺りで休むとしようか」
ノクスが静かに視線を巡らせながら、森の暗がりを確かめるように呟いた。
その言葉を聞いて、ティアナは少し不安げに振り返る。
「でも……この辺に安全な場所なんて、あるの?」
声に滲む不安は隠しようもなかった。
ノクスはふっ、と胸を張り、どこか誇らしげに笑う。
「ふっふーん、わらわに任せるのじゃ。結界でここを安全地帯にするのじゃ」
ティアナの瞳がぱっと輝いた。
「え……でも、どうやって?」
杖を軽く握り、ノクスは余裕の笑みで手招きする。
「前にわらわの家で教えた通りじゃ。さあ、力を貸すのじゃ、ティアナ」
「……はい!」
ティアナは深呼吸し、覚悟を決めるように頷いた。二人は森の中央に立ち、そっと手を重ねる。ノクスが杖を掲げ、ティアナがそれに合わせて手を動かす。
微かな風が木々を揺らし、光が指先から滴り落ちるように広がっていく。やがて風と光は交わり、ゆらゆらと揺れる結界の輪郭が霧の中に滲み出した。
黒い霧や魔素を押し返すように、穏やかな光の壁が森を包み込む。結界が完成するにつれ、肌を刺していた不快な気配は和らぎ、木々の奥に潜む影のざわめきも遠ざかっていった。
「……これで、少しは安心して休めるね」
ティアナは胸を撫で下ろし、ノクスを見上げる。
ノクスはくすりと笑い、杖を軽く振った。
「うむ。この中なら魔素も大人しくなるはずじゃ。ここで夜を越え、明日の探索に備えるのじゃ」
森の中、淡く揺れる光の結界。その中心でティアナはフィオナの寝顔を覗き込み、そっと肩を抱き寄せた。
安全な場所があること。支え合える仲間がいること。
その小さな安堵が、冷たい夜気の中で彼女の胸を温めていた。




