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境界を超える少女の物語  作者: Sekhmet
第3章

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【3ー2】夢と記の狭間

 広場の結界を抜けた三人は、長に導かれて広場の片隅にある休息所へ案内された。魔力で清められた小屋のような空間で、外の瘴気の重苦しさが幾分やわらぎ、ひと息つける。フィオナは胸を押さえ、やっと息が楽になったと安堵の笑みを浮かべた。

 長は椅子に腰を下ろし、眼鏡を押し上げてノクスに視線を向ける。

「……本来のウィステリアは、今のような暗がりの街ではなかった。川は輝き、天井には星々が揺らめき、昼と夜すら演出されていたのだ」

 ノクスは頷き、懐かしそうに目を細める。

「わらわが学院におった頃、ここは誇り高き都市じゃった。子らの笑い声も、歌声も響いておったのぅ」

 だが今は、その面影はどこにもない。星々は霞み、川の光も鈍く、空気は濁っている。結界に守られた広場の中でさえ、市民は疲れ切った顔をしていた。誰もが祈るように身を寄せ合い、笑顔などどこにもない。

 長は声を落として続けた。

「さらに異変は時間を奪った。かつては昼夜が巡っていたが、今は永遠に薄暮のまま。働く時も休む時も曖昧となり、人々は次第に心身を蝕まれている」

 ティアナはその言葉に胸を締めつけられた。休息所の窓越しに見える子どもたちの姿は、ただ耐えることしかできぬように小さく震えている。

「……私、見てられない。ここを何とかしたい」

 フィオナも小さく頷く。

「子どもの頃に来た時は、きれいで、明るくて……。今のこの姿、信じられないよ。こんなの嫌だ」

 二人の言葉に、ノクスはゆるりと笑みを浮かべた。しかしその瞳の奥には重い影が宿っている。長もまた沈痛な面持ちで口を開いた。

「……だが、この安息も長くは続かぬ。結界がいつまで持つかもわからぬのだ」

 小屋を包む静けさの奥で、瘴気が再びざわりと揺らめいた。休息のひとときは確かに訪れた。しかしその背後に、さらなる試練の影が迫りつつあるのだった。


 休息所にしばらく腰を落ち着けた三人は、温かな飲み物を受け取り、それぞれに疲れを癒やしていた。瘴気に侵された街の中で、これほど落ち着ける空間があること自体、奇跡のように思えた。

 フィオナは膝の上で手を組み、ぽつりと漏らした。

「結界の外に一歩出るだけで、息が苦しくなる……。こんな環境で暮らしてるなんて……みんな、どうやって耐えてるんだろ」

 長は静かに首を振った。

「耐えているのではない。もはや耐えるしかないのだ。だからこそ、我らは結界を強め、外を閉ざした。だが……その結界も永遠ではない」

 ノクスは腕を組み、軽く顎を撫でながら呟く。

「ふむ。異変の根を断たねば、結界はいずれ朽ち果てる……そういうことじゃな」

「その通りだ」

 長は眼鏡の奥で目を光らせる。

「私たちはすでに何度も調査を試みた。しかし、街の奥へ進むほど瘴気は濃く、因子が暴走しやすくなる。失われた仲間も多い……」

 言葉を聞いたティアナの胸が締めつけられる。彼女は小さな拳を膝の上で握りしめ、強い瞳をノクスに向けた。

「……だったら、私たちが行く。ここを、この街を、元に戻すために」

 フィオナも少し戸惑いながらも頷いた。

「わたしも……手伝う。学院で学んだこと、役に立てるなら」

 二人の決意を受け、ノクスはふっと口元を緩めた。

「うむ、その意気や良し。わらわも昔、ここに救われた身……今度は返す番じゃろうな」


 休息所の灯りは、三人の表情を照らし出す。しかし同時に、その光の外では濃い瘴気が蠢き、囁くように結界を叩いていた。

 長は深く息をつき、静かに告げる。

「……覚えておけ。この安息は仮初めにすぎぬ。瘴気は日ごとに強まり、いずれ結界をも飲み込む。もし本当に救おうとするなら……覚悟が要る」

 ティアナとフィオナは黙ってうなずき、互いに目を合わせた。胸に芽生えた小さな決意は、恐怖を上回ろうとしていた。

 ノクスは杖を軽く鳴らし、真剣な眼差しを長に向ける。

「案ずるな。わらわが導く。たとえ時を失い、光を奪われた街であろうと――希望の種は、まだ消えてはおらぬ」

 その言葉とともに、結界の外で瘴気がざわりと渦を巻いた。まるで、これから訪れる試練を嘲笑うかのように。

 広場で休息をとっている最中、フィオナがふと外の結界を見つめて違和感を覚える。

──結界の内側に、まるで外の瘴気が逆流してくるかのように、黒い亀裂が走る。


 普通、結界は外から押される形で歪むはずなのに、まるで内部から食い破ろうとするような形でひび割れが広がっていた。

 ノクスはすぐに異常に気づき、杖で結界を叩き、応急処置を試みる。だが「これは外敵の仕業ではない。結界そのものが“内部に潜む何か”に侵食されておる」と。

 ティアナはそれを見て胸を押さえ、頭に声が響く。

――“ここは我らの眠る場所。目覚めさせよ……”


 そこで一瞬意識が飛びそうになるが、フィオナが強く抱き留めて踏みとどまる。

 ノクスは「……やれやれ。どうやら、ここはただ瘴気が溜まっているだけでは済まんようじゃな」と呟き、長は険しい顔で「結界の奥底に封じられている何か」が存在することを示唆する。

 しばらくの安息――のはずだった。広場を包む多重結界の内側で、薄い硝子を爪で引っかくような音がした。壁面に走る光紋が、外圧ではなく“内側”から噛み砕かれるようにささくれ立つ。


「……今のは、外からじゃないな」

 ノクスが杖で結界を叩く。

 淡い輪が幾重にも広がって、内側に黒いひびが浮かび上がった。

「結界文様に、因子が“寄生”し始めておる。守りが、食われておるんじゃ」

 その言葉と同時に、ティアナは胸の奥をつかまれる感覚に膝を折った。瞳の奥が熱を帯び、耳の裏で水音が鳴る。

――ここは、眠りの底。鍵を持つ者よ、目覚めを許せ。


 誰かの声。水面の向こうから囁くように、優しく、しかし抗いがたい誘い。視界の端が白く流れ、足もとに冷たい流れが満ちてくる。ティアナは無意識に手を伸ばした。

「ティアナ!」

 フィオナが抱きとめる。だが彼女の手首に一瞬、青白い水の紐のような魔力が絡みついた。

「だめ、そのまま行ったら戻れなくなる!」

 ノクスは素早く結界の継ぎ目に符を打ち込み、逆位相の縫合術でひび割れを仮止めする。「時間を稼ぐしかない。――フィオナ! そちは“水記”の術を使えるじゃろう。あの一族の力――今こそ頼る時じゃ!」

 フィオナははっと目を見開いた。自分の中に受け継がれた古き記憶術を、他者に口にされたのは初めてだった。

「なんで知ってるの!?ノクスさん!」

「わらわが知らんはずがなかろう。代々“記憶”を紡ぐ血筋、その水鏡の術は、この状況でこそ真価を発揮する」

 フィオナは震える指先で懐から小さな銀皿を取り出す。そこに魔力を流し込むと、表面に薄く水が張られ、鏡のような静かな輝きを放った。彼女は両手を重ねるように皿の縁を抱き、そっと目を閉じる。


――水面が揺れ、映し出されたのはティアナの視界だった。

 ぼやけた色彩、白く滲む光、その向こうに立つ影。耳に届くのは、彼女だけに囁きかける声。


『……鍵は、泉の底。目覚めには、代償が伴う』


 声は遠い川底から響くように揺れ、輪郭を結ばない。フィオナは水鏡を覗き込みながら、小さく語りかけた。

「ティアナ……聞こえる? あなたは一人じゃない。私が、ここにいる」

 返事はなかった。だが水面の映像がかすかに揺れ、ティアナの心が確かに呼応しているのをフィオナは感じ取る。

「……よし、意識はまだ繋がってる」

 フィオナは息を吐き、決意を固めた瞳で顔を上げる。

「長、広場の結界は私とノクスで持ちます。ティアナは眠らせて。意識の糸は、私が握ってるから」

 長は短くうなずき、周囲の市民へ指示を飛ばした。

「避難層を閉じろ。揺らぎが来るぞ」

 ノクスは杖を突き立て、結界のひびに逆位相の術を織り込む

「ふぅむ……奴ら、侵食を急いでおるな。だが、これで少しは持つじゃろう」

 水鏡の中、ティアナの意識は白い流れに包まれながらも、確かに“下流”を指し示す影を映していた。

――ヴァンリルの泉へ。


 その言葉を受け止めた瞬間、フィオナの胸に直感が走る。次なる道はそこにあるのだと。

 安息の時は、やはり短い。だが水面に映った道標は、彼女たちに次の旅路を示していた。


――深い水底を漂うような静寂。

 ティアナは白いもやの中に立っていた。上下もわからず、ただ足元に揺れる水面の模様だけが、かろうじて現実を繋ぎ止めている。

 そのとき、声が響いた。

「……やっと繋がったか」

 振り返った先には影に包まれた人影が立っていた。顔は判然とせず、だが瞳だけが青白い光を宿している。そして――右腕か左腕か、どちらかは影から突き抜けるように赤い光を帯び、脈動していた。

 ティアナは息を呑む。

「その腕……何なの?」

 影は淡く笑った。

「これは呪いでもあり、力でもある。お前がこの先、必ず対峙せねばならぬものの欠片だ」

「対峙……?」ティアナは首を振る。

「怖がることはない。俺はお前の敵ではない。むしろ――お前に力を貸す者だ」

 影の人物は一歩近づき、低く囁く。

「第1層を蝕む因子の濁流。その鎖を断ち切れるのは――ヴァンリルの泉だ。そこへ辿り着け。そうすれば、己の中に眠るものを知るだろう」

「……眠るもの?」ティアナの声は震えていた。

「いずれわかる。だが選ぶのはお前自身だ。立ち止まれば、全てが飲み込まれる」

 赤い光が一瞬強く明滅した。ティアナは目を細め、問いかける。

「あなたは……一体、誰?」

 影は答えず、霧に溶けるように薄れていった。ただ最後に、掠れた声だけが届く。

「名など今は要らぬ……俺はただ、お前の未来に賭ける者だ」


 ――もやは暗転し、意識は再び眠りに沈んだ。


 ティアナが目を開けたとき、そこは広場の一角の簡素な寝台だった。

 隣ではフィオナがすやすやと眠っており、その頬には疲労の色がにじむ。近くの椅子では、ノクスが紅茶を片手にこちらを見やっていた。

「おや、起きたかい? フィオナはずっと横で見守っていたよ」

 ノクスが微笑む。

 ティアナは胸の奥にまだ残る影の声を振り払い、そっとフィオナの頭を撫でた。

 フィオナは寝たまま、ふっと口元に笑みを浮かべる。


 安堵の空気が広場を包む。だがティアナの胸には、あの赤く光る腕の残像が、燻るように焼き付いていた――。

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