【3ー1】結界に眠る街
転移の光が消えた瞬間、重たい空気が三人を包み込んだ。
足元の石畳は湿り気を帯び、薄暗い天井からは紫がかった光が鈍く揺らめいている。本来なら星々のように輝くはずの人工の空――だが、今は瘴気の霞に覆われ、ほとんどその姿を見せてはいなかった。
「……ここが、第1層……ウィステリア……」
ティアナが小さく呟く。
都市の中心を流れるリヴァティアの川も、澄んだ光を放つはずが、今は濁った青白さを漂わせている。波紋に混じる黒い影が、虹色の輝きを呑み込みながら流れ下っていく。川辺に並ぶ水車は半ば止まり、張り巡らされた水路の一部はすでに干上がりかけていた。
「むぅ……」
ノクスは眉をひそめた。だがすぐに杖を掲げ、どこか懐かしむように口を開く。
「本来ならの……天井には光る結晶が散りばめられ、夜空のように瞬いておるはずじゃ。リヴァティアの川も、もっと澄んでおってな。揺らめく波紋は虹を描き、誰しもがその美しさに息を呑む……はずなのじゃが」
彼女の声に、ティアナとフィオナは周囲を見回す。石造りの家々や彫刻の施された塔はまだ残っているが、壁の光は弱々しく、いくつかの建物は崩れかけていた。宙に舞うはずの魔力の粒子も、今は黒ずんだ塵のように揺れている。
フィオナは沈んだ目で川を見つめ、唇を噛んだ。
「……子どもの頃に、一度だけここを訪れたことがあるんだ。あの時は……きらきらしてて、夢みたいに綺麗だった気がする。けど……こんなの、違う。こんなの、わたしの知ってる場所じゃない……」
ノクスは静かに頷き、どこか寂しげに笑った。
「わらわも……本当はおぬしらに、輝いていた頃の姿を見せたかったのぅ。だが今は、瘴気と因子に蝕まれた危険地帯じゃ。結界で辛うじて守られておる場所以外は、もはや生きた心地もせぬわ」
ティアナは拳を握りしめた。
「……だからこそ、確かめないといけない。何が起きてるのか」
石畳を打つ足音が「コツ、コツ」と重く響く。その音は、かつてあった温もりではなく、冷えきった空洞に反響していた。
ノクスは少し立ち止まり、耳を澄ませた。暗がりの向こうから、かすかな鐘の音が響いている。
「……あの音、まだ鳴っとるのぅ。ならば結界は生きておる証拠じゃ」
彼女は杖を軽く振り、進むべき方向を指し示した。
「向かうは中心部――エルミラ広場じゃ。そこなら今も人が集まり、異変の情報も得られるはず。何より……このまま聖域へ向かうのは無謀すぎる」
ティアナは頷いた。
「広場なら……まだ誰かが生き残ってるかもしれないんだね」
「そうじゃ。希望は、まだ消えとらん」
ノクスの声は静かだが、その奥に確かな意志が宿っていた。
三人は石畳を踏みしめ、広場へと向かう。通りの両脇には崩れかけた建物が並び、かつて緑に満ちていたはずの庭園は、枯れ枝と黒ずんだ蔦に覆われていた。
川のせせらぎもどこか濁りを帯び、青白く光る水面には、瘴気の影がゆらめいている。
フィオナは足を止め、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
「……こんなに、変わっちゃったんだ……」
ノクスは振り返り、小さく息をついた。
「本来なら……川辺には光る花が咲き、歌声や子どもの笑い声が絶えぬ場所なのじゃ。わらわが愛したウィステリアは……こんな姿ではない」
その声には、強がりの影ににじむ悔しさがあった。
ティアナは無言で前を見据えた。崩壊しかけた街路の先に、かすかに光を放つ結界の壁が見える。そこが
――エルミラ広場。
「……行こう。ここで立ち止まっているわけにはいかない」
ノクスは小さく頷き、再び歩き出した。
石畳を進む三人の頭上で、不意に軋む音が響いた。ティアナが顔を上げた瞬間、崩れかけた建物の外壁が大きく傾ぐ。
「危ない!」
瓦礫が一斉に落下する。ティアナとフィオナは咄嗟に身をすくめたが、その直前、ノクスの杖が宙を薙いだ。
紫紺の光壁が展開し、轟音と共に降り注いだ石の塊を弾き飛ばす。砕けた破片が火花を散らして地面を転がった。
「……ふぅ。まったく、油断も隙もないのぅ」
ノクスは息を吐きながら、杖を下ろした。
フィオナは蒼ざめた顔で振り返る。
「街そのものが……敵みたいに崩れていく……」
ノクスは苦々しく視線を巡らせた。
「かつては誇り高き都じゃった。光る花が咲き、川辺には笑い声が満ちておった……。じゃが今は、瘴気が大地を蝕み、建物すら支えを失っておる」
ティアナは拳を握りしめ、崩れた瓦礫の向こうを見据えた。薄闇の中に、かすかに結界の光が瞬いている。
「……あそこが広場だね。急ごう。これ以上、街が崩れる前に」
ノクスは頷き、再び先導する。
――揺らぐ地盤と濁った空気が、彼女たちの歩みを重く縛りつけていた。
崩れ落ちた瓦礫の隙間を抜け、三人は足を進めた。石畳はひび割れ、かつて人々が往来したであろう道は歪んでいる。どこからともなく瘴気が漂い、呼吸のたびに胸が重くなるようだった。
ノクスは杖をつきながら歩を止め、二人を振り返った。
「よいか、お主ら。第2層とは違い、この第1層には“朝昼晩”という区切りは存在せん」
ティアナが瞬きをする。
「……え? 昼も夜も、ないの?」
「うむ。ここは地下深く、光も闇も人工の魔法で織られておる。じゃが今は制御が乱れて、昼夜の巡りも消え失せた。ゆえに気づけば果てしなく歩き、体力を失う――そんなことも起こり得る」
フィオナが唇を噛んだ。
「だから……まずは休める場所を確保しないと危ない、ってことね」
ノクスは小さく頷き、瘴気の漂う先へと視線を送る。
「そういうことじゃ。疲労を重ねれば、この瘴気に呑まれる。心身を保つことが先決じゃろう」
ティアナは呼吸を整えながら、崩れた建物を見渡した。
「でも……こんなに荒れてて、休める場所なんてあるのかな」
「安心せい。目指すは都市の心臓部――エルミラ広場じゃ。あそこならまだ結界が残っておるはず。住民の生き残りが集まっておるかもしれん」
その言葉に、二人の目がわずかに明るさを取り戻した。
「広場……」フィオナがぽつりと繰り返す。
「もし誰かが残ってるなら……状況を聞けるかも」
「うん。行こう」ティアナも力強く頷く。
ノクスは杖を掲げ、進むべき道を照らした。
「よし、ならば決まりじゃ。休息の地を求め――エルミラ広場へ向かうぞ」
石の街に、三人の足音が再び響き渡る。瘴気の渦巻く闇の奥で、かすかに結界の光がまたたいていた。
三人はやがて、大きな開けた空間へとたどり着いた。そこは都市の中心――エルミラ広場。しかし、広場を取り囲むように半透明の光の壁が立ちはだかり、まるで巨大な水晶の殻に覆われているかのようだった。
ノクスは目を細め、杖で壁を軽く突いた。瞬間、バチッと閃光が弾け、衝撃が弾き返す。
「ぬぅ……これは高度な多重結界じゃの。物理も魔力も通さんとは……ふむ、派手にやりおったな」
ティアナが不安げに壁を見上げる。
「じゃあ……中には人が?」
「おる可能性は高い。結界を維持するには相応の術者が必要じゃ」
ノクスは少し考え込むと、杖の先を宙に走らせて小さな魔法陣を描いた。
「伝達魔法で呼びかけてみよう。おい、そこの者!わらわたちは敵ではない、旅の学院生と案内人じゃ!結界を開けよ!」
しばらく沈黙が続いた後、硬い声が返ってきた。
『外の者は入れるわけにはいかん。この瘴気に触れた時点で、すでに穢れておるやもしれぬ。立ち去れ』
ティアナとフィオナは顔を見合わせる。フィオナが慌てて言葉を重ねた。
「ちょっと待って!私たちは助けに来たんだよ!第2層から……!」
しかし返答は冷たく、再び沈黙が落ちる。
ノクスはため息をつき、肩をすくめた。
「やれやれ、融通の利かん連中じゃ。……仕方ないのぅ」
そして杖を高々と掲げる。
「ならば――強引に入るまで!」
転移術の光が杖先に集まり、結界の表面が不穏に揺らぎ始める。その瞬間、内部から慌てた声が飛んだ。
『ま、待て!無闇に触れるでない!結界が暴走したらどうするつもりだ!』
ノクスはふんと鼻を鳴らし、光を収める。
「ほぅ、ようやく口を開いたか。ならば話し合いの余地はあるということじゃな」
結界越しに、複数の影がゆらりと動いた。内部に人がいることは確かだ。しかし彼らの瞳は疑念と警戒に満ちていた。
ティアナは胸の鼓動を抑えつつ、一歩前へ出る。
「お願い……私たちを信じて。中に入れてもらえないかな」
広場を包む結界は、なお硬く閉ざされたまま。しかしその空気は、わずかに揺らぎ始めていた。
ノクスが杖を下ろすと、広場を覆う結界の揺らぎはわずかに収まった。透き通った光の膜の向こうで、複数のけもみみ族が剣呑な視線を投げてくる。耳をぴくりと動かし、尻尾を強張らせながら、年長らしき魔法使いが一歩前に出た。
『何者だ……! 瘴気に触れた者を、無条件で受け入れるわけにはいかん。第1層の異変に関わる者か?』
ノクスは深く頭を垂れ、低い声で言葉を紡ぐ。
「わらわはノクス。学院からの案内人じゃ。そしてこの者たちは学院の徒弟。第1層の異変を確認し、これ以上の被害を防ぐために参った」
その背でティアナが息をのむ。恐怖を振り切るように前に出て、杖を強く握りしめた。
「お願い……私たちは敵じゃないの。怪我した人を助けたい。だから……どうか中へ入れて!」
声は震えていたが、必死の思いが込められていた。
内部の魔法使いたちは互いに視線を交わし、重い沈黙が降りる。やがて、一人が杖を掲げ、空気に小さな光の粒を散らした。伝達魔法――合図だ。
しばしののち、年長の魔法使いが口を開いた。
『……わかった。入ることを許そう。ただし結界を壊すことはならん。暴走させれば、異変はさらに広がる』
結界の光がゆらりと波打ち、バチッと弾かれるような圧が走る。やがてその一部が透け、楕円形の通路が浮かび上がった。
ノクスはにやりと口元をほころばせる。
「ふぅむ……話し合いで通れるとは。やれやれ、わらわも成長したものじゃのう」
フィオナは小さく息を吐き、潤んだ瞳で広場を見つめた。
「……やっと、中に入れるんだね」
ティアナも力強くうなずき、仲間と共に歩を踏み出す。
完全に開かれたわけではない通路。内部の者たちの視線が鋭く突き刺さる中、三人は結界を越えた。
ノクスは杖を軽く振り、満足げに言う。
「まずは体を休める場所を確保せねばな。ここからが本当の試練じゃ」
広場の奥では、なおも瘴気の影が揺らめいていた。だが、その暗闇の中に――学院生たちの足取りが、新たな光を刻み始めていた。
広場の中央に立つ魔法使いたちの中で、一際落ち着いた風格を纏う男が、指先で眼鏡をクイと押し上げた。その視線がノクスに注がれる。
「……名をノクスといったか。久しいな。数十年ぶりであろう」
ノクスは目を細め、唇にゆるやかな笑みを浮かべた。
「ほぅ? わらわを知っておるか」
男は鼻を鳴らし、瘴気に霞む空気を押しのけるように一歩近づく。
「学院で名を轟かせていた頃を、忘れたとは言わせん。君がこの都市に足を運ぶのは初めてではあるまい。……違うか?」
ノクスは肩をすくめ、少し誇らしげに杖を掲げる。
「なるほど、やはりそちか。眼鏡越しの目つきも昔のままじゃ。懐かしいのぅ」
ティアナは胸をなで下ろし、フィオナはまだ不安げに周囲を見回した。
瘴気はなお漂い、空気は重苦しい。しかしノクスと長の間には、わずかに旧友の信頼を思わせる温度が灯っていた。
男は三人を順に見渡し、声を落とす。
「……異変のせいで結界を強化せざるを得なかった。ここを通れる者などいないと思っていたが……君がノクスならば納得もいく」
ノクスはにやりと笑い、杖を軽く一振りする。
「わらわの名に免じて道が開けるとは、相も変わらず面白いのぅ」
結界の穴は三人の通過を見届けると同時に閉ざされ、広場は再び静寂に包まれた。残されたのは、瘴気に濁る空気と、かすかな光を宿す人々の視線だけ。
長は背を向け、低く言葉を投げる。
「立ち話も何だ。ここは瘴気が溜まりやすい。詳しい話は奥でしよう。……案内する。休める場所も用意しよう」
ティアナとフィオナは顔を見合わせ、小さくうなずいた。ノクスは軽く杖を鳴らし、悠然とした足取りで長の後を追う。
だがその時、広場の端の石畳が、ミシリと不吉な音を立てた。漂う瘴気が、かすかに濃度を増している。
ノクスはちらりと振り返り、口元に笑みを浮かべる。
「……ふむ。どうやら、ゆっくりしておる暇はあまりなさそうじゃの」
三人の歩みの先に待つものが、休息か、それとも新たな試練か――まだ誰も知らなかった。




