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境界を超える少女の物語  作者: Sekhmet
第3章

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【3ー3】影は泉に佇む

 ティアナが目を覚ました翌日。

 広場の空気は、相変わらず重く淀んでいた。結界が外敵を防いでいるにもかかわらず、市民たちの表情は硬く、安心とは程遠い。時間の流れを失ったこの都市では、昼も夜もなく、疲労だけがじわじわと蓄積していくのだ。

「ふぅむ……このままでは、街全体が瘴気に呑まれてしまうじゃろう」

 ノクスはそう呟き、杖の先を地面に軽く突いた。振動が波紋のように広がり、地下に潜む力の流れを探る。

「……ほぅ。動力源の泉――“ヴァンリル”が乱れておるな。やはり、あそこへ行かねばならん」

 その名を聞いたとき、ティアナの心臓は小さく跳ねた。昨夜の夢に現れた影の人物――あの声が確かに『泉へ』と囁いていたのだ。偶然にしては出来すぎている。

「ノクスさん……ヴァンリルの泉って……」

「この都市の根幹を支える魔力の泉じゃ。結界も、住民の命運も、すべてはそこから供給されておる」

 ティアナは視線を落とす。夢の中で見た片腕が赤く光る人影が、ふと脳裏をよぎった。

――私は敵ではない。君を導くために現れた。

 その声が耳の奥で反響する。

「ティアナ?」

 隣のフィオナが首をかしげる。

 心配そうなその瞳に、ティアナは曖昧に微笑んで首を振った。

「……なんでもない。ただ、行かなきゃって思っただけ」

 ノクスは二人を見渡し、ゆっくりと頷いた。

「よかろう。泉の異変を確かめ、正すのがわらわらの役目じゃ。――ただし、覚悟せよ。この先には、わらわですら予測できぬ影が潜んでおる」

 その言葉を合図に、三人は広場を後にした。


 背後の結界に映る瘴気の渦――その中に、一瞬だけ赤く光る腕の影がちらりと浮かんでは、すぐに闇へと溶けていった。

 やがて通路は広がり、岩壁には不規則な亀裂が走っていた。

 そこから噴き出す瘴気は先ほどよりも濃く、まるで意志を持つかのように渦を巻いて迫ってくる。

 ティアナは反射的に手をかざし、光の矢を放った。矢はもやを貫き、霧散させる。

「よし……!」と息をつく彼女に、ノクスが笑みを浮かべた。

「そうじゃ、その調子じゃ。守るのも大事じゃが、時に攻めねば呑まれるぞ」

 次にフィオナも杖を構え、水の刃を走らせた。透明な斬撃がもやを裂き、床にしぶきを散らす。

「ほぅ……おぬしもなかなか筋が良い。水は防御だけではなく、切り裂く力を持つもの。忘れるでないぞ」

 二人は顔を見合わせ、小さく頷き合った。

 まるで師が弟子に試練を与えるように、ノクスは瘴気を払いながらも二人に前に立たせ、時に助言を投げる。

「魔術は心の在り方を映す。揺らぐな、怯むな。力を外へと押し出せ!」

 その指導に応えるように、ティアナとフィオナの魔力の放ち方は徐々に鋭さを増していった。

 やがて、道の先に青白い光がちらちらと見え始めた。水の反射――ヴァンリルの泉が近い。

 しかし同時に、低いうなり声のような音が響き、地面が細かく震え出す。

「感じるか?」

 ノクスが足を止め、二人を見渡した。

「これは泉そのものの悲鳴じゃ。乱れが極まれば、この都市は一夜にして崩れる」

 ティアナは強く唇を結ぶ。夢に現れた影の人物の声が再びよみがえった。


――君はここで選ぶことになる。自分が何者で、どこへ向かうのかを。


 背筋に冷たいものが走ったが、その瞳は決して逸らさなかった。

「……怖くても、進む。ここで立ち止まっちゃいけない」

「うむ。それでこそじゃ」

 ノクスが満足げに頷く。

 三人は緊張に包まれながらも、光源たる泉の奥へと進んでいった。

 そこには、この街の命運を左右する光と影の源が待ち受けているのだった。

 泉へ至る最後の通路に差しかかったときだった。

 冷たい風が、地の底とは思えぬほど鋭く吹き抜ける。灯火が揺れ、影が壁に踊った。その中で、ひときわ濃い影が形を結ぶ。


「……来たか」


 声は低く澄み、しかし岩壁を伝って胸の奥まで響いてくるようだった。

 揺れる闇の中から一歩踏み出したのは、一人の青年――銀の髪が淡い光をはじき、赤と紫のオッドアイがまっすぐに三人を射抜いた。

 ティアナは思わず息を呑む。夢で見た光景が、いま目の前に具現化している。

 「あなた……!」

 彼の左腕に走る赤い刻印が、泉の気配に呼応するように淡く光を帯びる。黒装束に覆われた体は引き締まり、纏う気配は鋭くも落ち着いていた。

 ノクスの眉がぴくりと動いた。

「……ほぅ。狼の血筋に、この魔素の刻印とは。名を名乗れ」

 青年は微かに口元を歪める。

「ゼン・ヴァルド。反乱軍“夜牙”の頭領にして……旧王家の落胤だ」

 その言葉に、フィオナが目を見開いた。

「旧王家……? まさか、あなたも“記”の血を……?」

 ゼンの瞳が一瞬、揺らいだ。けれどすぐに鋭い光を宿し直し、ティアナを見据える。

「お前は夢で私に会ったはずだ。……そうだな、ティアナ」

 ティアナの胸が強く脈打つ。夢の声が、現実の音となって耳に届く。

「私は敵ではない。むしろ、この都市を救いたいと願っている。ただ……そのためには、選ばれし者の力が必要だ」

 赤く光る左腕をわずかに掲げると、周囲の瘴気がざわりとうごめいた。

「ヴァンリルの泉は崩れかけている。放置すれば街ごと呑まれるだろう。――だが、泉を正しく導けるのは、私か……あるいは、お前だけだ」

 沈黙を破ったのは、泉の方から響く不気味な地鳴りだった。

 石壁の奥底で脈打つような音が響き渡り、空気全体がじりじりと震える。

 ティアナは思わず息を呑み、ノクスとフィオナは互いに視線を交わす。

 その中心に立つゼンの姿は、灯火に照らされながらも闇に融けるようで、まるで試練そのものが人の形を取ったかのようだった。赤い刻印の左腕が、かすかに脈動して光を放つ。


「……ふむ」

 ノクスが杖を軽く突き、ひときわ大きな魔力の波を周囲に散らす。

「そういえばおぬし――反乱軍『夜牙』の頭領とか言っておったかの。確か、第3層の牢獄にぶち込まれていたはずじゃが……ほぅ、抜け出してきたのかね?」

 問いかけは鋭く、しかしどこか愉快そうでもあった。

 ゼンは微かに笑みを浮かべ、赤と紫のオッドアイでノクスを見据える。

「抜け出した、か……否。解き放たれた、が正しい」

「……なにを企むつもり?」

 フィオナが一歩前へ出る。視線は鋭く、ティアナを庇うようにしてゼンを睨みつける。

 血の繋がりを本能で察しているのか、その敵意は憎悪にも似ていた。

 ゼンはその反応を見ても動じない。ただ淡々と、深淵から響くような声で言葉を紡ぐ。

「この泉が乱れている理由を知りたくはないか?……このままでは結界も、人々も、すべてが呑まれるぞ」

「なら、お前が正すというのか?」

 ノクスが唇の端をつり上げる。

 ゼンは即答しない。ただ泉の方角に視線を向け、しばし沈黙を置いた。

 そして、ティアナの方へと目を向ける。


「……否。正せるのは、彼女だけだ」


 ティアナの胸に、昨夜の夢での声が蘇る。

――お前にはその力がある。だがまだ眠っている。

 心臓が早鐘を打ち、足がすくむ。

 ゼンはゆっくりと歩を進め、赤く脈打つ左腕をわずかに掲げる。

「光と闇は揃わねばならぬ。だが今のままでは……足りぬものがある」

「足りぬもの?」

 ティアナは思わず問い返す。


 その瞬間、泉の奥から再び轟音が響き渡り、洞窟全体が低く唸るように揺れた。

 ゼンは答えを口にせず、ただ彼女の瞳を射抜くように見つめ――やがて、その視線を奥の闇へと向けた。

 導かれるようにティアナたちも目を向ける。

 洞窟の奥を抜けると、目の前に広がったのは異形の光景だった。

 ――ヴァンリルの泉――

 本来ならば澄んだ青い光をたたえるはずの泉は、黒と紅の瘴気に覆われ、沸き立つように波打っていた。まるで大地そのものが呻き声をあげているかのようだ。水面に映る天井はゆがみ、周囲の岩壁はひび割れ、赤黒い光が走る。

「……なんということじゃ」

 ノクスの低い呟きが洞窟に響いた。

「これでは都市全体の結界が保つはずもない。力の源そのものが蝕まれておる」

 フィオナは唇をかみ、泉の縁へ一歩踏み出そうとする。だが、その肩をゼンが静かに制した。

「不用意に近づくな。この泉は、今や闇に傾いている。触れれば呑まれるぞ」

 その声は冷徹だったが、妙に真実味を帯びていた。

 ティアナの胸に、再び昨夜の言葉が蘇る。

――お前にしか出来ぬことだ。


「わ、私にしか……?」

 小さく呟くと、ゼンはオッドアイでまっすぐに彼女を見つめる。

「この泉は“感情”を糧とする。均衡を乱したのは、都市に満ちる恐怖と絶望だ。……お前がその逆を示せるなら、泉は応える」

「逆……?」

 ティアナの胸に、疑念と恐れが渦巻く。

 ノクスは杖を突きながら、ゼンを睨んだ。

「ふん……ずいぶんと親切な解説ではないか。だがのう、何故そこまで彼女に肩入れする? おぬし、敵にも味方にも見えるが……結局は何者じゃ?」

 ゼンはその問いには答えず、ただ左腕の赤い刻印を泉にかざした。

 脈打つように光が走り、水面が激しく揺らぐ。


「……見極めよ、ティアナ」

その声は、試練を告げる裁き人のように低く響く。


 泉の波が突然爆ぜ、黒い飛沫が空へと舞い上がった。

 ティアナの視界を覆う影の奔流――光と闇の狭間で、彼女の鼓動が一層強く鳴り響いた。

 光と闇の狭間で、彼女の鼓動が一層強く鳴り響いた。

 次の瞬間、ヴァンリルの泉が唸りを上げ、黒い奔流を迸らせた。瘴気の塊が弾け、稲妻のような閃光が空間を裂く。

「っ――ティアナ!!」

 ノクスの叫びと同時に、泉から伸びた黒い触手のような魔素がティアナを包もうと迫る。

「お主、彼女に何をする気じゃ!」

 ノクスは杖を振り上げ、空間を裂く転移術を発動させた。眩い閃光とともに、ティアナとフィオナの身体は一瞬にして泉から離れた岩陰へと誘導される。


だが――ほんの一瞬。

そのわずかな隙間から、黒い飛沫がティアナの額に触れた。


「――――っ!」

視界が暗転し、重力に引き込まれるように、ティアナの意識は落ちていった。


◇ ◇ ◇


視界が歪み、ティアナは見知らぬ廃屋の教室に立っていた。壁には薄暗い影、窓から差し込む光は冷たく、空気は張り詰めている。


――あの頃……


 子供の頃の記憶が、抑えていた感情とともに押し寄せる。

 人間の子供たちに、耳と尻尾を引っ張られ、笑いものにされ、恐怖と屈辱に震えたあの日々。


「……やだ……!」


 幼い自分が声を上げても、周囲は笑い声だけを返す。痛みと羞恥に、胸が締め付けられる。

 胸の奥の血が熱を帯び、獣の本能が呼び覚まされる。

 瞳が鋭く光り、耳と尻尾が無意識にピンと立った。


――力が暴走する……!


 ティアナの手が、目の前の机や椅子を握り潰す。

 鉄の脚が軋み、木材は粉々に砕け散る。教室の床に亀裂が走り、まるで自分の怒りが空間を裂いていくようだ。

「やめ……やめて……!」

 悲鳴と怒号が混ざり、声は震え、口からは牙のような低い唸りが漏れる。

 壁際の人形や本棚が吹き飛び、幻影の子供たち――当時のいじめっ子たちの影――が怯え、逃げ惑う。

 だが、触れたものに力を向けると、押し倒し、吹き飛ばす。殺意ではない、ただ制御できない力が暴走するだけだ。

 涙が頬を伝い、身体は震え、心は混乱に覆われる。

 力を使うこと=悪だという自己認識が、さらに怒りと恐怖を増幅する。

 その瞬間、周囲の空気が黒く渦を巻き、泉の意志の黒い触手が彼女の周囲に絡みつく。

 幻影と現実の境目が消え、ティアナはまるで水底に沈むように重力を感じた。


「いや……私は、悪くなんかない……!」

 ティアナは必死に叫ぶ。だが、泉の黒い水が形を変え、触手のように空間を這い、記憶を抉る。

『見よ……お前の罪、忘れられぬ過去を』

 泉の意思の声が耳元でささやく。

 恐怖・怒り・悲しみ――その三つが混ざり、ティアナの獣の血が反応する。光と闇がせめぎ合い、胸の奥で鼓動が高鳴った。

 手元の力が熱を帯び、足がすくむ。幻影はさらに鮮明に現れ、過去の教室と黒水の渦が交錯する。

――私は、もう力を使えない……。

 必死に立ち向かおうとするも、身体は夢と現実の狭間で重く、膝が崩れ落ちた。

 黒い水が押し寄せ、意識を塗りつぶそうとする。


――そのとき。

 胸の奥で、かすかな温もりが弾けた。

 微かな光が指先に宿り、暗闇を拒むように瞬く。

 ティアナは荒い呼吸を整えながら、自らの手に残る微かな光を見つめる。

 それは偶然ではない。

 光と闇がせめぎ合う世界で、ティアナは初めて自分の力を『選んで』掴み取ったのだ。

 彼女は震える足で立ち上がり、泉の黒き影へと向き直った。


――次に目覚めたとき、彼女はもう、以前の彼女ではいられない。

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