第9話 同じ字を千回
三百枚を過ぎたあたりで、手首が痛くなった。四百枚で、痛みが消えた。消えたのではなく、感じなくなっただけだと分かっていた。
五百枚。
オリヴィア・レーンハルト。オリヴィア・レーンハルト。オリヴィア・レーンハルト。
同じ名前を五百回書くと、それが自分の名前だという感じが薄れてくる。ただの線の並びになる。線の並びになったころから、手が勝手に動くようになった。
これだ、と思った。父が言っていたのは、たぶんこれだ。
「まだやるのか」
顔を上げると、ユリウスが扉のところに立っていた。上着を脱いで、腕まくりをしていた。彼のそういう格好を、わたくしは初めて見た。
「五百二枚でございます」
「あと五百か」
「はい」
彼は部屋に入ってきて、向かいの椅子に座った。座って、紙束を引き寄せた。
「番号を振る」
「え」
「千枚書いて、順番が分からなくなったら意味がないだろう。あとに行くほど速くなるんだったな。速さの変化を見るなら、順番が要る」
彼はペンを取って、紙の隅に数字を書き始めた。
一、二、三、四。
わたくしは、その手元を見た。
——字が、汚い。
汚い、というのが正確かどうかは分からない。読める。ただ、線がまっすぐでない。数字の「四」の右肩が、上に逃げている。
彼が三十枚ほど振ったところで、その傾きが強くなった。速く書くと、右上がりになる人だ。
「何だ」
「いえ」
「見ていただろう」
「……失礼いたしました」
「言え」
わたくしはペンを置いた。
「監査官様。急がれると、右上がりになりますのね」
ユリウスの手が止まった。
「よく言われる」
「王国屈指の監査官様が、でございますか」
「書類を読むのが仕事だ。書くのは、その次だ」
言い方が、少しだけ子どもっぽかった。わたくしは笑いそうになって、こらえた。こらえきれずに、口の端が動いた。
「笑ったな」
「笑っておりません」
「今、笑った」
「笑っておりませんわ」
彼は何も言わずに番号を振り続けた。しばらくして、こう言った。
「昔から、そうだ」
「昔、と申しますと」
「……いや」
彼はそこで止めた。
わたくしは、それ以上聞かなかった。聞けなかった、が正しい。
三年間。
この人はわたくしを知っている。わたくしはこの人を知らない。その差の中に、聞いてはいけないものが埋まっている気がした。
◇
七百枚を過ぎたころ、蝋燭を二本目に替えた。替えるとき、彼が芯を切ってくれた。芯を切ると炎が高くなる。手元が明るくなった。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「言え」
「監査官様は、なぜここにいらっしゃるのですか」
「番号を振っている」
「そうではなく」
わたくしは八百枚目を書き終えた。
「監査官様は、わたくしの言い分を信じていないとおっしゃいました。信じていない人間のために、夜通し番号を振る理由が分かりません」
ペンの音が止まった。
「信じていないと言った。信じたくないとは言っていない」
「同じことでは」
「違う」
彼は次の紙を引き寄せた。
「俺は、あの婚約解消書に署名した。俺の署名は本物だ。俺が書いた」
わたくしは手を止めた。
「もし君の署名が偽物なら、あれは片方だけが本物の書類だ。片方だけが本物の書類に署名した人間は、この国に一人しかいない」
「……監査官様、ですか」
「そうだ」
彼は数字を書いた。八百一。
「俺は、自分が何に署名したのかを知りたい。それだけだ」
「監査官様」
「なんだ」
「なぜ、お書きになったのですか」
ペンの音が止まった。止まって、しばらく戻らなかった。
「……八百二」
彼は数字を書いた。答えは返ってこなかった。
わたくしは、それ以上聞かなかった。聞けば答えるのだろうと思ったが、答えさせる場所がここではない気がした。
わたくしは、その横顔を見た。窓の外はもう暗い。蝋燭の光が、彼の手元だけを照らしている。この人は今、自分のことを話したのだと思った。
思ったが、たぶん違った。彼はもっと別のことを言ったのだ。それに気づくには、わたくしはまだ、知らないことが多すぎた。
◇
九百枚を過ぎたころ、彼が手を止めた。
「一つ、聞いてもいいか」
「どうぞ」
「君は、記憶が戻らないことを、怖いと思うか」
わたくしは、ペンを止めなかった。
「怖くはございません。困っております」
「違うのか」
「違いますわ。怖いのは、あるものが失われることでしょう。わたくしには、失われた実感がございません。最初から無かったのと同じですの」
「では、何に困る」
「照らす相手が無いことにです」
わたくしは九百三枚目を書いた。
「今のわたくしが正しいかどうかを、以前のわたくしと比べて確かめられません。だから、紙で照らすしかないのですわ」
彼は、しばらく黙っていた。
「紙は答えるか」
「答えます。聞き方さえ間違えなければ」
「人は」
「人は、答えたいことしか答えませんわ」
彼の手が、また動き始めた。九百四。九百五。
「厳しいな」
「わたくしは、人に聞いて答えを得た経験を、半月ぶんしか持っておりません。その半月で、嘘を三回つかれました」
「三回か」
「数えております」
「誰にだ」
「一つは叔父様。一つは医師。もう一つは、まだ申し上げません」
彼は数字を書く手を止めなかった。
「俺か」
「かもしれませんし、違うかもしれません。まだ照らしておりませんので」
◇
千枚目を書き終えたのは、空が白む前だった。
「終わりました」
「速くなっているか」
わたくしは一枚目と千枚目を並べた。千枚目のほうが、明らかに速かった。抜けが鋭い。線が短い。
「なっております」
「なら、物差しはできた」
彼は千枚を紐で縛った。縛りながら、机の隅を見た。そこには、わたくしが最初に書いた三枚——マリアンヌの手紙と並べた三枚が、まだ重ねてあった。
ユリウスは、それを見ていた。長いこと見ていた。わたくしは、彼が紙を見ているのだと思った。彼は、たぶん紙を見ていなかった。
「オリヴィア嬢。休め」
「庫が開くまで、あと四日ございます」
「四日ある、ではない。四日しかない」
扉が閉まる。
わたくしは千枚の束に手を置いた。手が、まだ勝手に動く感じが残っていた。
◇
その手が止まったのは、二刻もしないうちだった。鑑定室の扉が、蹴破られる勢いで開いた。
「令嬢さま!」
ネルだった。前掛けが煤で真っ黒になっていた。
「紙屋の伝手で、ドレスデン領の紙がどこへ卸されてるか追ってたんですけど」
「まさか、こんな時間から」
「昨日から寝てません。それより聞いてください」
彼女は両手を膝について、息を整えた。
「ドレスデン邸、一昨日から焼却炉を回しっぱなしです」
わたくしは立ち上がった。
「炉番が愚痴ってました。紙ばっかり、二日も焚かされてるって」
「量は」
「荷車で三回ぶん、と言ってました」
窓の外が、白み始めていた。
【所見】千枚。一枚目より千枚目のほうが速い。人の手は温まる。
庫の扉が開くまで、あと四日。それを待たずに、ドレスデン邸の焼却炉が二日回り続けています。燃やされているのは、紙です。
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