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記憶を失った悪女ですが、この婚約解消書の署名が偽物だということは分かります  作者: 久世まどか


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第10話 練習帳

 焼却炉は、まだ温かかった。ドレスデン邸の裏手。石積みの炉に、ユリウスは公証院の封印を貼った。


「証拠保全だ。以後、この炉に手を触れた者は公証院への妨害とみなす」


「監査官殿!」


 叔父のヴィクトルが、寝間着の上に上着を羽織って走ってきた。


「屋敷の炉に何の権限が——」


「令状はここに」


 ユリウスは書面を出した。叔父はそれを二度読んで、二度目のほうが長かった。


「……何を、お探しですかな」


「灰を」


「灰を探して、何が出ると」


「出ないなら、出ないと書いて帰ります」


    ◇


 炉の底から掻き出された灰は、二つの荷車ぶんあった。ネルが篩を持ってきた。三種類、目の細かさが違う。


「令嬢さま、灰は水に入れちゃ駄目です。紙は水に負けるんで。乾いたまま篩ってください」


「分かりました」


「あと、風。風が吹いたら手を止めてください。軽いのから飛びます。軽いのがいちばん大事なんで」


 わたくしたちは、灰を篩った。午前が終わり、午後になった。出てくるのは炭の粒ばかりだった。


 叔父は途中から椅子を持ってこさせて、それに座って見ていた。マリアンヌは屋敷の窓から見ていた。二階の窓が開いて、閉まって、また開いた。


「令嬢さま」


 三つ目の篩の底で、ネルの手が止まった。


「これ」


 黒い塊だった。手のひらほど。焦げているが、形が残っている。紙の束が、外側だけ炭になって、内側が焼け残ったものだった。


「炉の隅にあったんだと思います。束のまま突っ込むと、真ん中まで火が入らないんです。素人がやったんですよ、これ」


「慣れた者なら」


「一枚ずつばらして焚きます。手間ですけど、確実です」


 わたくしは布を敷いて、その塊を置いた。炭になった外側を、指の腹で払う。ぼろぼろと崩れた。


 崩れた下から、字が出た。


 ——オリヴィア・レーンハルト


 一行。


 その下に、もう一行。


 ——オリヴィア・レーンハルト


 その下に、また。


 わたくしは、めくった。


 次の頁も、同じ名前で埋まっていた。次も。次も。


 「ィ」のはねが、少しずつ上を向いていく。


 最初の頁は、はねていなかった。中ほどの頁で、迷ったように揺れていた。最後の頁で、きれいに上を向いていた。


 わたくしは、その最後の頁を、婚約解消書の署名の横に置いた。


 同じ角度だった。


「監査官様」


 声が出た。自分の声だと思えないほど落ち着いていた。


「これは練習帳ですわ。日を追って、上達しております。上達の向きが——本物から、偽物のほうへ向かっております」


「上達の向き、とは」


「最初の頁が、いちばんわたくしの字に近いのです。書き手は、まずわたくしの本物を見て、それを写すところから始めました。ですが、途中から『はねたほうがそれらしい』と思い込んだのですわ」


 わたくしは中ほどの頁を示した。


「ここで迷っております。はねるべきか、はねざるべきか。そして、はねるほうを選んだ」


「選んだ理由は」


「わたくしの署名を、実物で見たことがないからですわ。噂か、記憶か、誰かの真似で覚えたのです」


 ユリウスが、束を受け取った。


「筆跡は」


「ドロテアさんのものではありません」


 わたくしは頁の隅を示した。


「ドロテアさんは、線の入りが必ず右上からです。左利きを右に直した人の癖です。この頁は、全部、左上から入っております」


「では誰だ」


「先日、鑑定室で書いていただいた五枚のうち、左上から入る方は一人だけでした。ですが、その方はここにおりません」


「五人の中にいないのか」


「はい。五人は皆、右上か真上でした」


 わたくしは、顔を上げた。


「五人の外にいる方ですわ」


 二階の窓が、閉まった。


    ◇


 マリアンヌは、玄関の階段を降りてこなかった。ユリウスが上がっていって、連れて降りてきた。彼女は扇を持っていなかった。


「お姉様」


「マリアンヌ様」


「わたくし、憎んでおりませんのよ」


「存じております」


「本当に。憎めるほど、お姉様のことを知りませんもの」


 彼女はわたくしを見なかった。焼却炉のほうを見ていた。


「わたくし、二十四回書き直しましたの。あの『ィ』。二十四回目で、やっと上を向きましたわ」


「三十一回でございます」


 わたくしは束を示した。


「頁は三十一。数え違いをなさっておいでですわ」


 マリアンヌの顔が、初めて崩れた。崩れて、そのあと笑った。


「……そういうところですのよ、お姉様」


「どういうところでしょう」


「数えるところ。お姉様はいつも、人の話を聞かずに数えていらっしゃる」


 わたくしは、答えなかった。答えなかったのは、それが当たっていたからだ。


「マリアンヌ様。一つだけ伺わせてください」


「どうぞ」


「あの手紙は、どなたがお書きになりましたの」


 彼女は、少しのあいだ黙った。


「知りませんわ。届いたのですもの」


「どちらから」


「お父様から。『これを持っていなさい』と」


「いつ」


「三年前の五月」


 わたくしは、その月を頭に留めた。


「中身は、ご覧になりましたか」


「読みましたわ。何度も」


「読んで、どう思われました」


 マリアンヌは、初めてこちらを見た。


「お姉様らしい、と思いましたの」


「そうですか」


「ええ。飽きたと言って、書類は用意させて、あとは好きになさい。——そういう方だと思っておりましたもの」


「そう思わせる紙でしたのね」


「今は、そう思っておりませんわ」


「なぜ」


「三十一回も書かされましたから」


 彼女は、目を伏せた。


「三十一回書いて分かりましたの。お姉様の字は、はねません」


    ◇


 彼女が連れて行かれたあと、叔父が立ち上がった。誰よりも先に、こう言った。


「マリアンヌは、私が指示した」


 わたくしは、聞き違えたのかと思った。


「それが、何か?」


 叔父は上着の埃を払った。


「私はオリヴィアの後見人だ。姪が記憶を失っている間、その意思を代行する権限が、法によって私に与えられている。婚約解消の手続きも、その代行のうちだ」


「代行に、偽の署名が要るか」


 ユリウスが言った。


「本人の署名が要る書式でな。監査官殿もご存じだろう。婚約解消書は代行印を受け付けん。だから署名を用意した。用意させたのは私だ。認める」


 叔父は初めてわたくしを見た。


「オリヴィア。お前は父親に似すぎた」


「叔父様」


「私は姪のためを思って申し上げているのだよ」


    ◇


 帰りの馬車で、わたくしは束を抱えていた。


「勝ったのに、勝った気がいたしません」


「勝ってはいない」ユリウスが言った。「マリアンヌ嬢は手を動かした人間だ。手が二人替わっただけだ」


「叔父様は、開き直りましたわ」


「開き直ったのではない」


 彼は窓の外を見ていた。


「あれは、勝てる算段があるということだ」

【所見】三十一頁。日を追って上達し、上達の向きが本物から偽物へ向かっている紙束。


叔父ヴィクトルは、否定せずに認めました。認めても負けないと知っている人の顔でした。明日、その理屈を聞かされます。


お読みくださりありがとうございました。ここまでの十話でブックマークをいただけましたら、篩の目をもう一枚細かいものに買い替えます。

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