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記憶を失った悪女ですが、この婚約解消書の署名が偽物だということは分かります  作者: 久世まどか


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第11話 後見人の権限

 法務官は、痩せた男だった。公証院の会議室で、彼は条文集を開き、指で行を追いながら読み上げた。


「後見令第九条。被後見人が意思を表示し得ない状態にあるとき、後見人はその財産及び身分に関する行為を代行することができる」


「婚約解消は身分行為ですわね」


「そうです」


「では、署名を偽造した行為は」


「それが、問題でして」


 法務官は次の頁をめくった。


「同令第十一条。代行にあたり本人の署名を要する書式については、後見人はこれを代書することができる。ただし代書の旨を余白に付記しなければならない」


 わたくしは顔を上げた。


「付記は、ございませんでした」


「はい。ですから違反です。手続き違反」


「罰は」


「戒告、または過料」


 部屋の中で、ペンの音が止まった。


「……それだけですか」


「それだけです」


 法務官は条文集を閉じた。


「レーンハルト嬢。婚約解消そのものは、後見人の権限内で行われています。有効です。無効になるのは、付記を欠いた形式の部分だけで、これは追記すれば治癒します」


「治癒」


「はい。今から余白に『後見人代書』と書き足せば、あの書類は完全に有効な文書になります」


「今から書き足すのですか。三年前の書類に」


「付記に日付の要件はありませんので」


 わたくしは、机の木目を見ていた。


「では、あの三十一頁は」


「証拠としては、姪御さんが署名を練習した事実を示すだけです。代書のための練習であれば——」


「合法ですか」


「合法です」


「代書のために、なぜ三十一回も練習が要るのでしょう。代書だと名乗るなら、ご自分の字で書けばよろしいのですわ」


 法務官は、少し困った顔をした。


「……おっしゃるとおりですが、条文はそこまで書いておりません」


「書いていないことは、罰せないのですね」


「はい」


 わたくしは、条文集を借りた。第九条から第十四条まで読んだ。読み終えて、一つだけ聞いた。


「後見が終わるのは、どういうときですか」


「第十四条です。被後見人が意思を表示し得る状態に復したとき」


「復したかどうかは、誰が決めますの」


「医師の所見と、後見人の申し出です」


「後見人が申し出なければ」


「続きます」


 わたくしは条文集を閉じた。


「では、わたくしがどれだけ喋っても、叔父様が黙っていれば、わたくしは意思を表示できない者のままですのね」


「制度としては、そうなります」


「医師は、どなたが選びますの」


「後見人です」


 わたくしは、頁の縁を指で押さえた。輪が閉じていた。どこにも入口がない。


「よく出来ておりますわ」


「善意の後見人を前提にした条文ですので」


「善意でなかった場合の条文は」


「ございません」


 わたくしは席を立った。


 廊下へ出る前に、もう一度だけ振り返った。


「法務官様」


「はい」


「戒告というのは、どなたが出しますの」


「公証院長です」


「過料は」


「同じく」


「では両方とも、この建物の中で終わりますのね」


「終わります」


「外へは出ませんか」


「出ません。手続き違反ですので」


 わたくしは礼をした。


 外へ出ないものは、記録にしか残らない。記録は書き替えられる。書き替えられる罰は、罰ではない。


    ◇


 廊下に出て、わたくしはしばらく壁に手をついていた。


「オリヴィア嬢」


「……存じております。負けたのではない、と」


「そうは言っていない」


「では」


「負けた」


 わたくしは、彼を見た。


「今の争点では負けた。婚約解消の有効性を争う限り、あの人は勝つ。法がそう書いてあるからだ」


「では、争点を」


「変える」


 ユリウスは廊下を歩き出した。わたくしはついていった。


「考えろ。あの人は五日前から知っていた。第十一条を出せば勝てると知っていた。知っていて、なぜ最初から言わなかった」


 わたくしは足を止めた。


「……最初から言えば、婚約解消が代行だと世間に知れます」


「そうだ」


「代行だと知れれば、わたくしが自分から捨てたという話が、崩れます」


「そうだ」


「叔父様は、わたくしを悪女にしておきたかった」


 ユリウスが振り返った。


「なぜだ」


「なぜ……」


 わたくしは考えた。


 悪女にしておくと、何が得か。誰も味方をしない。誰も紙を見せてくれない。誰も、わたくしの言い分を最後まで聞かない。


 ——三年のあいだ、そうだった。


 三年。


 わたくしが記憶を失っていたのは半月前からだ。悪女と呼ばれ始めたのは三年前だ。


「監査官様。順番が逆でしたわ」


「言え」


「わたくしは、記憶を失ったから悪女と呼ばれたのではありません。三年前から悪女と呼ばれていて、そのあとで記憶を失ったのです」


 彼の目が、細くなった。


「馬車の事故は、半月前だな」


「はい」


「三年前に何があった」


「……父が、亡くなりました」


 言ってから、わたくしは自分の言葉に躓いた。父が死んだ。その年から、わたくしの評判が落ち始めた。その三年後に、わたくしは馬車ごと落ちた。


 三年間、わたくしは何をしていたのだろう。悪評を立てられながら、屋敷にいて、何もしていなかったのだろうか。


「オリヴィア嬢」


「はい」


「君は三年間、何を持っていた」


 わたくしは、答えられなかった。持っていたはずのものが、思い出せない。思い出せないのではなく、誰も教えてくれない。


「屋敷は叔父様の管理下です。領地も。宝飾は質に入れたと言われております」


「言われているだけだな」


「はい。質札を見た者は一人もおりません」


 わたくしは、廊下の窓を見た。


「監査官様。悪評というものは、置き場所に困るものを隠すのに便利ですわ」


「どういう意味だ」


「『あの女が持ち出した』と言えば、無くなったものの行方を誰も探しません。探す代わりに、わたくしを責めます」


 彼は、しばらく黙っていた。


「レーンハルト家の財産目録を出させる」


「叔父様は拒めますか」


「拒めば、それ自体が答えになる」


 彼は歩き出した。


「争点を変える。婚約解消は諦める」


「諦める、ですか」


「あれは入口だ。入口で勝っても何も出てこない」


 わたくしは、婚約解消書のことを思った。あの紙のことは、まだ一つも終わっていない。日付の四つの数字は、まだ意味が分からないままだ。


 諦めると言われた。けれど、わたくしはあの紙を諦めるつもりがなかった。叔父が何を欲しがっているのかを知れば、あの日付の意味も分かる気がした。


 気がする、というだけで、根拠はなかった。

【所見】署名の偽造は、後見人の代書としては手続き違反にとどまる。罰は戒告または過料。


法で勝てない相手には、法の外側から回るしかありません。明日、レーンハルト家の財産目録が出てきます。


お読みくださりありがとうございました。

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