表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記憶を失った悪女ですが、この婚約解消書の署名が偽物だということは分かります  作者: 久世まどか


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/23

第8話 運筆は、速度に出る

「なぞった字は、どこで見分けるのですか」


 翌朝、わたくしは開口一番そう聞いた。ゴットフリートは老眼鏡をずらして、拡大鏡を二つ、机に置いた。片方は柄が短く、もう片方は倍率が高い。


「わしは目が利かん。手を貸すのはあんただ、オリヴィア」


 初めて名前で呼ばれた。


「三つある」老人は指を折った。「一、止まり。二、太さ。三、始まり」


「順に伺います」


「一。人はな、字を書くとき、線の途中で止まらん。止まるのは、書き終えたときだけだ。だが、なぞる人間は途中で止まる。下の線を確かめるためだ」


「止まると、どうなりますの」


「インクが溜まる。ほんの粒だ。目では見えん。拡大鏡でなら見える」


 わたくしは手紙を拡大鏡の下に入れた。


 「あ」の三画目。線が、ゆるやかに曲がる。曲がりの外側に——


「……ございます」


 小さな黒い点。線の中に沈んだ、粒。


「二つ」


「三つ目は」


「『飽』の字の、真ん中あたりに」


 老人はうなずいた。


「よし。次だ。二、太さだ。人の線は、押した所が太く、抜いた所が細い。抜きは速さで作る。なぞる人間は、速く抜けん。下が見えなくなるからな」


 わたくしは「し」の終わりを見た。わたくしの「し」は、終わりで筆圧を落とす。落として、す、と抜ける。


 手紙の「し」は——落ちていた。落ちてはいたが、抜けの先が、ほんの少し丸い。


「丸うございます」


「そうだ。抜けとらん。止めとる」


「これは……真似ではありませんわね」


「真似なら、こうはならん。真似は形を追うから、抜けは真似られん代わりに、抜きすぎるか抜かなすぎるかのどちらかに寄る。これは寄っとらん。ぴったり同じ形で、ただ丸い。なぞった証拠だ」


 わたくしは、その違いを紙に書き留めた。真似は「似ているが違う形」になる。なぞりは「同じ形だが違う速さ」になる。


「ハイム様。試してもよろしいですか」


「やってみろ」


 わたくしは新しい紙を二枚出した。一枚目には、自分の名前をふだんどおりに書いた。二枚目は、一枚目を下に敷いて、上からなぞった。なぞり終えて、二枚を並べた。


 ——同じ形をしていた。


 拡大鏡を入れる。


 「あ」の曲がりの外側に、粒があった。「し」の抜けが丸い。一行目と最終行の速さが同じ。


 三つとも出た。自分の手で。


「出ますわ」


「出るだろう」


「わたくしがなぞっても出るということは、腕の良し悪しに関わらず出るのですね」


「そこが肝心だ。三つのうち二つは、腕で消せる。溜まりは筆を浮かせれば消せるし、抜けも練習すれば近づく。だがな」


 老人は三本目の指を折った。


「手が温まらんことだけは、消せん。温まらんのは、なぞっとる限り必ずそうなるからだ」


「では、三つ目だけを見れば」


「三つ目だけを見ろ。ただし、一行では見られん。長い文が要る」


 わたくしは、マリアンヌの手紙を見た。三行ある。


「三行では」


「足りるかどうかは、あんたが決めろ」


「では、三つ目は」


「始まりだ。これがいちばん効く」


 老人は手紙を裏返した。


「本人の字はな、一枚の中で、あとに行くほど速くなる。手が温まるからだ。だからな、一行目と最終行を比べると、必ず最終行のほうが速い」


「必ず、でございますか」


「必ずだ。四十年見て、例外は病人だけだった」


 わたくしは手紙を表に戻して、一行目と最終行を並べて見た。


 ——同じだった。


「同じですわ」


「そこだ」


 老人は指で机を叩いた。


「人間の手は温まる。なぞる手は温まらん。下の線を追う速さは、最初から最後まで同じだからだ」


 わたくしは、手紙を置いた。三つ揃った。溜まり、抜けの丸み、温まらない手。


「これで——」


 言いかけて、わたくしは口を閉じた。


「言え」


「これで確定するのは、この手紙が『なぞられた』ということだけです。誰が、何を下敷きにしてなぞったかは、確定しません」


「よろしい」老人は笑った。「あんた、父御に似とるな」


「父も、そう言いましたか」


「あの人はもっと嫌味な言い方をした。『確定していないことを言うのは、鑑定官ではなく占い師だ』とな」


「では、わたくしは占い師にならずに済みましたのね」


「今日はな」


    ◇


 ユリウスが来たのは、昼を過ぎてからだった。わたくしは三つの根拠を並べて説明した。彼は拡大鏡を覗き、二度うなずいた。


「下敷きは何だ」


「わたくしが書いた本物、でしょうね」


「三年前の、君の手紙か」


「はい。文面ごと下敷きにできる長さのものが、どこかに一枚ある。あるいは——」


 わたくしは言葉を止めた。


「あるいは」


「わたくしの字を、文字ごとに集めた見本があるか、です」


 ユリウスの手が、拡大鏡の柄で止まった。


「見本帳、ということか」


「はい」


「……そういうものが、この建物にはある」


 わたくしは顔を上げた。


「公証院の原簿だ。過去三十年、この国で証書を交わした人間の署名が、全部綴じてある。真正の照合に使う」


 喉の奥が、また冷たくなった。


「わたくしの署名も」


「あるだろうな。君は伯爵家の人間だ」


「では——」


「待て」ユリウスは手を上げた。「原簿は施錠された庫にある。鍵は二つ。持っているのは公証院長と、担当監査官だ」


「担当監査官は、どなたですか」


 彼はしばらく黙った。


「俺だ」


 部屋の外を、荷車が通った。わたくしは、彼の顔を見た。彼はわたくしを見ていた。目を逸らしはしなかった。


「オリヴィア嬢。俺は原簿を持ち出していない」


「存じません」


「そうだな。知らないだろう」


 彼は拡大鏡を置いた。


「庫を開ける。君を立ち会わせる」


「よろしいのですか」


「よくない。だが、俺が一人で開けて『何もなかった』と言ったところで、今の君は信じない。信じない人間に証拠を渡されても、証拠にはならない」


「では、いつ」


「すぐには開かない。庫の開扉には院長の副署が要る。書面を回して、早くて五日だ」


「五日」


「その五日を無駄にするな」


「何をいたしましょう」


「君の基準になる字が要る。原簿の署名と、君の今の字を比べるんだろう。比べるには、君自身の物差しが要る」


 彼は椅子を引いた。


「何枚要る」


 わたくしは考えた。父の声が、記憶ではないところから返ってきた。


 ——三千枚書け。三千枚書けば、手が覚える。


「千枚」


「千枚か」


「一晩では、それが限度ですわ」


 ユリウスは扉のところで、少し考える顔をした。


「灯り油を、多めに出させる」

【所見】溜まり、抜けの丸み、温まらない手。この三つが揃えば、その線は「なぞられて」いる。


庫の扉は五日開きません。その五日を埋めるために、オリヴィアは今夜、自分の名前を千回書きます。ひとりでは、たぶん終わりません。


お読みくださりありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ