第8話 運筆は、速度に出る
「なぞった字は、どこで見分けるのですか」
翌朝、わたくしは開口一番そう聞いた。ゴットフリートは老眼鏡をずらして、拡大鏡を二つ、机に置いた。片方は柄が短く、もう片方は倍率が高い。
「わしは目が利かん。手を貸すのはあんただ、オリヴィア」
初めて名前で呼ばれた。
「三つある」老人は指を折った。「一、止まり。二、太さ。三、始まり」
「順に伺います」
「一。人はな、字を書くとき、線の途中で止まらん。止まるのは、書き終えたときだけだ。だが、なぞる人間は途中で止まる。下の線を確かめるためだ」
「止まると、どうなりますの」
「インクが溜まる。ほんの粒だ。目では見えん。拡大鏡でなら見える」
わたくしは手紙を拡大鏡の下に入れた。
「あ」の三画目。線が、ゆるやかに曲がる。曲がりの外側に——
「……ございます」
小さな黒い点。線の中に沈んだ、粒。
「二つ」
「三つ目は」
「『飽』の字の、真ん中あたりに」
老人はうなずいた。
「よし。次だ。二、太さだ。人の線は、押した所が太く、抜いた所が細い。抜きは速さで作る。なぞる人間は、速く抜けん。下が見えなくなるからな」
わたくしは「し」の終わりを見た。わたくしの「し」は、終わりで筆圧を落とす。落として、す、と抜ける。
手紙の「し」は——落ちていた。落ちてはいたが、抜けの先が、ほんの少し丸い。
「丸うございます」
「そうだ。抜けとらん。止めとる」
「これは……真似ではありませんわね」
「真似なら、こうはならん。真似は形を追うから、抜けは真似られん代わりに、抜きすぎるか抜かなすぎるかのどちらかに寄る。これは寄っとらん。ぴったり同じ形で、ただ丸い。なぞった証拠だ」
わたくしは、その違いを紙に書き留めた。真似は「似ているが違う形」になる。なぞりは「同じ形だが違う速さ」になる。
「ハイム様。試してもよろしいですか」
「やってみろ」
わたくしは新しい紙を二枚出した。一枚目には、自分の名前をふだんどおりに書いた。二枚目は、一枚目を下に敷いて、上からなぞった。なぞり終えて、二枚を並べた。
——同じ形をしていた。
拡大鏡を入れる。
「あ」の曲がりの外側に、粒があった。「し」の抜けが丸い。一行目と最終行の速さが同じ。
三つとも出た。自分の手で。
「出ますわ」
「出るだろう」
「わたくしがなぞっても出るということは、腕の良し悪しに関わらず出るのですね」
「そこが肝心だ。三つのうち二つは、腕で消せる。溜まりは筆を浮かせれば消せるし、抜けも練習すれば近づく。だがな」
老人は三本目の指を折った。
「手が温まらんことだけは、消せん。温まらんのは、なぞっとる限り必ずそうなるからだ」
「では、三つ目だけを見れば」
「三つ目だけを見ろ。ただし、一行では見られん。長い文が要る」
わたくしは、マリアンヌの手紙を見た。三行ある。
「三行では」
「足りるかどうかは、あんたが決めろ」
「では、三つ目は」
「始まりだ。これがいちばん効く」
老人は手紙を裏返した。
「本人の字はな、一枚の中で、あとに行くほど速くなる。手が温まるからだ。だからな、一行目と最終行を比べると、必ず最終行のほうが速い」
「必ず、でございますか」
「必ずだ。四十年見て、例外は病人だけだった」
わたくしは手紙を表に戻して、一行目と最終行を並べて見た。
——同じだった。
「同じですわ」
「そこだ」
老人は指で机を叩いた。
「人間の手は温まる。なぞる手は温まらん。下の線を追う速さは、最初から最後まで同じだからだ」
わたくしは、手紙を置いた。三つ揃った。溜まり、抜けの丸み、温まらない手。
「これで——」
言いかけて、わたくしは口を閉じた。
「言え」
「これで確定するのは、この手紙が『なぞられた』ということだけです。誰が、何を下敷きにしてなぞったかは、確定しません」
「よろしい」老人は笑った。「あんた、父御に似とるな」
「父も、そう言いましたか」
「あの人はもっと嫌味な言い方をした。『確定していないことを言うのは、鑑定官ではなく占い師だ』とな」
「では、わたくしは占い師にならずに済みましたのね」
「今日はな」
◇
ユリウスが来たのは、昼を過ぎてからだった。わたくしは三つの根拠を並べて説明した。彼は拡大鏡を覗き、二度うなずいた。
「下敷きは何だ」
「わたくしが書いた本物、でしょうね」
「三年前の、君の手紙か」
「はい。文面ごと下敷きにできる長さのものが、どこかに一枚ある。あるいは——」
わたくしは言葉を止めた。
「あるいは」
「わたくしの字を、文字ごとに集めた見本があるか、です」
ユリウスの手が、拡大鏡の柄で止まった。
「見本帳、ということか」
「はい」
「……そういうものが、この建物にはある」
わたくしは顔を上げた。
「公証院の原簿だ。過去三十年、この国で証書を交わした人間の署名が、全部綴じてある。真正の照合に使う」
喉の奥が、また冷たくなった。
「わたくしの署名も」
「あるだろうな。君は伯爵家の人間だ」
「では——」
「待て」ユリウスは手を上げた。「原簿は施錠された庫にある。鍵は二つ。持っているのは公証院長と、担当監査官だ」
「担当監査官は、どなたですか」
彼はしばらく黙った。
「俺だ」
部屋の外を、荷車が通った。わたくしは、彼の顔を見た。彼はわたくしを見ていた。目を逸らしはしなかった。
「オリヴィア嬢。俺は原簿を持ち出していない」
「存じません」
「そうだな。知らないだろう」
彼は拡大鏡を置いた。
「庫を開ける。君を立ち会わせる」
「よろしいのですか」
「よくない。だが、俺が一人で開けて『何もなかった』と言ったところで、今の君は信じない。信じない人間に証拠を渡されても、証拠にはならない」
「では、いつ」
「すぐには開かない。庫の開扉には院長の副署が要る。書面を回して、早くて五日だ」
「五日」
「その五日を無駄にするな」
「何をいたしましょう」
「君の基準になる字が要る。原簿の署名と、君の今の字を比べるんだろう。比べるには、君自身の物差しが要る」
彼は椅子を引いた。
「何枚要る」
わたくしは考えた。父の声が、記憶ではないところから返ってきた。
——三千枚書け。三千枚書けば、手が覚える。
「千枚」
「千枚か」
「一晩では、それが限度ですわ」
ユリウスは扉のところで、少し考える顔をした。
「灯り油を、多めに出させる」
【所見】溜まり、抜けの丸み、温まらない手。この三つが揃えば、その線は「なぞられて」いる。
庫の扉は五日開きません。その五日を埋めるために、オリヴィアは今夜、自分の名前を千回書きます。ひとりでは、たぶん終わりません。
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