第7話 自分の字が、信じられない
第二章に入ります。ここから、紙の裏側の話になります。
その夜、わたくしは屋敷に帰らなかった。
帰る屋敷が、正確にはもうない。レーンハルト邸は叔父の管理下にあって、わたくしはそこの三階の一室を借りている客のようなものだ。食事は運ばれてくる。鍵はかからない。
公証院の鑑定室で、わたくしは机に向かっていた。紙を一枚置いて、自分の名前を書く。オリヴィア・レーンハルト。書いて、マリアンヌの手紙と並べる。
同じだった。
もう一枚書く。並べる。同じ。
もう一枚。同じ。
わたくしは、ペンを置いた。
——覚えがない。
三年のあいだにわたくしが書いたものを、わたくしは一枚も覚えていない。飽きた、と書いた覚えもない。好きになさい、と書いた覚えもない。
覚えがないというのは、書いていないということではない。もし、わたくしが本当に書いたのだとしたら。
もし、三年前のわたくしが、あの手紙のとおりの人間だったのだとしたら。わたくしは今、何のために紙を透かしているのだろう。
自分の潔白を証明しようとしているのだと思っていた。けれど、証明したい相手は世間ではなかった。
わたくしだった。
ペン先が、紙の上で震えた。震えたので、書くのをやめた。
◇
「そこで止まったな」
声がして、顔を上げた。
ゴットフリート・ハイムが、扉のところに立っていた。手に、湯気の立つ器を二つ持っている。片方をわたくしの前に置いて、自分は向かいに座った。
「よく分かりますわね」
「二十年ばかり、その椅子に座る人間を見とるからな」
老人は自分の器に息を吹きかけた。
「あんたの父御は、その椅子で一度だけ手を止めた。わしはそれを覚えとる」
「父が」
「証書を一枚、鑑定できなかった。疵がなかったんだ。今のあんたと同じだ」
わたくしは器を両手で包んだ。
「父は、どうしましたの」
「三日、何も書かんかった。四日目に、こう言った。——『疵が無いのではない。わしが疵を知らんのだ』」
老人は器を置いた。
「あんたはさっき、自分の字を三枚書いて並べた。三枚とも同じだったろう」
「はい」
「当たり前だ。あんたが書いたんだから」
「……はい」
「では聞くが。あんたの字を三千枚持っとる人間がおったら、そいつは何ができる」
わたくしは顔を上げた。
老人の目は、笑っていなかった。
「模写にはな、必ず速度が残る。真似られるのは形だけだ。あんたが侍女に使ったのは、その理屈だろう」
「はい」
「では、形だけでなく速度まで写せる方法が、この世に一つだけある。何だと思う」
わたくしは考えた。
速度は、書き手の中にある。写すには、書き手の中を写さなければならない。
——いや、違う。
「……写さなくてよい方法が、ございますか」
「ほう」
「本人が書いたものを、そのまま使う」
老人は、初めて笑った。
「そのとおりだ」
「ですが、あの手紙の文面は——」
「文面を書かせる必要はない。あんたの手で書かれた『オリヴィア・レーンハルト』が一枚あればいい。あとの本文は、誰が書いてもいい」
わたくしは息を止めた。
「そんな。文字の並びが違います。同じ紙の上に、二人分の手があれば——」
「気づくな。あんたなら気づく。だから」
老人は指を一本立てた。
「本文もあんたの字にする。手本を三千枚持っとる人間なら、できる」
「……なぞる、ということですか」
「なぞるだけでは速度が死ぬ。生きた字になるにはもう一段いる。だが、そこまで来た人間は、この国に一人か二人だ」
わたくしは、器の縁を指でなぞった。
「一人か二人」
「二十年前なら三人おった。二人は死んだ」
「残りは」
「わしは名を知らん。腕だけ知っとる」
「腕を、どこでご覧になりましたの」
老人は、しばらく答えなかった。
「証書を三枚見た。十五年前、十二年前、九年前だ。三枚とも本物として通った」
「通ったのですか」
「通した。わしが通した」
わたくしは顔を上げた。
「三枚とも、疵が無かった。無いものは無いと書くしかない。だからそう書いた」
「では、なぜ偽物だとお分かりに」
「分からん。今でも分からん。ただ、三枚とも同じ手つきだった」
老人は自分の右手を持ち上げて、指を軽く曲げた。
「同じ人間が書いた偽物は、偽物どうしで似る。本物どうしより似るんだ。本物にはその日の気分が出るが、偽物には出ん。偽物はいつでも最良の日だからな」
「いつでも最良」
「そうだ。人の手は、そんなに揃わん」
わたくしは、机の上の手紙を見た。あの手紙も、最良の日の字だった。震えも、迷いも、疲れもない。
「ハイム様。その三枚は、どこにございますか」
「知らん。わしは通しただけだ」
「では、記録には」
「記録には『真正』とだけ残る。何を見て真正としたかは残らん。それが公証院の書式だ」
老人は、器を両手で包んだ。
「四十年やって、いちばん悔いとるのはそこだ。書式が、疑いを書く欄を持っとらん」
老人は立ち上がった。
「その一人か二人が、なぜあんたを狙う。それを考えろ。字を見るのは、そのあとだ」
「ハイム様」
わたくしは呼び止めた。
「父は、なぜ亡くなったのですか」
老人の背中が止まった。
「階段から落ちた、と聞いております。夜、原簿庫の階段で」
「……そう聞いとるならそうだろうな」
「ハイム様」
「わしは何も見とらん」
老人は扉を開けた。
「ただ、あの晩、あの人は鑑定室に灯りを点けとった。落ちたのは、その一刻あとだ」
「灯りを点けていたということは」
「見とったということだ。何をとは言わん。わしは見とらんからな」
「翌朝、その灯りは」
老人は、少しのあいだ黙った。
「消えとった。誰が消したかは、記録にない」
「灯りを消す係は、おりませんの」
「夜警が回る。だが夜警は、人が倒れとるほうを先に見つけた。灯りどころではなかったろうな」
「では、誰か別の者が消したことになります」
「なるな」
わたくしは、机の上の蝋燭を見た。いま灯っている一本。三年前の晩にも、同じ場所に一本あったのだろう。
「ハイム様。父は、その晩、一人でしたか」
「知らん」
「お答えになれない、ということですか」
「答えられんのではない。知らんのだ。わしはその晩、家におった」
老人は、扉の枠に手をかけた。
「知らんことを知っとるように言う年寄りにはなりたくない。だから、そこは知らんと言う」
扉が閉まった。
わたくしは、器の中の湯を見た。まだ湯気が立っている。鑑定室に灯りを点けていた。つまり父は、あの晩、何かを見ていた。
見ていたものは、翌朝には無くなっていたのだろうか。それとも、まだどこかにあるのだろうか。
わたくしはその意味を、まだ分かっていなかった。分かっていないまま、机に残った三枚の自分の字を、一枚ずつ丁寧に重ねた。重ねながら、一つだけ決めたことがあった。
明日から、父が最後に見たものを探す。
【所見】疵が無いのではない。こちらが疵を知らないだけである。
速度まで写す方法があります。明日、その手つきを紙の上から探します。
お読みくださりありがとうございました。




