第6話 もっと大きな嘘
三日後、マリアンヌが公証院に来た。招かれてではない。自分から、書状を携えて来た。書記官が止めようとしたが、彼女は止まらなかった。
「公証院に、証書の真正を鑑定していただきたいのです」
鑑定室の扉を開けて、マリアンヌはそう言った。
わたくしは机の前に立っていた。ユリウスは窓際にいた。ゴットフリートという名の老鑑定官が、部屋の隅の椅子で新聞を読んでいた——ふりをしていた。
「どの証書を」
ユリウスが聞いた。
「証書ではございません。手紙ですわ」
マリアンヌは机の上に、封筒を置いた。
「三年前、お姉様がわたくしに宛ててくださったお手紙です。ずっと持っておりました。捨てられなくて」
彼女は封を開け、二つ折りの紙を広げた。
「読み上げてもよろしいかしら」
「マリアンヌ様」
「お姉様は、ご記憶がないのでしょう? でしたら、聞いておかれたほうがよろしいわ」
彼女は紙を持ち上げた。
「——『マリアンヌへ。あの方には飽きました。書類はもう用意させてあります。あなたの好きになさい。オリヴィア』」
部屋の中で、新聞をめくる音が止まった。
「これだけですの」マリアンヌは紙を裏返した。「短いお手紙。でも、これで全部でしょう?」
わたくしは動かなかった。
「お姉様。ご覧になって」
彼女は紙を、こちらへ滑らせた。
わたくしは、それを見た。
——「ィ」が、はねていなかった。
線の太さが、わたくしの手のとおりだった。「あ」の三画目の抜き方。「し」の終わりで筆圧を落とす癖。「オリヴィア」の「ヴ」の濁点が、ほんのわずかに右下がりに並ぶこと。
全部、わたくしの手だった。
わたくしは紙を光にかざした。インクの層を見た。一度で書かれていた。継ぎ足しがない。上に乗ったインクも、沈んだインクもない。ひと息に書かれている。
簀の目を数えた。二十一本。王都の紙だった。
どこにも、疵がなかった。
「……いかがですの、お姉様」
マリアンヌの声は、優しかった。優しくしようとしているのではなく、本当に優しい声を出せる人なのだと、そのとき初めて分かった。
「これも、偽物とおっしゃる?」
わたくしは答えられなかった。
「おっしゃってくださいな。あの侍女のときのように、証拠を出して。十を数えて、誰かに書かせて。——できませんでしょう」
「なぜ、今日お持ちになりましたの」
「あら」
「三年お持ちだったのなら、あの広間でお出しになればよかったのですわ。あそこで出せば、わたくしは一言も返せませんでした」
マリアンヌは、扇を胸に当てた。
「お姉様が勝ちそうだったからですわ。負けそうな人を踏むのは、わたくしの趣味ではありませんの」
「ご立派ですこと」
「本当ですのよ」
彼女は微笑んだ。
「マリアンヌ嬢」ユリウスが前に出た。「その手紙は預かる」
「どうぞ。写しはございますもの」
マリアンヌは扇を開いた。
「監査官様。わたくし、お姉様を憎んでおりませんのよ。憎めるほど、覚えていらっしゃらないんですもの」
彼女は扉のところで振り返った。
「お姉様。記憶がないというのは、便利ですわね。書いていないことにできますもの。——でも、紙は残るの。紙は覚えているのよ」
扉が閉まった。
◇
わたくしは、まだ手紙を見ていた。
「……偽物です」
声が、思ったより小さかった。
「根拠は」ユリウスが聞いた。責める調子ではなかった。
わたくしは口を開いた。開いて、閉じた。
「ございません」
「無いのか」
「はい」
インクの層は一度きり。紙は王都産。筆圧も、癖も、全部合っている。わたくしがこの数日で使った道具は、全部、この一枚には効かなかった。
インクの重なりは、一度で書かれた紙には効かない。紙の産地は、王都の紙には効かない。十を数える方法は、書いた本人がここにいなければ効かない。
三つとも、届かなかった。
わたくしは、それでも紙を光にかざし直した。角度を五度ずつ変えて、六回。
繊維は素直だった。押さえた跡もない。折り目は二本。封筒に合わせて折られた二本だけ。三年持ち歩いた紙にしては、折り目が新しかった。
——新しい。
わたくしは、その一点で手を止めた。
止めたが、それを口には出さなかった。折り目が新しいのは、大切に仕舞っていたからだとも言える。言えてしまう以上、証拠にならない。
わたくしは紙を置いた。置いた自分の手が、少し汗ばんでいた。
「わたくしは……」
言いかけて、わたくしは自分の手を見た。この手が書いていないと、なぜ言えるのだろう。
覚えていないのに。
三年のあいだ、この手が何を書いたか、わたくしは一枚も知らない。飽きたと書いたかもしれない。好きになさいと書いた手も、この手だったのだろうか。書いた自分を、わたくしは知らない。
部屋の隅で、新聞が畳まれる音がした。老人が立ち上がって、机のそばまで来た。近くで見ると、指の関節が節くれだって、インクの染みが古い痣のようになっていた。
「お嬢さん」
「……はい」
「その紙を、明日また持っておいで」
「今日ではなく、ですか」
「今日は駄目だ。今日のあんたは、その紙を見とらん。自分の手を見とる」
わたくしは、老人を見上げた。
「見ておりますわ」
「見とらん。見とる人間は、紙を光にかざしたあと、必ず裏を見る。あんた、裏を見んかった」
わたくしは、手紙を裏返した。
裏を見ていなかった。裏には、何も書かれていなかった。
「何もございませんわ」
「そうだろうな。わしも見た」
「では、なぜ」
「見んかったことが問題だ。あんたは今日、手順を一つ飛ばした。飛ばしたのは、答えを急いだからだ」
老人は指を一本立てた。
「鑑定官が答えを急ぐのは、答えを持っとるときだ。あんたは『偽物だ』を持ったまま紙を見た。それは鑑定と言わん」
わたくしは、返す言葉を持たなかった。
「明日、手ぶらで来い。何も持たずに見ろ」
「持たずに見て、何が見えますの」
「見えんかもしれん。見えんかったら、それが今日の答えだ」
老人は扉に手をかけた。
「わしはな、四十年やって、見えんかった紙が十一枚ある。十一枚とも今でも覚えとる」
「悔しくはございませんか」
「悔しいよ。だから覚えとる」
老人は新聞を小脇に挟んで、扉のほうへ歩いた。
「わしはゴットフリート・ハイム。あんたの父御と、三十年、同じ机で紙を見た男だ」
名を聞いても、何も浮かばなかった。
「あんたの父御もな」
彼は扉の前で言った。
「一度だけ、今と同じ顔をしたよ」
【所見】この手紙には疵がない。インクも、紙も、筆圧も、癖も、すべて本人の手と一致する。
疵のない偽物は、疵のある偽物より難しいものです。難しい、というだけで、不可能ではないのですが。
オリヴィアが自分の手を疑い始めた翌朝、父の同僚だった老人が一つだけ教えます。
お読みくださりありがとうございました。




