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記憶を失った悪女ですが、この婚約解消書の署名が偽物だということは分かります  作者: 久世まどか


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第5話 紙は、どこで漉かれたか

「それ、裂いていいですか」


 紙係の少女は、開口一番そう言った。年は十五ほど。前掛けの裾に糊の染みがいくつもついていて、袖はまくり上げたままだった。名をネルという。


「裂く、とは」


「裂かないと中が見えないんで」


「これは証拠の品ですわ」


「じゃあ端っこだけ」


 ネルは返事を待たずに、婚約解消書の下端——文字のない余白を、二センチほど、繊維に沿ってひと息に裂いた。


 わたくしは声を上げかけた。上げる前に、ネルが裂け口をこちらへ向けた。


「見てください、令嬢さま。この毛羽の立ち方」


 裂け口から、細い繊維が房になって飛び出していた。


「王都の紙は、こんなに長く出ません。叩き方が違うんです。王都の職人は、繊維を細かく潰してから漉くんで、裂くと粉みたいになる。これは繊維が長いまま。——田舎の紙です」


「田舎、と申しますと」


「北のほう。冬に川が凍るところ」


「凍ると、何が変わりますの」


「水が冷たいと、繊維が締まるんです。締まると長く残る。あったかい水で漉くと、ふやけて切れちゃうんで」


 ネルは紙を光にかざした。竹の筋——簀の目が、縦に並んで浮かぶ。


「筋の間隔、数えます?」


「お願いいたします」


「一寸に十七本。王都は二十一本。北の紙は簀の竹が太いんで、少なくなるんです」


 わたくしは筋を数えた。数え終えて、もう一度数えた。


 十七本だった。


「北のどのあたりか、絞れますか」


「絞れますよ。冬に凍る川で、紙を漉いてる領地なんて、そんなにないですから」


 ネルは指を三本立てた。


「ヴァレン、フォーゲル、ドレスデン。この三つです」


 わたくしは、三つ目の名前のところで手が止まった。


「……ドレスデン」


「はい。ドレスデン領の紙は、この十七本です。あと、糊に松脂を混ぜるんで、火に近づけると甘い匂いがします。やります?」


「やってくださいませ」


 ネルは蝋燭の炎の三寸ほど上に、裂いた端切れをかざした。しばらくして、甘い、樹脂の匂いが立った。わたくしは、その匂いを吸い込んだまま動けなかった。


「ヴァレンは?」


「ヴァレンは膠です。獣の匂いがします。焦がすと臭いですよ」


「フォーゲルは」


「あそこも松脂です。でも簀が細いんで、十九本になります」


 わたくしは、指を折った。


 簀の目十七本と、松脂の匂い。両方が揃うのは、一つだけ。


「ネル。あなた、なぜこれをご存じですの」


「うち、紙漉きなんで。親方が父です」


「では、なぜ公証院に」


「王都の紙屋に修業に出されたんですけど、二日で喧嘩して。それで拾われました」


「何を喧嘩なさいましたの」


「うちの紙のほうがいいって言ったら、殴られました」


「殴り返しましたか」


「篩で」


 わたくしは、笑わないようにした。うまくいかなかった。


「令嬢さま。もう一個いいですか」


「どうぞ」


 ネルは紙を裏返した。裏の右下を指でこすった。


「ここ。指の跡がついてます」


「跡」


「紙は湿った指で押さえると跡が残るんです。乾くと見えなくなりますけど、光を斜めから当てると出ます」


 わたくしは光を斜めにした。出た。親指ほどの、うっすらとした窪み。


「押さえた跡ですわね」


「書くとき押さえたんじゃないです。位置が違います。これ、紙の端を持って運んだ跡です」


「運んだ」


「はい。書いたあとに、乾く前に運んでます。急いでたんですよ」


 わたくしは跡を見た。跡は一つだけだった。左手の親指。右利きの人間が紙を運ぶときの持ち方だ。急いで運んだ紙。乾く前に。


 覚えておこうと思った。


    ◇


「ドレスデン領産です」


 鑑定室に来たユリウスに、わたくしはそう報告した。


「簀の目が一寸十七本。糊に松脂。北の三領のうち、ドレスデンだけがその両方を持ちます」


「他の二領は」


「ヴァレンは十七本ですが、糊が膠です。フォーゲルは松脂を使いますが、簀が細くて十九本です。両方揃うのはドレスデンだけですわ」


「二重の一致か」


「はい」


 ユリウスは紙を受け取って、指の背で縁をなぞった。


「これで確定するのは何だ」


 わたくしは、言葉を選んだ。前より慎重になっていた。


「確定するのは、この紙がドレスデン領で漉かれたということだけです。ドレスデン家の誰が書いたかは、確定しません」


「よろしい」


「よろしい、ですか」


「昨日までの君なら、そこで『叔父だ』と言った」


 わたくしは黙った。言いかけていた。


「だが」ユリウスは紙を置いた。「範囲は狭まった。ドレスデン領の紙を、王都で自由に使える人間は多くない。領主とその家族。あとは領の書記官くらいだ」


「マリアンヌ様は、お使いになれますわね」


「使える」


「叔父様も」


「使える」


 わたくしはペンを取って、紙の隅に二つの名前を書いた。書いてから、その下に線を引いた。


「監査官様。もう一つ気づいたことがございます」


「言え」


「ネルによれば、ドレスデン領の紙は王都ではほとんど流通していないそうです。安いのに、売れない。松脂の匂いが好かれないからだと」


「それで」


「それでも、わたくしは今日、同じ匂いをもう一度嗅ぎました」


 わたくしは廊下のほうを指した。


「この建物の、二階の階段の踊り場です。書類の束が積んでありました。あれも、甘い匂いがいたしましたわ」


 ユリウスの手が、止まった。


「——公証院の紙が、ドレスデン領産だと」


「一部が、ですが」


「一部とは」


「束の上から三枚だけ嗅ぎました。三枚とも同じでした。それ以上は、勝手に触れませんでしたので」


 彼はしばらく何も言わなかった。それから、扉のほうへ歩いた。


「調べる」


「わたくしも」


「君は来なくていい」


「なぜですか」


 ユリウスは振り返らずに答えた。


「あの束を扱っているのは、書記局だ。君が階段を上がった時点で、向こうに知られる」


「監査官様が上がるのは、知られませんの」


「知られる。だが、監査官が階段を上がるのは仕事だ」


 扉が閉まった。


 わたくしは、机に残った端切れを見た。二センチの、文字のない紙。ネルが顔だけ出して言った。


「令嬢さま。あたし、紙のことしか分かりませんけど」


「はい」


「紙のことなら、分かります」


「ネル。一つ、お願いしてもよろしいですか」


「はい」


「ドレスデン領の紙が、王都のどこへ卸されているか。調べられますか」


「紙屋の帳面を見れば分かります。でも見せてくれないかも」


「見せていただく口実は」


「篩を買います。買う客には見せます」


 わたくしは財布を出した。


「二枚で足りますか」


「三枚あれば、帳面を三年ぶん見せます」


 わたくしは三枚渡した。


 その一言で、わたくしはこの子を味方だと思うことにした。

【所見】簀の目十七本、糊に松脂。ドレスデン領の紙。——ただし同じ匂いが、公証院の二階にもあった。


二階の話は、もう少しあとに戻ってまいります。明日は、マリアンヌ様のほうが先に動きます。


お読みくださりありがとうございました。

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