第4話 三年分の、覚えのない悪評
翌朝、ドロテアは証言を翻した。
「わたくしの一存でございます。お嬢様の署名を練習しておりましたのは、その、憧れでございまして」
公証院の記録室で、書記官が読み上げた供述書は、そういう文章だった。
「奥様に言われて、と申したのは、気が動転しておりましたゆえ。ドレスデン家の奥様は三年前に亡くなられております。あの家に、そう呼ばれる方はおりません」
書記官が紙を置いた。
「以上でございます」
わたくしは何も言わなかった。ユリウスも言わなかった。言うことがなかったからではない。言っても紙が変わらないからだった。わたくしは供述書を手に取った。
「署名を、拝見してもよろしいですか」
「どうぞ」
ドロテアの署名は、丸く、たどたどしかった。一枚目の字だった。
「本人が書いております」
「そうだろうな」
「一晩で人が変わる、ということはございますか」
「ある。だが変わるのは言うことであって、書き癖ではない」
わたくしは供述書を返した。
◇
午後、わたくしは公証院の廊下で、二人の書記官に道を譲った。譲られたほうは、会釈もせずに通り過ぎた。角を曲がったあたりで、声が聞こえた。抑えたつもりの声だった。
「あれが例の」
「ああ。婚約者を捨てて、家の金を持ち出して、それで馬車ごと落ちたという」
「自業自得だな」
「今度は侍女に罪をなすりつけたそうだ」
わたくしは廊下に立っていた。
持ち出した。
その言葉は初耳だった。半月のあいだ、わたくしは自分について、いくつもの初耳を聞いてきた。
男を替えたらしい。使用人を鞭で打ったらしい。ヴァルトハイム家の宝飾を質に入れたらしい。父の葬儀に出なかったらしい。
覚えがない。何ひとつ。
覚えがない、というのは、否定ではない。空白だ。空白は、どんな話でも書き込める。三年のあいだ、誰かがそこに書き込み続けていて、わたくしは半月前にその紙を渡されたのだ。
わたくしは廊下の窓に手をついた。
——では、書き込んだのは誰か。
いや。順番が違う。
書き込めたのは誰か、だ。
噂は誰にでも作れる。だが三年続く噂は、続けられる人間にしか作れない。三年のあいだ、わたくしの近くにいて、わたくしについて語る資格があると思われている人間。
数えるほどしかいない。
わたくしは窓から手を離した。記録室へ戻って、書記官に頼んだ。
「三年前からの、レーンハルト家に関する記録を見せていただけますか」
「どのようなものを」
「何でも。公証院に回ってきたものであれば」
出てきたのは十九件だった。父の死亡届。相続の開始通知。後見の開始。屋敷の管理移管。領地の借地契約。使用人の解雇届が七件。
七件。
わたくしは日付を並べた。父が死んだ年に四件。翌年に二件。その次の年に一件。
解雇された七人の名を、わたくしは一人も知らなかった。知らないというより、聞いたことがなかった。三年のあいだに、父を知る使用人が七人、屋敷から消えている。
わたくしは十九件を返した。返しながら、悪評というものの作り方が少し分かった気がした。覚えている人間を減らせばいい。それだけだ。
◇
「レーンハルト嬢」
鑑定室に戻ると、ユリウスがいた。机の上に、湯気の立つ器が二つ置かれている。
「座れ」
「お気遣いいただかなくとも」
「気遣いではない。話がある」
わたくしは座った。器には、温かい蜂蜜の湯が入っていた。話をするのに、これは要らないと思った。
「ドロテアの供述だが」
「はい」
「あれは撤回ではない。書き替えだ。一晩で人の記憶は変わらない。変わったのは、書かせた側の事情だ」
「同じことを考えておりました」
「あの女には十になる娘がいる。ドレスデン領に置いてある」
わたくしは器から手を離した。
「……人質でございますか」
「そう書ける証拠はない。だが、そう読める事実はある」
わたくしは、しばらく黙った。
「わたくしは昨日、あの方に『うまく書けていました』と申し上げました」
「聞いていた」
「あれは、残酷でしたわね」
「なぜだ」
「褒めたつもりでしたので。褒められた側は、褒められた技で娘を人質に取られているのですわ」
ユリウスは器に口をつけなかった。
「君は」彼は言葉を選んでいた。選びすぎて、一度止まった。「……無理をしていないか」
わたくしは、蜂蜜の湯を押し戻した。
「監査官様。わたくしは、その質問にお答えできません」
「答えられないのか」
「はい。無理をしているかどうかは、以前のわたくしと比べなければ分かりません。比べる相手を、わたくしは持っておりませんので」
彼は何も言わなかった。
「それに」わたくしは続けた。「お気遣いをいただくと、わたくしはそれを信じたくなります。信じたくなると、確かめる手が鈍ります。今のわたくしには、鈍らせる余裕がございません」
「……そうか」
「申し訳ございません」
「いや」
ユリウスは器を二つとも下げた。下げるとき、自分のほうにも口をつけていなかったことに、わたくしは気づいた。
彼は扉の前で足を止めた。
「一つ、方針を変えたほうがいい」
「と、申しますと」
「君は昨日から、署名ばかり見ている。字を追っている限り、相手は書き手を替えるだけだ。実際に替えてきた」
わたくしはペンを置いた。
そのとおりだった。ドロテアを崩したのに、一日で紙が書き替わった。字を追うのは、いちばん替えのきくところを追うことだった。
「では、何を」
「紙を見せてください、と言え」
彼は扉を開けた。
「字は替えられる。書き手も替えられる。だが、紙は替えられない。もう漉かれてしまっているからだ」
「監査官様」
「なんだ」
「紙のことが分かる者は、この建物におりますか」
「二階に紙係がいる。名はネルという。——ただし、口が悪い」
「どのくらい」
「先週、院長に『字が読めない』と言った」
「読めなかったのですか」
「読めなかったんだろうな」
「では、明日伺います」
「一つ忠告する」
「はい」
「あれは紙のことしか喋らない。世間話をしようとすると黙る」
「好都合ですわ。わたくしも、世間話の在庫がございません」
扉が閉まってから、わたくしはしばらく座っていた。彼は「三日」と言った男だ。三日目はもう終わっている。それなのに、修道院の話は進んでいない。
わたくしは、その理由を考えなかった。考えるべきことが、机の上に一枚あったからだ。
【所見】字は替えられる。書き手も替えられる。紙は替えられない。
明日は紙係の少女が出てまいります。この物語でいちばん口の悪い人物です。
お読みくださりありがとうございました。




