第3話 真似た字は、急げません
五人が、長机に並んで座っていた。ドレスデン家の家令。侍女が二人。馬番の若い男。そして、いちばん端に、マリアンヌの侍女のドロテア。
叔父のヴィクトルは壁際の椅子に腰かけ、脚を組んでいる。マリアンヌはその後ろに立ち、扇を開いていた。ユリウスは机の短辺に立っていた。
「オリヴィア嬢。始めろ」
「はい」
わたくしは五人の前に、紙とペンを置いて回った。
「これから、皆さまに同じ一文を書いていただきます」
家令が眉をひそめた。
「筆跡を見るというなら、無駄でございますよ。誰も、お嬢様の字など真似られません」
「ええ。ですから、真似ていただかなくて結構です」
「は?」
「わたくしの字に似せようとなさらないでください。むしろ、なさらないほうがよろしいのです」
五人が顔を見合わせた。わたくしは構わず、自分の紙に見本の一文を書いた。
——オリヴィア・レーンハルト
「これを、皆さまの普段の字でお書きください。飾らず、ふだんお書きになるとおりに」
五本のペンが動いた。
五枚が集まる。わたくしは並べて、上から見た。
どれも、婚約解消書の署名とは似ていなかった。家令の字は角ばっていて、侍女の一人は丸く、もう一人は右下がり。馬番は書き慣れていない手で、線が途切れていた。ドロテアの字は、丸く、たどたどしかった。
マリアンヌの扇が、鳴った。
「ほら。おっしゃったとおりですわ、お姉様。誰の字でもありませんでしょう?」
「ええ。誰の字でもございません」
わたくしは紙を裏返して、五人の前にもう一枚ずつ置いた。
「では、二度目をお願いいたします」
「二度目?」
「同じ一文を、もう一度。ただし——」
わたくしは懐中時計を机に伏せた。かちり、と蓋が鳴る。
「十を数えるあいだに、お書きください」
部屋の空気が変わった。
「十?」家令の声が裏返る。「そんな短さで、丁寧に書けるはずが——」
「丁寧でなくて結構です。急いでください」
「意味が分かりませんな」
「意味は、あとで申し上げます。今お伝えすると、手が構えます」
わたくしは、五人の顔を順に見た。
「一つ」
わたくしは数え始めた。
「二つ」
ペンが慌てて動いた。
「三つ。四つ」
紙の擦れる音が五つ、ばらばらに鳴った。馬番の男が舌打ちをした。侍女の一人がインクを跳ねさせた。
「五つ。六つ。七つ」
端のほうで、ペンが一度止まった。
止まって、また動いた。
「八つ。九つ。——十」
わたくしは手を上げた。五枚を集めて並べ、そのうち四枚を横へ寄せた。
「監査官様。こちらを」
ユリウスが歩いてきて、残った一枚と、婚約解消書を並べた。
「ドロテアさんの二枚目です」
その紙の字は、一枚目とまったく違っていた。一枚目は、丸く、たどたどしく、女中らしい書き癖の字。二枚目は——「ィ」が、上へはねていた。
婚約解消書の署名と、同じ角度で。誰も、何も言わなかった。壁際で、椅子が軋んだ。叔父が身体を起こした音だった。
「……なぜ、二度目で出るのですか」
ドロテア本人が、かすれた声でそう聞いた。聞いてしまってから、自分が何を認めたのかに気づいた顔をした。
「人の字を真似るとき、人は形を写します」わたくしは言った。「形は写せます。ゆっくり書けば、誰にでも写せる。でも、速度は写せません」
わたくしは二枚を指で示した。
「他人の字を真似ている手は、いつも一度、頭の中で『次はこう書く』と考えます。考える時間があるあいだは、いくらでも上手に写せます。ですが、急がされると、その時間が足りなくなる」
「足りなくなると」
「練習した癖のほうが先に出ます」
わたくしは、一枚目と二枚目を重ねて置いた。
「面白いのはここですわ。一枚目の『普段の字』は、あなたが日々書いているもの。二枚目の『急いだ字』は、あなたが最近いちばん多く書いたもの。——数の多いほうが勝つのです」
「……」
「あなたが最近いちばん多く書いたのは、わたくしの『ィ』でしょう。何百回も。だから急ぐと、そこだけが本物になる」
わたくしはペンを置いた。
「真似た字は、急げません。筆跡は、嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも人のほうですわ」
ドロテアの肩が、細かく揺れていた。
「監査官殿」家令が立ち上がった。「これは手品でございましょう。十を数えれば誰でも字が崩れます。崩れた字がたまたま似ただけで——」
「たまたま似たのなら」わたくしは四枚を示した。「他の四枚も似るはずですわ。四枚とも崩れております。ですが、崩れた先が違います。崩れる方向は、その人が普段いちばん多く書いている形に寄るからです」
家令は、四枚を見た。見て、座った。ユリウスが、二枚の紙を封筒に納めた。
「ドロテア。公証院の預かりとする」
「監査官殿」ヴィクトルが立ち上がった。「侍女の一人が字を練習していたからといって、何が証明されたというのです。趣味かもしれませんぞ」
「趣味で他人の署名を練習する人間は、いない」
「証拠は」
「今、机の上にある」
叔父は口をつぐんだ。マリアンヌの扇は、いつのまにか閉じていた。連れ出されるとき、ドロテアが一度だけこちらを見た。
「お嬢様」
「はい」
「……申し訳、ございません」
わたくしは首を振った。責める言葉が、なぜか一つも出てこなかった。代わりに出たのは、こんな言葉だった。
「あなたは、うまく書けていました。一枚目のほうが、あなたの字ですわ。あちらのほうが、ずっときれいでした」
ドロテアの顔が、崩れた。
「奥様に、言われて——」
最後まで言い終わらないうちに、扉の向こうへ連れて行かれた。部屋に残ったのは、紙の匂いと、五枚の書き取りだった。
わたくしは、四枚の「関係のない字」を揃えて重ねた。重ねながら、指が震えていることに気づいた。
「オリヴィア嬢」
「はい」
「手が震えている」
「勝ちましたので」
「勝ったのに震えるのか」
「初めて勝ちましたもので」
ユリウスは封筒の紐を結んだ。結び終えてから、こちらを見た。
「一つ聞く。あの十を数えるやり方は、誰に教わった」
「父でございます」
「使ったことは」
「ございません。今日が初めてですわ」
「初めてで、あの人数の前でやったのか」
「二人でやっても、証人がおりませんもの」
彼はしばらく黙っていた。それから、封筒を小脇に抱えた。
「馬番の男が舌打ちをした。侍女がインクを跳ねさせた。家令は途中で書き直そうとした」
「よくご覧になっていましたのね」
「あの部屋で、紙を見ていなかったのは俺だけだ」
わたくしは五枚目を封筒に納めた。一枚めくったところに、次の紙があることも、もう分かっていた。
【所見】署名を書いた手は判明。ただし、その手に命じた口は、まだ判明していない。
「奥様に言われて」——ドロテアは、そこまで言いました。ドレスデン家に奥様と呼ばれる人は、一人しかいないはずなのですが。
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