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記憶を失った悪女ですが、この婚約解消書の署名が偽物だということは分かります  作者: 久世まどか


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2/22

第2話 速い字と、遅い字

 公証院の東棟は、紙の匂いがした。


 古い紙と、新しいインクと、糊。三つが混ざると、こういう匂いになる。わたくしはそれを知っていた。知っていた、という事実のほうに、少し驚いた。


「こちらへ」


 通されたのは、窓が北向きの部屋だった。北向きなのは意味がある。日が回らないから、光の色が一日じゅう変わらない。紙を見る部屋は、そうでなくてはならない。


 これも、教わった覚えのない知識だった。長い机の上に、封筒。紐が解かれて、婚約解消書が一枚。ユリウス・ヴァルトハイムは向かいに座って、腕を組んでいた。


「先に言っておく。俺は君の言い分を信じていない」


「存じております」


「そのうえで場所を貸している。理由は一つだ。あの紙が偽物なら、公証院が偽物を通したことになる。俺の仕事の話だ」


「よく分かりますわ」


 わたくしは手袋を外した。素手でなければ、紙の厚みは分からない。


「一つ、お願いがございます」


「言え」


「窓を、開けないでくださいまし。風が入ると、繊維が動きます」


 彼は何も言わずに、窓の掛け金を確かめた。


「では、始めさせていただきます」


 まず、紙を光にかざした。


 窓の白い光が繊維を透かす。文字の下に、うっすらと影がある。


「監査官様。ここを、ご覧いただけますか」


 ユリウスが立ち上がって、机を回り込んできた。思ったより近くに来たので、わたくしは紙を持つ手を少しだけ横にずらした。


「本文の『解消』の『消』——この一画と、署名の『ィ』が交わっているところです」


「交わっていない。離れている」


「二ミリほど。ですが、離れていても分かります。交点でなくとも、インクは紙の上で先に来たほうが下になりますから」


「下になる、とは」


「沈む、ということですわ」


 わたくしは紙をもう少し傾けた。


「紙は繊維の重なりです。インクを落とすと、上から下へ染みていきます。最初に落ちたインクは、繊維の隙間を埋めながら沈む。あとから落ちたインクは、埋まったところへは入れませんので、表に残ります」


「それが目で見えるのか」


「艶が違いますわ。ここと、ここ」


 わたくしは光の角度を三度変えた。三度目で、彼が小さく息を吐いた。


「……違うな」


「本文のインクは繊維に沈んでおります。署名のインクは、まだ表に乗っている。同じ日に、同じペンで、続けて書いたのではありません。本文が先に乾いて、あとから署名が足されたのです」


 ユリウスは黙って紙を見ていた。それから、指の背で紙の縁をなぞった。厚みを確かめる癖なのだと、あとになって知る。


「何日空いた」


「十日以上」


「なぜ言い切れる」


「乾き方が二段階だからですわ。三日や四日では、こうは分かれません。インクが完全に落ち着くのに十日ほどかかります」


「——なるほど」


 彼は椅子に戻った。戻って、それから言った。


「だが、それは君の主張の証明にはならない」


 わたくしは顔を上げた。


「書類を先に作らせて、後日あらためて署名する。よくある手続きだ。むしろ丁寧なほうだ。『本文とは別の日に署名した』は、『君が署名していない』にはならない」


「……そうですわね」


 言われてみればそのとおりだった。わたくしは今、証明したのではなく、事実を一つ確定させただけだ。確定したのは順番であって、書いた人ではない。


 わたくしは、少しのあいだ黙った。


「監査官様。落胆いたしましたか」


「なぜ聞く」


「わたくしが落胆いたしましたので。他人も同じだろうと思っただけですわ」


「他人が同じだと思うのは、鑑定官の癖としては悪い」


「肝に銘じます」


 わたくしはペンを置いて、姿勢を直した。


「では、確定したものを申し上げます」


「聞こう」


「一、本文と署名は別の日に書かれた。二、書いた道具も違います。本文はペン先が新しい。署名は少し潰れております」


「なぜ潰れていると分かる」


「線の縁が毛羽立っておりますわ。新しいペン先は縁が切れます」


「三は」


「三は、まだありません」


 ユリウスは、そこで初めてわずかに椅子の背から離れた。


「無いなら無いと言うのか」


「無いものを有ると申し上げたら、わたくしは偽造をする側になりますわ」


 部屋の外を、荷車が通った。紙束を積んだ車の音。積み荷が重いと、車輪の軋みが低くなる。


「オリヴィア嬢」


「はい」


「日付を見たか」


 わたくしは、手を止めた。


 見た。昨日、あの広間で見た。見て、口に出さなかった。


「……見ました」


「どう思った」


「はねていません」


「つまり」


「わたくしの字に見えます」


 言葉にすると、思ったより重かった。


「署名は偽物で、日付は本物。そう主張するのか」


「主張はいたしません。まだ何も分からないからです。分かっているのは、そう見えるということだけですわ」


「見えるだけで、書いていないと言い張ることもできる」


「できますわ。ですが、それをすると、はねた『ィ』のほうも同じ強さでしか言えなくなります」


 わたくしは、二か所を指した。


「片方を都合よく採って、片方を都合よく捨てる鑑定は、鑑定ではございません。父にそう言われた気がいたします」


「気がする、か」


「はい。言われた場面は思い出せません。言葉だけが残っております」


 ユリウスは長いあいだ何も言わなかった。それから、机の上の紙をこちらへ押した。


「三日と言ったが、一日目が終わった」


「二日残っております」


「そうだな」


 彼が立ち上がる。扉のところで一度止まって、こちらを見ずに言った。


「明日の午後、この部屋を空ける」


「と、申しますと」


「あの日ドレスデン邸にいた者を、全員ここへ呼ぶ。後見人殿にも立ち会っていただく。——署名を書いた人間がいるなら、その中にいる」


 わたくしは息を止めた。


「わたくしに、その場で名指しをしろと」


「できるのか」


「……やり方が、一つだけございます」


「明日聞く」


「監査官様。一つだけ、ご用意いただきたいものがございます」


「言え」


「紙とペンを、人数分。それと、時を計るものを」


 彼はわずかに振り返った。


「時計で何をする」


「明日、申し上げます」


 彼は出ていった。


 わたくしは机の抽斗を開けた。紙が二十枚ほど入っていた。数えた。十九枚だった。五人ぶんを二度。十枚あればいい。十九枚あれば足りる。


 ペンは六本あった。インクは足りていた。時計はわたくしの懐にあった。道具は揃った。あとは十を数えるだけだ。


 わたくしは抽斗を閉めた。閉めてから一人になって、もう一度日付を見た。


 三年前の春。数字が四つ。


 わたくしは、この四つを何のつもりで書いたのだろう。答えは、紙のどこにも書かれていなかった。

【所見】本文と署名は別の日、別のペン。ただし、それは「書いていない」の証明ではない。


明日の午後、あの日の屋敷にいた全員が同じ部屋に集まります。オリヴィアのやり方は一つだけ。全員に、同じ一文を書かせることです。


お読みくださりありがとうございました。

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