第2話 速い字と、遅い字
公証院の東棟は、紙の匂いがした。
古い紙と、新しいインクと、糊。三つが混ざると、こういう匂いになる。わたくしはそれを知っていた。知っていた、という事実のほうに、少し驚いた。
「こちらへ」
通されたのは、窓が北向きの部屋だった。北向きなのは意味がある。日が回らないから、光の色が一日じゅう変わらない。紙を見る部屋は、そうでなくてはならない。
これも、教わった覚えのない知識だった。長い机の上に、封筒。紐が解かれて、婚約解消書が一枚。ユリウス・ヴァルトハイムは向かいに座って、腕を組んでいた。
「先に言っておく。俺は君の言い分を信じていない」
「存じております」
「そのうえで場所を貸している。理由は一つだ。あの紙が偽物なら、公証院が偽物を通したことになる。俺の仕事の話だ」
「よく分かりますわ」
わたくしは手袋を外した。素手でなければ、紙の厚みは分からない。
「一つ、お願いがございます」
「言え」
「窓を、開けないでくださいまし。風が入ると、繊維が動きます」
彼は何も言わずに、窓の掛け金を確かめた。
「では、始めさせていただきます」
まず、紙を光にかざした。
窓の白い光が繊維を透かす。文字の下に、うっすらと影がある。
「監査官様。ここを、ご覧いただけますか」
ユリウスが立ち上がって、机を回り込んできた。思ったより近くに来たので、わたくしは紙を持つ手を少しだけ横にずらした。
「本文の『解消』の『消』——この一画と、署名の『ィ』が交わっているところです」
「交わっていない。離れている」
「二ミリほど。ですが、離れていても分かります。交点でなくとも、インクは紙の上で先に来たほうが下になりますから」
「下になる、とは」
「沈む、ということですわ」
わたくしは紙をもう少し傾けた。
「紙は繊維の重なりです。インクを落とすと、上から下へ染みていきます。最初に落ちたインクは、繊維の隙間を埋めながら沈む。あとから落ちたインクは、埋まったところへは入れませんので、表に残ります」
「それが目で見えるのか」
「艶が違いますわ。ここと、ここ」
わたくしは光の角度を三度変えた。三度目で、彼が小さく息を吐いた。
「……違うな」
「本文のインクは繊維に沈んでおります。署名のインクは、まだ表に乗っている。同じ日に、同じペンで、続けて書いたのではありません。本文が先に乾いて、あとから署名が足されたのです」
ユリウスは黙って紙を見ていた。それから、指の背で紙の縁をなぞった。厚みを確かめる癖なのだと、あとになって知る。
「何日空いた」
「十日以上」
「なぜ言い切れる」
「乾き方が二段階だからですわ。三日や四日では、こうは分かれません。インクが完全に落ち着くのに十日ほどかかります」
「——なるほど」
彼は椅子に戻った。戻って、それから言った。
「だが、それは君の主張の証明にはならない」
わたくしは顔を上げた。
「書類を先に作らせて、後日あらためて署名する。よくある手続きだ。むしろ丁寧なほうだ。『本文とは別の日に署名した』は、『君が署名していない』にはならない」
「……そうですわね」
言われてみればそのとおりだった。わたくしは今、証明したのではなく、事実を一つ確定させただけだ。確定したのは順番であって、書いた人ではない。
わたくしは、少しのあいだ黙った。
「監査官様。落胆いたしましたか」
「なぜ聞く」
「わたくしが落胆いたしましたので。他人も同じだろうと思っただけですわ」
「他人が同じだと思うのは、鑑定官の癖としては悪い」
「肝に銘じます」
わたくしはペンを置いて、姿勢を直した。
「では、確定したものを申し上げます」
「聞こう」
「一、本文と署名は別の日に書かれた。二、書いた道具も違います。本文はペン先が新しい。署名は少し潰れております」
「なぜ潰れていると分かる」
「線の縁が毛羽立っておりますわ。新しいペン先は縁が切れます」
「三は」
「三は、まだありません」
ユリウスは、そこで初めてわずかに椅子の背から離れた。
「無いなら無いと言うのか」
「無いものを有ると申し上げたら、わたくしは偽造をする側になりますわ」
部屋の外を、荷車が通った。紙束を積んだ車の音。積み荷が重いと、車輪の軋みが低くなる。
「オリヴィア嬢」
「はい」
「日付を見たか」
わたくしは、手を止めた。
見た。昨日、あの広間で見た。見て、口に出さなかった。
「……見ました」
「どう思った」
「はねていません」
「つまり」
「わたくしの字に見えます」
言葉にすると、思ったより重かった。
「署名は偽物で、日付は本物。そう主張するのか」
「主張はいたしません。まだ何も分からないからです。分かっているのは、そう見えるということだけですわ」
「見えるだけで、書いていないと言い張ることもできる」
「できますわ。ですが、それをすると、はねた『ィ』のほうも同じ強さでしか言えなくなります」
わたくしは、二か所を指した。
「片方を都合よく採って、片方を都合よく捨てる鑑定は、鑑定ではございません。父にそう言われた気がいたします」
「気がする、か」
「はい。言われた場面は思い出せません。言葉だけが残っております」
ユリウスは長いあいだ何も言わなかった。それから、机の上の紙をこちらへ押した。
「三日と言ったが、一日目が終わった」
「二日残っております」
「そうだな」
彼が立ち上がる。扉のところで一度止まって、こちらを見ずに言った。
「明日の午後、この部屋を空ける」
「と、申しますと」
「あの日ドレスデン邸にいた者を、全員ここへ呼ぶ。後見人殿にも立ち会っていただく。——署名を書いた人間がいるなら、その中にいる」
わたくしは息を止めた。
「わたくしに、その場で名指しをしろと」
「できるのか」
「……やり方が、一つだけございます」
「明日聞く」
「監査官様。一つだけ、ご用意いただきたいものがございます」
「言え」
「紙とペンを、人数分。それと、時を計るものを」
彼はわずかに振り返った。
「時計で何をする」
「明日、申し上げます」
彼は出ていった。
わたくしは机の抽斗を開けた。紙が二十枚ほど入っていた。数えた。十九枚だった。五人ぶんを二度。十枚あればいい。十九枚あれば足りる。
ペンは六本あった。インクは足りていた。時計はわたくしの懐にあった。道具は揃った。あとは十を数えるだけだ。
わたくしは抽斗を閉めた。閉めてから一人になって、もう一度日付を見た。
三年前の春。数字が四つ。
わたくしは、この四つを何のつもりで書いたのだろう。答えは、紙のどこにも書かれていなかった。
【所見】本文と署名は別の日、別のペン。ただし、それは「書いていない」の証明ではない。
明日の午後、あの日の屋敷にいた全員が同じ部屋に集まります。オリヴィアのやり方は一つだけ。全員に、同じ一文を書かせることです。
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