第1話 この署名、わたくしのものではありませんわ
この物語の主人公は、泣きません。紙を見ます。
「オリヴィア・レーンハルト。あなたは自らの意思でこの婚約を解消し、ヴァルトハイム家を去った。相違ないな」
広間じゅうの目が、わたくしに集まっていた。わたくしは、その目を一つも見ていなかった。机の上に置かれた一枚の紙。その右下に、わたくしの名前がある。
オリヴィア・レーンハルト。
——「ィ」のはねが、上を向いている。
わたくしの「ィ」は、はねない。十四のときに三千枚書かされて、手がそう覚えた。
わたくしは三年分の記憶を失っている。目を覚ましたのは半月前で、それより前の三年間に自分が何をしたのか、誰を傷つけたのか、何ひとつ覚えていない。だから皆がわたくしを悪女と呼ぶことに、言い返せる材料を持っていない。
持っていないはずだった。
「——恐れ入りますが」
わたくしは紙を持ち上げ、窓のほうへ傾けた。
「この署名、わたくしのものではありませんわ」
誰かが笑った。一人ではなかった。
「まあ。お姉様、記憶がないのでしょう?」
声の主は、従妹のマリアンヌ・ドレスデンだった。薄紅の扇の陰で、口の端だけが動いている。
「ご自分が何を書いたかも覚えていらっしゃらないのに、書いていないことだけは分かるの?」
「はい」
わたくしが即答したので、マリアンヌの扇が止まった。
「覚えていないのですから、書いたかどうかは分かりません。ですが、この字がわたくしの手から出たものでないことは分かります。別のことですわ」
「同じことでしょう」
「いいえ」
わたくしは紙を机に戻し、指の腹で「ィ」の一点を示した。
「先ほど申し上げたとおりですわ。父が、証書を書く手に余計な動きを許しませんでしたので」
「覚えていらっしゃらないのに?」
「覚えたものは、忘れられません。記憶とは別のところに入っておりますので」
わたくしは右手を持ち上げて、指を軽く曲げた。
「たとえばマリアンヌ様。階段の降り方を、いちいち思い出しながら降りていらっしゃいますか」
「……いいえ」
「同じことですわ。手が覚えたものは、頭が忘れても残ります」
広間の空気が、わずかに引いた。
「では、ご自分で書いてご覧に入れましょうか。今この場で、紙とペンをいただければ」
誰も答えなかった。答える権限のある人間は、この場に一人しかいなかった。上座に立っていた男が、そこで初めて口を開いた。
「……なぜ、そう思う」
低い声だった。庇うでもなく、責めるでもなく、ただ理由だけを聞く声。
ユリウス・ヴァルトハイム。王宮公証院の監査官で、この婚約解消書に署名したもう一人の当事者で、わたくしが三年間、婚約者と呼んでいたはずの人だった。
わたくしはその顔を、半月前に初めて見た気がしている。向こうはそうではないのだろう。
「はねているからですわ」
「それだけか」
「それだけです」
言ってから、少し考えて、付け足した。
「今のところは」
ユリウスの眉が、ほんのわずかに動いた。動いたことに気づいたのは、たぶんわたくしだけだった。
「——で、根拠は」
「これから探します」
「探す前に言ったのか」
「はい」
「順番が逆だ」
「逆でございます。ですが、言わなければ紙を取り上げられますでしょう」
彼は答えなかった。答えなかったことが、答えのように聞こえた。
マリアンヌが小さく声を上げて笑い、隣にいた叔父——ヴィクトル・ドレスデンが、それを手で制した。叔父は困ったような顔を作っていた。作っている、とわたくしには見えた。困っている人間は、眉と口の両方が動く。叔父は眉だけだった。
「監査官殿。姪は事故のあと、少々……その、こういう具合でしてな」
叔父は一歩前へ出た。
「頭を打ってから、思い込みが強くなりましてな。医師も申しております。静かなところで養生させるのが本人のためだと。修道院の手配は、後見人としてもう進めております」
「後見人として」
ユリウスがその六文字だけを繰り返した。叔父の笑みが、一度、形を崩して戻った。
「ええ。後見人として」
わたくしは、机の紙をもう一度見た。署名は偽物だ。それはいい。問題は、その左隣にある日付だった。三年前の、春の日付。数字が四つ並んでいる。
——この字は、はねていない。
わたくしの手だ。
喉の奥が、冷たくなった。署名は他人が書き、日付だけをわたくしが書いた紙。そんなものが、この世に存在する理由が分からない。
わたくしは、その四つの数字から目を離せなかった。離せないでいるあいだに、周りの声が遠くなった。
半月前、目を覚ましたとき、最初に見たのは天井だった。次に医師の顔。その次に叔父の顔。誰も、わたくしが誰なのかを教えてはくれなかった。教えてくれたのは、わたくしが何をした女なのかということだけだった。
それを十四日聞かされて、わたくしは一度も反論しなかった。反論する材料がなかったからだ。
材料は今日、初めて出た。四つの数字と、はねた「ィ」。二つとも、目の前の一枚の上にある。
「——オリヴィア嬢」
ユリウスの声で、顔を上げた。
「明朝、公証院へ来い。鑑定室は東の棟だ」
「監査官殿!」叔父が声を張った。「この娘は、もう当家の——」
「後見人殿。あなたが姪御の署名を代行できるかどうかは、法の問題だ。だがこの紙が本物かどうかは、法の問題ではない」
ユリウスは婚約解消書を封筒に戻し、紐をかけた。指の背で紙の縁を一度なぞってから、封をした。
「事実の問題だ。事実は、こちらで扱う」
「しかし——」
「公証院が真正を保証した書面です。偽物だという申し立てがあった以上、確かめないという選択肢が我々にはない。ご不満なら書記局へどうぞ」
叔父は口をつぐんだ。
そうしてユリウスは、わたくしのほうを見もせずに言った。
「三日だけやる。それで何も出なければ、修道院の話は進める」
三日。
「よろしいのですか。三日で」
「三日で足りないなら、三十日でも足りない」
わたくしは頭を下げた。下げながら、封筒の中の紙のことを考えていた。広間を出るとき、マリアンヌが扇を閉じて、わたくしの横に並んだ。
「お姉様。悪あがきはおよしになって」
「悪あがきですの」
「だって、勝ったところで何が戻りますの? 三年ぶんの記憶? 監査官様? ——どちらも戻りませんわよ」
わたくしは足を止めなかった。
「戻さなくてよろしいのですわ」
「あら」
「わたくしが確かめたいのは、戻るかどうかではありません。あったかどうかですわ」
馬車まで歩くあいだ、わたくしはずっと、あの日付のことを考えていた。あの四つの数字を、わたくしは何のつもりで書いたのだろう。
書いた覚えは、当然ない。
けれど手は覚えている。手は、嘘の書き方を知らない。
【所見】署名は他人の手。日付だけが本人の手。同じ紙の上に、二人分の手がある。
明朝、公証院の東棟。三日の猶予の一日目は、インクが乾いた順番を読むことに使われます。
お読みくださりありがとうございました。




