第21話 三十年分の見本帳
「七十七輯以降、庫にあるものは信じるな」
ユリウスは、父の一行を三度読んだ。
「どういう意味だ」
「二つ考えられますわ」
わたくしは指を立てた。
「一つ。庫の七十四冊は、すでに書き替えられている。二つ。庫の七十四冊は、そもそも本物ではない」
「違いは」
「一部か、全部かですわ」
「どちらだと思う」
「一部でしょう。全部を偽物にするなら、七十四冊ぶんの署名を作らなければなりません。何万人ぶんですわ」
「では、どこが一部だ」
「それを数えに参ります」
◇
庫の扉を、もう一度開けた。院長は今度も鍵を回してすぐ帰った。わたくしは第七十七輯を棚から抜いた。机に置いて、表紙を開いた。署名が並んでいる。三十年前の日付。
わたくしは拡大鏡を取った。一頁目の十六の署名を、一つずつ見た。
二頁目。三頁目。
十頁目で、手が止まった。
「監査官様」
「何だ」
「この輯、綴じ直しております」
わたくしは背の綴じ糸を示した。
「原簿の綴じは麻糸です。この輯は、途中から絹糸に変わっております。十一頁目からですわ」
「途中で糸が尽きたのでは」
「原簿の綴じは公証院の製本方が行います。方には規格がございましょう」
ユリウスが規格書を出した。麻糸。例外の記載なし。
「では、誰かが後から綴じ直した」
「はい」
わたくしは十一頁目以降を見た。紙を裂くわけにはいかないので、端を光にかざした。
簀の目——十七本。
「ドレスデン領の紙ですわ」
「原簿の紙が」
「三十年前の原簿に、三年前から流通した紙が綴じてございます」
わたくしは、頁を閉じた。
「入れ替えられております。十一頁目以降が」
◇
わたくしたちは、七十四冊を全部調べた。三日かかった。ネルが糸を見て、わたくしが紙を見た。ネルは糸を見るのが速かった。背を横から見るだけで、麻と絹を言い当てた。
「絹は光ります。麻は光りません。それだけです」
「それだけで分かりますの」
「それだけしか違いませんから」
三日目の夜に、数が出た。
七十四冊のうち、二十九冊に絹糸の綴じがあった。入れ替えられた頁は、合わせて四百十二枚。
「四百十二枚に、何人分の署名がございますか」
「一頁十六で、六千五百九十二だ」
「六千五百九十二人の署名が、この三年で書き替えられたということですわ」
ユリウスは、机に手をついていた。
「オリヴィア嬢。それは——」
「はい」
「この国の証書の真正が、六千五百九十二人ぶん、動かせるということだ」
わたくしは、絹糸の一本を指で撫でた。
「動かせる、ではございません。もう動いております」
「何」
「入れ替えたのは、これから偽造するためではありません。すでに偽造したものを、正しく見せるためですわ」
わたくしは、七十七輯を開いた。
「証書の真正は、原簿と照らして決まります。偽の証書を作ったとき、原簿と合わなければ露見いたします。ですから——」
「原簿のほうを、偽の証書に合わせる」
「はい。順番が逆なのですわ。先に偽の証書があって、あとから原簿を書き替えている」
「なぜ、そう言い切れる」
「これから偽造するのなら、原簿は本物のままでよいからですわ。本物に合わせて偽物を作ればよろしいのです。原簿を触る必要がございません」
部屋の中で、蝋燭の芯が鳴った。
「触ったということは、合わせなければならない紙が、もう外に出ている」
「はい」
「すでに世に出た偽の証書が、六千五百九十二枚ある、ということか」
「六千五百九十二枚とは限りません。同じ人物の署名を何度も使えますもの。ですが、少なくとも数百枚は」
わたくしは、拡大鏡を置いた。
「父が持ち出した七冊のことが、分かりましたわ」
「言え」
「あの七冊は、隠したのではありません。守ったのですわ」
わたくしは、父の一行を思い出した。
「七十輯から七十六輯。あの範囲に、書き替えられたら困るものがあった。だから父は、庫から出したのです。庫の中にいる限り、いつでも書き替えられますもの」
「その七冊に、何がある」
「まだ分かりません。ですが、探せばよろしいのですわ。今日、範囲が決まりましたもの」
わたくしは、絹糸の輯を積み上げた。
「二十九冊が偽物。七冊が父の手元。残る四十五冊が本物です。本物と偽物を比べれば、偽物が何を隠したいのかが見えます」
ユリウスは、しばらく黙っていた。
「オリヴィア嬢」
「はい」
「これを表に出せば、この国の証書行政が止まる」
わたくしは、顔を上げた。
「止まりますわね」
「相続、婚姻、領地の境界、条約。全部が疑わしくなる。書記局は、それを止めるためなら何でもする」
「何でも、とは」
「君を、書記局に迎えるくらいのことはする」
わたくしは、絹糸を見た。
「監査官様。お誘いは、そういう意味でしたのね」
「そうだ」
「では、わたくしは断れませんわね」
「断れる」
「断れば」
「殺される」
彼は、それを平らな声で言った。わたくしは、その平らさを、初めて怖いと思った。
「監査官様は、怖くございませんの」
「怖い」
「そうは見えません」
「見せないようにしている。見せると、君が確かめる手を止める」
わたくしは、絹糸から指を離した。
「では、わたくしも見せないことにいたします」
◇
その夜、わたくしは二十九冊の一覧を作った。輯の番号。入れ替えられた頁の数。頁に載っている年。書き終えて、年を並べ替えた。
十二年前が四枚。十一年前が七枚。十年前が九枚。そこから増えていく。九年前が三十一枚。八年前が四十枚。
わたくしはペンを止めた。
「ネル。九年前に何かありましたか」
「あたし、六つです」
「そうですわね」
わたくしは数字を見た。
十年前まで一桁台。九年前から三十枚を超える。境目がある。境目には理由がある。わたくしは一覧の下に、一行だけ書いた。
——九年前に、何かが始まっている。
書いてから、それを封筒に入れた。まだ誰にも見せないことにした。見せる相手を、まだ選べていない。封筒を仕舞ってから、もう一度数字を見た。
九年前。三十一枚。
三十一という数に、覚えがあった。マリアンヌの練習帳が三十一頁だった。偶然だろう。偶然でしかない。
それでも、わたくしは二つの三十一を並べて書いた。並べて、線で消した。消したのは、意味がないからではない。意味を作りたくなったからだ。
数を見ていると、人は意味を作る。作った意味は、たいてい間違っている。父にそう言われた気がした。今度も、場面は思い出せなかった。
【所見】七十四冊のうち二十九冊が綴じ直し。入れ替え四百十二枚、署名にして六千五百九十二。
原簿を書き替えるのは、これから偽造するためではありません。すでに出した偽物を、正しく見せるためです。
お読みくださりありがとうございました。ここまで来てくださった方は、ブックマークで綴じ糸代をいただけますと助かります。麻でお願いいたします。




