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記憶を失った悪女ですが、この婚約解消書の署名が偽物だということは分かります  作者: 久世まどか


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22/22

第22話 叔父の帳簿

 ドレスデン家の帳簿は、公証院の請求で押収された。三年分。紙の仕入れ、領の収支、王都の屋敷の支出。わたくしは、その中の一冊——「王都往復 控」を開いた。


 叔父が王都へ来た日と、誰に会ったかが書いてある。細かい男だった。細かいことが、こういうときに効く。


 三年前の三月から追った。


 三月十二日 書記局 ロシュフォール卿三月二十日 書記局 ロシュフォール卿三月二十六日 書記局 ロシュフォール卿三月二十九日——父が死んだ日は、空白。


 四月三日 書記局 ロシュフォール卿四月十一日 ヴァルトハイム邸 使いのみ


「監査官様。四月十一日でございます」


「脅迫状の届いた日だ」


「使いのみ、とございます。叔父様は行っておられません」


「使いを出したのは、ドレスデン卿だ」


「はい。ですが、書かせたのが叔父様とは限りませんわ。筆跡が違いますもの」


 わたくしは頁を戻した。


 三月に三度、書記局。父が死ぬ前の十七日間に、三度。


「監査官様。会いすぎですわ」


「領主が長官に会うのに、月三度は多いか」


「紙を納めるだけなら多うございます。しかも、納入が始まったのは五月からですもの。三月の段階では、まだ商いになっておりません」


「では、何の話をしていた」


「書いてございません。ただ、四度目の記録がございます」


 わたくしは前の年の頁をめくった。前年の記録には、書記局の名が一度も出てこなかった。


「三月十二日が、初めての訪問ですわ」


「初めて会ったのが三月十二日で、その十七日後に父上が死んでいる」


「はい」


    ◇


 二日かけて、三年分を読み切った。最後の一冊の、いちばん新しい頁に、それはあった。


 ——七月十九日 覚   金貨八百枚  受領予定    条件成就ののち


 わたくしは、その行を三度読んだ。


「監査官様」


「見せろ」


「金貨八百枚ですわ」


 彼は行を読んだ。


「相手の名がない」


「はい。『覚』とだけ」


「条件成就とは」


「書いてございません」


 わたくしは、その頁を光にかざした。王都の紙。二十一本。帳簿の他の頁と同じ。インクは——


「監査官様。この行だけ、あとから書き足されております」


「なぜ分かる」


「前後の行より、インクが表に乗っております。乾き方が新しいのですわ」


「いつごろだ」


「ひと月以内」


 わたくしは、頁の日付を見た。七月十九日。今日から数えて、四十日ほど前。


「日付は七月十九日ですが、書かれたのはひと月以内。合いませんわ」


「後から日付を遡って書いた」


「はい」


「なぜ、そんなことをする」


「忘れないためでしょう」


 わたくしは、帳簿を閉じた。


「叔父様は、細かい方です。約束は必ず書き留める。ですが、この約束は表に書けません。ですから、あとから、目立たない日付のところへ差し込んだのですわ」


「自分のための覚書か」


「はい。誰かに見せるためではありません」


 わたくしは、帳簿を撫でた。


「叔父様は、金貨八百枚を受け取る約束をしております。まだ受け取っておりません。『受領予定』ですもの」


「条件成就ののち」


「条件が何かは、分かりません。ですが」


 わたくしは、七冊のことを思った。


「叔父様が売れるもので、金貨八百枚の値がつくものは、一つしかございませんわ」


「原簿だな」


「はい。しかも、叔父様はまだ渡しておりません」


「渡していないのは、持っていないからだ」


 わたくしは、頷いた。


「叔父様は、あると言って売りました。実際には在処をご存じない。三年、探しておられるのですわ」


「三年探して見つからないものを、売ったのか」


「売ったのではなく、売ると約束したのですわ。約束したときは、すぐ見つかると思っておられたのでしょう」


「三年前に、か」


「はい。父が亡くなった直後なら、屋敷は自分の管理下に入ります。中を全部ひっくり返せば出ると踏んだのですわ」


「出なかった」


「出ませんでした」


「なぜだと思う」


 わたくしは、少し考えた。


「探し方が違ったのですわ」


「どう違う」


「叔父様は、隠し場所を探しました。床下。壁。金庫。天井裏」


「実際には」


「棚に並んでおりました」


 わたくしは指を組んだ。


「隠されたものを探す人は、隠されていないものを見ません。見ても、そこにあると思わないのです」


「三年、目の前にあったわけだ」


「はい。毎日、書斎に入るたびに」


 彼は少しのあいだ黙った。


「君の父上は、意地が悪い」


「そうですわね」


 わたくしは、初めて父を身近に感じた。


    ◇


 もう一つ、気になる頁があった。三年前の五月。紙の納入が始まった月だ。その頁に、一行だけ他と違う書き方があった。


 ——五月八日 書記局 (先方より)


 括弧書きだった。他の頁の書記局の記述には、括弧がない。


「監査官様。この日だけ、先方から来ております」


「長官が、ドレスデン邸に出向いたということか」


「そう読めますわ」


「一度だけか」


 わたくしは三年分を数えた。


「一度だけです」


「五月八日に何があった」


「分かりません。ですが、その二日後から紙の納入が始まっております」


 わたくしは、その日付を書き留めた。一度だけ足を運ぶ人は、運ぶだけの用がある。


    ◇


 その夜、わたくしは押収品の中から、もう一つ気になるものを引き出した。


 「後見事務 控」という薄い冊子だった。


 わたくしが記憶を失ってからの半月、叔父が後見人として行った代行行為の記録。修道院への照会。屋敷の管理。財産の保全。そして、最後の頁に、一覧があった。


 ——被後見人の同意を証する書類(三年前より継続保管)


 項目が七つ並んでいた。


 婚約解消書。財産管理委任状。屋敷居住に関する承諾書。医師の診断への同意書。葬儀費用の支出承認。相続放棄に関する意思確認書。領地借地契約の追認書。


 七つとも、わたくしの署名があるはずの書類だった。わたくしは、その一覧を長いこと見ていた。


 三年前の四月から、七枚。


 七枚全部を、わたくしは覚えていない。覚えていないが、七枚のうちの一枚だけは、この目で見ている。


 あの婚約解消書だ。


 あの紙には、署名と日付があった。署名は偽物で、日付は——わたくしは、冊子を持つ手を止めた。七枚。全部に日付があるのだろうか。


 全部に、わたくしの手で書いた日付があるのだろうか。もしそうなら、三年前のあの二週間、わたくしは何度も何かに数字を書いたことになる。


 書いた覚えは、当然ない。


 覚えがないのに、手が七回動いた。その七回が何だったのかを、わたくしはまだ知らない。

【所見】金貨八百枚、受領予定、条件成就ののち。日付は七月だが、書かれたのはひと月以内である。


同意書類は七枚あるそうです。オリヴィアが見たのは、そのうちの一枚だけでした。


お読みくださりありがとうございました。

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