第20話 二度目の気遣い
翌朝、鑑定室の机に、器が二つ置いてあった。湯気が立っている。蜂蜜の湯だった。ユリウスは向かいに座っていて、今度は自分のぶんに口をつけていた。
「座れ」
「はい」
わたくしは座った。器を両手で包んだ。
「オリヴィア嬢」
「はい」
「無理をしていないか」
わたくしは、器から顔を上げた。同じ問いだった。十六日前に、この部屋で、同じ言葉を聞いた。
あのとき、わたくしは答えられないと言った。比べる相手を持っていないからだと。
「監査官様」
「答えなくていい」
「いいえ」
わたくしは器を置いた。
「前のときは、お答えできないと申しました。無理をしているかどうかは、以前のわたくしと比べなければ分からない、と」
「覚えている」
「あれは、嘘ではございませんでしたが、逃げでしたわ」
わたくしは、両手を膝に置いた。
「今なら、比べる相手がおります」
「誰だ」
「昨日のわたくしですわ」
彼は、器を置いた。
「昨日のわたくしは、父が殺されたと知って、何も感じませんでした。冷たいと思っただけで、涙も出ませんでした。今朝もそうです」
わたくしは、指を組んだ。
「それが、無理をしているということだと思います」
部屋の中で、しばらく誰も何も言わなかった。
「わたくしは、悲しみ方を知らないのですわ。父と過ごした年月の記憶が、三年ぶん抜けております。抜けているところに、悲しみが入る場所がございません」
「入らないのか」
「入らないのではなく、行き場がないのだと思います。だから、ずっと机の上に置いてあります」
わたくしは、机を見た。
「毎朝、そこに置いてあるのを見ます。見て、拡大鏡を取ります」
「オリヴィア嬢」
「はい」
「それは無理だ」
「はい」
わたくしは、頷いた。
頷いてから、初めて、目の奥が熱くなった。
「監査官様。わたくし、泣きませんの」
「知っている」
「泣き方も、たぶん三年前に置いてまいりましたわ」
「そうか」
彼は立ち上がった。立ち上がって、机を回ってきた。わたくしの前で止まって、それから、器をこちらへ押した。
「飲め」
「はい」
わたくしは、飲んだ。
甘かった。甘いという以外に何も感じないだろうと思っていたのに、喉を通ったところで、胸のあたりが緩んだ。わたくしは、器を両手で持ったまま、しばらく動かなかった。
「一つ、言っておく」
「はい」
「三年前、君に説明しなかったことを、俺は正しいと思っていない」
「存じております」
「あのとき俺は、君の命を選んだつもりでいた。だが本当は、俺が説明を怖がっただけかもしれない」
彼は机に手をついた。
「説明して、君に『それでも一緒にいる』と言われたら、俺はそれを断れなかった」
わたくしは、顔を上げた。
「だから、言わなかった。君のためだと自分に言い聞かせて」
「監査官様」
「言うな。慰めなくていい」
「慰めませんわ」
わたくしは、器を置いた。
「わたくしは、あなたを許すかどうかを、まだ決めておりません。決める材料が三年ぶん欠けておりますもの」
「そうだな」
「ですが、今日のこれは、受け取ります」
わたくしは、空になった器を彼のほうへ押した。
「ありがとうございます」
彼は、器を二つ重ねた。重ねる手が、少し止まった。
「一つ聞いてもいいか」
「どうぞ」
「なぜ、今日は受け取った」
わたくしは、少し考えた。
「前は、鈍るのが怖いと申しました」
「言っていた」
「今は、鈍らないと分かりましたので」
「なぜ分かる」
「昨日、父が殺されたと知って、わたくしは石の削れ方を数えておりました」
わたくしは、自分の手を見た。
「鈍りませんわ。鈍れないのですわ。だから、少しくらい受け取っても大丈夫だと思いました」
彼は、何も言わなかった。
言わずに、器を持って出ていった。
◇
昼まで、わたくしは階段の図を引いた。十四段。幅は五尺。手すりは右のみ。七段目だけ縁が丸い。
図の横に、数字を書き入れた。段の高さ。踏み面の奥行き。七段目の削れの深さ。削れは二分ほどだった。二分あれば足は滑る。滑らなければ落ちない。
わたくしは図を二枚描いた。一枚は公証院へ出す用。もう一枚は自分の控えだ。控えを作る癖は、いつ付いたのだろう。覚えはない。手が先に動いた。
ネルが入ってきた。図を覗いた。
「これ、階段ですか」
「そうですわ」
「絵、下手ですね」
「線が引ければ十分です」
「あたし、絵は得意です」
「では、清書をお願いいたします」
ネルは椅子を引いた。定規を出した。鉛筆を削った。削り方が丁寧だった。刃を立てず、寝かせて、少しずつ回している。
「その削り方は、どちらで」
「父です。芯を折ると、その日は仕事になりませんから」
わたくしは頷いた。
この子も、手で覚えた人だ。
「令嬢さま。清書は何枚要りますか」
「三枚」
「一枚多いですね」
「一枚は失くす用ですわ」
「失くすんですか」
「失くされる用です」
ネルは手を止めた。それから、また動かした。
「四枚描きます」
「なぜ」
「二回失くされるかもしれないので」
わたくしはその答えを気に入った。この子は、疑うことを覚える前から、備えることを知っている。
紙漉きの家は、たぶんそういうものなのだろう。一枚破れる前提で、余計に漉く。わたくしは四枚目の図に、余計なことを書き足した。七段目の削れの深さ。二分。
削れの幅。段の左寄り。人が降りるときに足を置くところだ。右寄りではない。手すりは右にある。手すりを持つ人は右へ寄る。
左寄りを削ったということは、手すりを持たない人を想定している。父は、書類を左脇に抱えて、右手を空ける人だった。削った人間は、それを知らなかった。
わたくしはペンを止めた。
知らなかったのに、父は落ちた。ということは、あの晩の父は、右手も塞がっていたことになる。両手で何かを持っていた。七冊より重いものを。
◇
午後、わたくしは父の書斎に戻った。七冊を並べ直しながら、棚の三段目をもう一度見た。七冊が抜けたあとに、隙間がある。わたくしは、その隙間に手を入れた。
奥に、板があった。
棚板ではない。棚の背に、あとから当てた板だ。
押すと、動いた。
外すと、裏に、紙が一枚貼ってあった。
父の字だった。
——七十七輯以降、庫にあるものは信じるな。
わたくしは、その一行を三度読んだ。七十七輯以降。つまり、父が持ち出さなかったほう。庫に残っている七十四冊。あれを信じるな、と父は書いていた。
わたくしは、その字を拡大鏡で見た。急いでいた。「輯」の右下が流れている。溜まりはない。抜けは鋭い。父の手だ。
急いで書いて、板の裏に貼った。貼った日を、わたくしは知らない。わたくしは板を戻さずに、紙を剥がして懐に入れた。
剥がすとき、糊が乾ききっていて、音もなく取れた。三年ぶん乾いた糊の取れ方だった。
【所見】棚の背板の裏、父の手で一行。「七十七輯以降、庫にあるものは信じるな」
庫の中に七十四冊。あれを信じるなというなら、では何を信じればよいのか。明日、その勘定を始めます。
お読みくださりありがとうございました。




