第19話 馬車は、なぜ落ちたか
第四章に入ります。ここから、原簿の在処を巡る話になります。
原簿庫の階段は、石だった。十四段。踊り場はない。上から下まで、まっすぐ落ちる造りだった。
「三年前の三月二十九日。夜十時ごろ、下で発見された」
ユリウスが、当時の記録を読み上げた。
「発見者は夜警。頭部の打撲。医師の所見は即死」
「灯りは」
「鑑定室に灯っていた。庫の扉は閉まっていた。鍵は掛かっていた」
わたくしは、階段の上に立った。十四段。手すりは右側だけ。石は乾いている。
「監査官様。父は右利きでした」
「それが」
「右利きの人間は、階段を降りるとき右手で手すりを取ります。父は書類を持ち歩くとき、必ず左脇に抱えました。右手を空けるためです」
わたくしは、右手を手すりに置いた。
「両手が塞がることは、ございませんわ」
「では、なぜ落ちた」
「分かりません」
わたくしは階段を降りた。一段ずつ、足の裏で石を確かめながら。
七段目で、足が止まった。
「監査官様」
「どうした」
「ここだけ、擦り減り方が違います」
彼が降りてきた。
七段目の石の縁が、他の段より丸い。
「人が多く踏むところは減る。これは減っている」
「減っているのではありません」
わたくしは膝をついて、石の表面を指でなぞった。
「削られておりますわ。減った石は表面が磨かれてつやが出ます。この石は、ざらついております」
「削ると、どうなる」
「縁が丸くなります。丸くなった段を降りると、足の先が滑ります」
「どのくらい滑る」
「乾いていれば、ほとんど滑りません。濡れていれば、確実に滑りますわ」
わたくしは石を撫でた。乾いていた。
「三年前の三月二十九日は、雨でしたか」
ユリウスが記録をめくった。
「……降っていない」
「では、濡らしたのですわ」
わたくしは立ち上がった。
「三年前に削られたものかどうかは、分かりません。石は日付を持ちませんもの」
「持たないな」
「ですが、紙は持ちます」
◇
わたくしたちは、公証院の営繕記録を出させた。三年前の三月。石段の補修の記録が、一件あった。
——三月二十七日 東棟階段 補修 石工 ハウザー
「二日前ですわ」
「補修が二日前で、事故が二十九日か」
「石工のハウザーという方は」
書記官が名簿を繰った。
「三年前に廃業しております。今は……記録によれば、王都を出ておりますね」
「行き先は」
「北です。ドレスデン領」
わたくしは、記録を閉じた。
「監査官様。これも証拠にはなりませんわね」
「ならない」
「石工が北へ引っ越したというだけですもの」
わたくしは、補修記録の紙を持ち上げた。持ち上げて、光にかざした。
簀の目を数える。
二十一本。王都の紙だ。
——ただし。
わたくしは記録簿の他の頁を見た。三月の他の頁は、すべて同じ王都の紙。二十七日の頁だけ、綴じ糸の穴が二重になっていた。
「差し替えられておりますわ」
「何」
「この頁だけ、一度綴じを解いて、入れ替えております。穴が二つございます」
ユリウスが記録簿を裏返した。
「……本当だ」
「元の頁に何が書いてあったかは、分かりません。ですが、書き替える価値のあることが書いてあったのですわ」
「書き替えるなら、なぜ補修の記録を残した」
「消せなかったのですわ。石工に払った金が、会計の帳簿に残りますもの。金の記録と合わない営繕記録は、それ自体が疑われます」
「だから、日付と内容だけを直した」
「はい。合わせる先があるときは、消すより書き替えるほうが安全です」
わたくしは会計の帳簿も出させた。三月二十七日。石工ハウザーへの支払い。銀貨八枚。その前後を見た。二月の営繕は銀貨二枚。四月は銀貨三枚。
八枚は、多い。
「監査官様。石段一段の補修に、銀貨八枚は妥当ですか」
「知らん。だが、二枚と三枚の月に八枚は目立つ」
「目立ちますわね」
「なぜ、そこは直さなかった」
「会計は書記局が写しを取ります。二重にある帳簿は、直すと差が出ますもの」
わたくしは帳簿を閉じた。
直せる紙と、直せない紙がある。直せない紙のほうが、いつも正直だ。
わたくしは一覧を作った。
直せる紙。営繕記録。証言書。開扉記録。原簿。直せない紙。会計帳簿。紙屋の納品控。商会の出荷台帳。医師の控。
直せない紙の共通点は一つだった。相手方の手元にも同じ紙がある。二枚あるものは、片方だけ直せない。両方直すには、両方に手が届かなければならない。
わたくしは一覧を折って、懐に入れた。これから見るのは、二枚あるほうの紙だ。
◇
その夜、わたくしは自分の馬車の事故のことを調べた。半月前。王都の南、丘の道。車輪が外れて、馬車ごと斜面を落ちた。
御者は軽傷。わたくしは頭を打ち、三年分の記憶を失った。事故報告書があった。御者の証言が付いている。
——「車軸の楔が緩んでおりました。前日の点検では異状ございませんでした」
署名は御者のもの。
わたくしは、その署名を拡大鏡で見た。
溜まりが、あった。
抜けが、丸かった。
わたくしは、報告書を持つ手を膝に置いた。
「監査官様」
「見せろ」
彼は拡大鏡を覗いた。覗いて、しばらく黙っていた。
「なぞってある」
「はい」
「御者は生きている」
「はい」
「本人に書かせて、そのあと書き替えたということだ」
「書かせる必要すら、なかったかもしれません」
「どういう意味だ」
「御者の署名見本が、どこかにあれば」
わたくしは、報告書を机に戻した。
「使用人の雇い入れには、契約書がございます。契約書には署名がございますわ」
三年前、父が階段から落ちた。石段は二日前に削られていた。営繕記録は差し替えられていた。
半月前、わたくしが馬車ごと落ちた。楔が緩んでいた。御者の証言はなぞられていた。
同じ形だった。
「叔父様は、わたくしを殺そうとなさったのですわ」
声に出すと、思ったより平らな声だった。
「まだ後見人だとは限らない」
「そうですわね」
わたくしは、両手を膝の上で組んだ。組んだ手が、少し冷たかった。冷たいという以外に、何も感じなかった。それが自分でも不思議だった。
わたくしは、この三年を覚えていない。父の死を悲しんだ記憶も、葬儀の記憶もない。だから今、父が殺されたと知っても、悲しみが立ち上がってこない。
立ち上がってこないぶん、別のものが立った。
——これは、まだ終わっていない。
終わっていないものを、終わらせなければならない。それだけが、はっきりしていた。
【所見】石段は二日前に削られ、営繕記録の頁は差し替えられていた。御者の証言はなぞられていた。
三年前と半月前。二つの落下は、同じ手つきで作られています。
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