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記憶を失った悪女ですが、この婚約解消書の署名が偽物だということは分かります  作者: 久世まどか


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第18話 誘いの裏

「令嬢さま、二階の紙、持ってきました」


 ネルが束を抱えて入ってきた。踊り場に積んであった、あの束だ。


「怒られませんでしたの」


「怒られました。でも監査官さまの令状があるって言ったら、黙りました」


「令状はございませんわ」


「あるって言っただけです」


 わたくしは、その返事に何も言わないことにした。束を机に広げる。書記局から公証院へ回ってくる照会書の控えだった。


 一枚取って、裂け口を作る。繊維が長く房になって出た。蝋燭にかざす。甘い、松脂の匂い。


「ドレスデン領産ですわ」


「ですね」


 わたくしは簀の目を数えた。十七本。


「ネル。書記局は、この紙をいつから使っておりますか」


「紙屋の帳面だと、三年前の五月からです。それまでは王都の紙でした」


「五月」


 わたくしは、指を三本立てた。三月に父が死に、四月に婚約解消書が作られ、五月から書記局がドレスデン領の紙を使い始めた。


「安いんですよ、あの紙。松脂くさいから王都では売れなくて、だぶついてるんです」


「どのくらい安いのですか」


「王都の紙の六分の一です」


「六分の一」


「でも運び賃が高いんで、実際は半分くらいですね」


「誰が、そう決めるのですか」


「紙の仕入れですか? 書記局の調達方って部署が——」


「その上は」


「……長官じゃないですか」


    ◇


「ドレスデン領の紙が、書記局へ入るようになったのは三年前の五月です」


 わたくしはユリウスにそう報告した。


「叔父様の領地から、長官の部署へ。年に千枚単位で」


「金の流れができている」


「はい。しかも、正規の調達ですわ。帳簿に残っております。何ひとつ違法ではございません」


「合法な取引が、三年続いている」


「叔父様は、原簿を売る側です。長官は、買う側ですわ。売買の前に、まず付き合いを作ったのですわね」


 ユリウスは、束の一枚を光にかざした。


「証拠にはならない」


「なりません。紙を買っただけですもの」


「では何のために言った」


「誘いの意味が分かったからですわ」


 わたくしは、机に指を置いた。


「長官は、わたくしを書記局へ呼びたいのではありません。原簿を書記局へ入れたいのですわ。ですが、原簿は公証院のものです。長官の権限でも、正式には移せません」


「移せない」


「ですが、行方不明の七輯なら、話が違います」


 わたくしは顔を上げた。


「行方不明のものを、わたくしが『見つけて』、書記局へ持って上がる。それなら公証院の記録に残りません。——だから、わたくしなのですわ。鑑定ができて、身分が不安定で、修道院と天秤にかけられる人間」


 ユリウスは、束を置いた。


「一つ穴がある」


「どちらでしょう」


「長官は、七冊がレーンハルト邸にあることを知っているのか」


 わたくしは、口を開けた。


 開けて、閉じた。


「……知りません」


「そうだ。知っていたら、三年も待たない。屋敷は後見人の管理下だ。ドレスデン卿に探させればいい」


「叔父様も知らなかった、ということですか」


「知らなかったから、財産目録の第九葉で『書物一括金貨三枚』と書いた。中身が分かっていれば、そんな安値はつけない。目録から消す」


 わたくしは、七冊のことを思った。父の書斎の、棚の三段目。背表紙に文字のない七冊。二百冊の中に、名前順の並びを一箇所だけ崩して。


 叔父は三年、あの部屋を管理していた。管理していて、見つけられなかった。


「父は、うまく隠しましたのね」


「隠したのではない」ユリウスが言った。「置いたんだ」


「置いた、ですか」


「隠すなら床下か壁だ。あれは棚に並べてあった。見えるところに」


 彼は窓のほうを見た。


「見えるところに置いて、並び順だけを崩した。並び順の意味が分かる人間にしか見えない置き方だ」


 わたくしは、椅子から立ち上がっていた。


「父は」


「ああ」


「父は、誰かに見つけてほしかったのですわ」


「誰にだ」


 わたくしは答えなかった。


 答えなくても、答えは部屋の中にあった。父の書斎の並び順を知っている人間は、この世に一人しかいない。三千枚書かされて、父の癖を全部覚えさせられた人間が。


「監査官様。父は、わたくしが探しに来ると思っていたのでしょうか」


「思っていたんだろう」


「三年かかりましたわ」


「三年で来た」


 わたくしは、椅子に座った。座って、少しのあいだ何も言わなかった。


「監査官様」


「なんだ」


「父は、わたくしに手紙を残しませんでした」


「そうだな」


「遺言も、覚書も、一行もございません」


「無いな」


「なぜでしょう」


 彼は、しばらく考えていた。


「書けば、読まれる」


「読まれます」


「読む相手を選べない。だが、棚の並びなら選べる」


 わたくしは、七冊のことを思った。背表紙に文字のない七冊。名前順の中に一箇所だけ差し込まれた七冊。あれが手紙だった。宛名の書けない手紙。


「うまい書き方ですわね」


「うまいな」


「三年かかりましたけれど」


    ◇


 その夜、わたくしは書記局への返事を書いた。


 ——お誘い、ありがたく存じます。ひと月ほど、お時間をいただけますでしょうか。


 嘘は書かなかった。断りもしなかった。書き終えて、ユリウスに見せた。


「時間を稼ぐのか」


「はい。長官は、わたくしが七冊を持っていることをご存じありません。ご存じない間は、わたくしを傷つけません。傷つければ、七冊が永久に出てこなくなりますもの」


「危ない橋だ」


「渡らなければ、修道院ですわ」


「ひと月で足りるか」


「足りません」


「では、なぜひと月と書いた」


「三月と書けば、疑われます。十日と書けば、急かされます」


「ひと月なら」


「ちょうど、迷っているように見えますわ」


 彼は封筒を持ち上げた。


「君は嘘をつかないと言ったな」


「つきません」


「これは嘘ではないのか」


「嘘ではございません。わたくしは本当に迷っております」


「何を」


「行くかどうかをです」


 彼が、こちらを見た。


「行けば、原簿は書記局のものになります。ですが、七冊は守られますわ。あの建物のほうが、この建物より頑丈ですもの」


「本気か」


「本気で迷ったことだけが、本当です。行きませんけれど」


 彼は封筒に紐をかけた。かけ終えるまで何も言わなかった。


「使いを出す」


「はい」


「返事はいつ届く」


「三日でしょう」


「三日か」


「長官は急ぎません。急ぐ理由がないからです」


「なぜ無い」


「わたくしが逃げないからですわ」


 彼は封筒を脇に挟んだ。


「逃げないのか」


「逃げる先がございません」


「一つある」


「どちらでしょう」


「言わない」


 彼は出ていった。


 彼は返事を封筒に入れた。入れて、紐をかけた。


「オリヴィア嬢。長官が七冊の在処を知る日が来る」


「存じております」


「その日までに、こちらが先に何かを掴んでおく必要がある」


「はい」


 わたくしは、窓の外を見た。


「一つ、確かめたいことがございます」


「言え」


「父が落ちた階段を、見せていただけますか」

【所見】書記局の紙は三年前の五月からドレスデン領産。父の死の二月後である。


次は、階段のほうへ参ります。父が落ちた晩に、あそこで何が起きたのかという話です。


お読みくださりありがとうございました。

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