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記憶を失った悪女ですが、この婚約解消書の署名が偽物だということは分かります  作者: 久世まどか


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第17話 王宮書記長官

 王宮書記長官は、自分から公証院へ来た。馬車を寄せず、供も連れず、東棟の鑑定室の扉を自分で叩いた。


「失礼。ここが噂の部屋かな」


 背の高い、痩せた老紳士だった。年は五十半ば。仕立てのよい上着に、インクの染み一つない袖口。わたくしは立ち上がって礼をした。


「アルマン・ロシュフォールと申します。書記局におります」


「オリヴィア・レーンハルトでございます」


「存じております。——ヴァルトハイム監査官、少しお借りしても?」


「ここは公証院の鑑定室です」ユリウスが言った。「長官の管轄下ですので、私が借りている側です」


「相変わらず言い方が硬いね、君は」


 アルマンは笑って、机の前の椅子に自分で座った。


「レーンハルト嬢。侍女の書き取りの件、報告書で読みました。十を数えて急がせる。あれは面白い」


「恐れ入ります」


「誰に教わった」


「父でございます」


「そうだろうね」


 彼は、机の上の拡大鏡を手に取った。取って、覗きもせずに置いた。


「あなたの父上とは、二十年の付き合いでした」


 わたくしは、顔を上げた。


「私が書記局に入った年に、彼は主任鑑定官になった。生意気な男でね。私の書いた記録を三度突き返した」


「父が、書記長官に」


「当時はまだ長官ではありませんよ。同じ卓の隣に座る、ただの若い役人でした」


 アルマンは、部屋を見回した。


「ここは変わらないな。北向きで、暗くて、紙の匂いがする。彼はこの部屋が好きだった」


「何を突き返されたのですか」


「日付だよ」


 彼は微笑んだ。


「私が書いた記録の日付が、一日ずれていた。彼は三度とも同じことを言った。『一日ずれると、全部ずれます』とね」


 わたくしは、その言葉を聞いていた。聞きながら、彼の袖口を見ていた。インクの染みが、一つもない。


「レーンハルト嬢。用件を申し上げます」


「はい」


「王宮書記局へ、いらっしゃいませんか」


 わたくしは、瞬きをした。


「書記局には、真正鑑定の専任が置かれていません。証書の照合は原簿と付き合わせるだけの機械仕事になっている。あなたのような目が要る」


「わたくしは、身分の定まらぬ者でございます」


「後見人と揉めておいでだそうですね。修道院の話も出ていると」


「はい」


「書記局が身柄を預かれば、その話は消えます」


 彼は指を組んだ。


「その才を、こんな薄暗い鑑定室で腐らせるのは惜しい」


 わたくしは、返事をしなかった。


 代わりに、聞いた。


「長官。書記局には、原簿がございますか」


 彼の指が、ほんの少しだけ動いた。


「原簿は公証院のものです」


「照会はなさいますでしょう」


「日に何度も」


「では、お手元にあるほうが早うございますね」


 アルマンは、笑った。


「そのとおり。実は、そう申し上げようと思っていました」


 彼は身を乗り出した。


「原簿は今、七輯が行方不明になっている。ご存じですか」


「存じております」


「あれを探すのが、書記局の懸案でしてね。あなたが来てくださるなら、その仕事も一緒にお願いしたい。——原簿ごと、お連れしたいくらいだ」


 わたくしは、机の下で手を組んだ。


「七輯が無いことは、いつからご存じですか」


「二年ほど前でしょうか。監査官の引き継ぎ報告で読みました」


「では、それより前は」


「知りませんでした」


 彼は、あっさりそう言った。嘘だとは思わなかった。嘘だと思えないほど、迷いなく言った。


「お考えいただけますか」


「考えます」


「結構」


 彼は立ち上がった。立ち上がって、扉のところで振り返った。


「レーンハルト嬢。一つだけ、老人の忠告を」


「はい」


「紙は、持ち主を選びません。誰が持っても同じことができる。だから、持っている者が危ないのです」


 彼は帽子を取って、軽く下げた。


「あなたの父上も、そうでした」


 扉が閉まった。


    ◇


 わたくしは、しばらく座っていた。


「オリヴィア嬢」


「はい」


「今のは」


「お誘いですわ」


「そうじゃない。最後のあれは」


「ええ」


 わたくしは、拡大鏡を元の位置に戻した。アルマンが触れて、置き直した位置から、二寸ずれていた。


「監査官様。あの方は、父の死に方をご存じですわ」


「階段から落ちたことは、皆が知っている」


「そうではございません」


 わたくしは、拡大鏡の柄を指で拭いた。


「あの方は、『持っている者が危ない』とおっしゃいました。父が原簿を持っていたことを、あの方はご存じなのですわ」


「……七冊が消えたことは、公証院の記録に残っている」


「消えたことは、ええ。ですが、消したのが父だとは、記録のどこにも書いてございません」


 わたくしは顔を上げた。


「引き継ぎ報告には、何と書いてございましたか」


「『七十輯以降 照合待ち』だ。俺が書いた」


「持ち出した者の名は」


「書いていない。分からなかったからだ」


「では、あの方は記録以外のところから知ったことになります」


 窓の外で、供も連れない馬車が一台、門を出ていくところだった。わたくしは、その馬車をきれいなものだと思った。


 そう思った自分のことを、あとで何度も思い返すことになる。


    ◇


 夕方、わたくしは書記局の名簿を借りた。役人の一覧である。名前。役職。着任の年。わたくしは年配の役人を数えた。三百十四人いた。筆の世代を絞った。二百二人。


 そこから先は、名簿では分からない。字を見なければ分からない。


 わたくしは名簿を閉じた。


「令嬢さま。何を数えてるんですか」


「人ですわ」


「数えて減りますか」


「減りません。ですが、減らないことが分かります」


 ネルは首をかしげた。


 わたくしは名簿の背を撫でた。三百十四人。この中の一人が、父の死んだ晩に庫の帳面を書いた。あるいは、この中にいないのかもしれない。


 名簿というのは、載っている人しか載っていない。当たり前のことだが、忘れやすい。


「令嬢さま。もう一つ数えてほしいものがあるんですけど」


「なんでしょう」


「あの人、拡大鏡を触りましたよね」


「触りました」


「覗きませんでしたよね」


「覗きませんでした」


「変じゃないですか。あたし、拡大鏡があったら覗きます」


 わたくしは、拡大鏡を見た。覗かずに置いた。位置を二寸ずらして。


「ネル。あの方は、拡大鏡を道具だと思っておいでではありません」


「じゃあ何だと思ってるんですか」


「置き物ですわ」


 わたくしは柄を握った。冷たかった。


「自分で紙を見ない人は、拡大鏡を覗きません。覗く理由がないからです」


「じゃあ、あの人、字が読めないんですか」


「読めますわ。ただ、見ないのです」


 ネルは、しばらく黙っていた。


「読むのと見るのって、違うんですか」


「違います」


 わたくしは拡大鏡を置いた。


「読むのは、書いてあることを受け取ることですわ。見るのは、書いてないことを探すことです」

【所見】拡大鏡は二寸ずれて置き直された。袖口にインクの染みがない書記官は、もう自分では書かない。


誘いには条件がついています。条件のほうが本体である誘いというものが、世の中にはあります。


お読みくださりありがとうございました。

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