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記憶を失った悪女ですが、この婚約解消書の署名が偽物だということは分かります  作者: 久世まどか


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第16話 脅した声

 三行の脅迫状を、わたくしは丸一日かけて読んだ。文字は五十二。そのうち仮名が三十一、漢字が二十一。


 わたくしは五十二の字を一つずつ拡大鏡で見て、写し取った。写し取ったものを並べて、癖を数えた。


 癖は四つ出た。


 一、横線が短い。


 二、縦線が長い。


 三、「し」の終わりで筆を上げず、横に払う。


 四、句点を打たない。


 四つ目がいちばん効いた。三行あって、句点が一つもない。


「役人の字ですわ」


 わたくしはゴットフリートにそう言った。


「なぜだ」


「句点を打たない書き方は、公文書の書式ですわ。条文には句点を打ちません。毎日それを書いている人間は、私文書でも打たなくなります」


 老人は拡大鏡を覗いた。


「もう一つあるぞ」


「どちらでしょう」


「『解消』の『消』だ。さんずいの三画目を、上へ跳ね上げとる」


 わたくしは見た。跳ねていた。


「これは書式ではない。癖だ。しかも古い癖だ。今の若い書記官はこう書かん」


「古い、と申しますと」


「二十年より前に手ほどきを受けた人間の書き方だ。わしらの世代だな」


「なぜ、変わりましたの」


「筆からペンに変わったからだ。筆は跳ねる。ペンは跳ねん。筆で覚えた手は、ペンでも跳ねる」


 わたくしは、写しに四つ目の癖を書き加えた。


 ——役人。年配。筆で手ほどきを受けた世代。


「ハイム様。この四つで、何人まで絞れますか」


「王都の役人は千人おる。年配は三百。筆で習った者は二百。そのうち句点を打たん癖の者は、まあ、五十だな」


「五十」


「さんずいを跳ねる者を足すと、十を切る」


「十人」


「そこから先は、紙では絞れん。あとは足で調べろ」


 わたくしは、写しを封筒に入れた。


「足で調べる方法が、一つございます」


「言え」


「その十人が書いた紙を、集めればよろしいのですわ」


 老人は、笑った。


「役人の書いた紙なら、この建物に山ほどある」


「では、明日から集めます」


「一つ忠告する」


「はい」


「集めとることを、知られるな」


「なぜですか」


「十人のうちの一人が、ここに紙を回しとるかもしれん」


 わたくしは、封筒を伏せた。


「ハイム様は、そういうことをよくお考えになりますのね」


「四十年、役所におったからな」


「疲れませんか」


「疲れる。だから、あんたの父御と組んどった」


「父は、どういう方でしたの」


「疑わん男だった」


 老人は椅子から立った。


「疑わん男が、一度だけ疑った。それが三年前だ」


    ◇


「もう一枚、比べたいものがございます」


 わたくしはユリウスにそう言って、庫の開扉記録を持ってこさせた。三年前の、父が死んだ晩の頁。なぞられた署名がある頁だ。


「この署名の下敷きになった字と、脅迫状の字を比べます」


「なぞられた字と比べても、書き手は出ないだろう」


「書き手は出ません。ですが、なぞる人間は、下敷きの字を選びます。選び方に癖が出ますわ」


 わたくしは二枚を並べた。


「ご覧ください。なぞられた署名のほうも、句点がございません」


「署名に句点は打たない」


「日付の後に打つ方はいらっしゃいます。この帳面の他の頁は、六割が打っております」


 ユリウスが帳面をめくった。数えていた。


「……六割だ」


「打たない四割のうち、さんずいを跳ね上げる方は」


 彼は最後まで数えた。


「一人だ」


「どなたですか」


 彼は帳面を閉じた。閉じてから、開き直して、もう一度見た。


「アルマン・ロシュフォール」


「どなたでしょう」


「王宮書記長官だ」


 わたくしは、その名前を書き留めた。


「公証院の上ですか」


「公証院は書記局の下部組織だ。長官は、この建物のすべての紙に目を通す権限を持つ」


「原簿にも」


「原簿にも」


 わたくしはペンを置いた。


「監査官様。順番を整理してもよろしいですか」


「言え」


「一、三年前、父が原簿を七冊持ち出して隠しました。二、その晩、父は庫の階段から落ちて亡くなりました。三、同じ晩の開扉記録は、句点を打たずさんずいを跳ねる誰かの手でなぞられました」


 わたくしは指を折った。


「四、その一月後、同じ癖の紙が、あなたのところへ届きました」


「同じ人間だと言うのか」


「まだ申しません。癖が一致するだけですわ」


 わたくしは四つ目の指を折った。


「ですが、これで一つ分かったことがございます」


「言え」


「叔父様は、いちばん上ではございません」


 ユリウスの目が細くなった。


「叔父様は、婚約解消書を作らせました。それは後見人の権限で説明がつきます。ですが、父が死んだ晩の記録に手を入れることは、叔父様にはできません。あの帳面は庫の中にありますもの」


「後見人は庫に入れない」


「はい。入れる人間が、別にいたのですわ」


 わたくしは、机の上に三つの紙を並べた。婚約解消書。マリアンヌの練習帳の最終頁。脅迫状。


「この三枚は、別々の人間が書いております。ですが、三枚とも、同じ一つのものを欲しがっている人間のために書かれました」


「原簿か」


「はい」


 わたくしは、婚約解消書を指した。


「監査官様。わたくし、ずっと考え違いをしておりました。この紙は、わたくしを追い出すために作られたのだと思っておりました。違いますわ」


「では何だ」


「わたくしを、レーンハルト家の相続人でなくすために作られたのです」


 わたくしは日付の欄を指した。


「婚約が続いていれば、わたくしはヴァルトハイム家に入ります。入れば、レーンハルト家の遺産は——父の書斎ごと——わたくしとともに、あちらへ移りますわ」


 ユリウスが、息を吸った。


「原簿が、ヴァルトハイム家へ移る」


「はい。移ってしまえば、後見人の手は届きません。届かなくなる前に、婚約を切る必要があった」


「切れば、原簿は屋敷に残る」


「残ります。後見人の管理下に」


 わたくしは紙を置いた。


「三年前の四月。あれは、わたくしを追い出す紙ではありません。原簿を屋敷に留め置くための紙ですわ」


 部屋の外で、鐘が鳴った。


「監査官様。あなたが署名なさった日と、父が亡くなった日は、どちらが先ですか」


 彼は、しばらく答えなかった。


「父の死が、三月二十九日だ」


「あなたの署名が四月十二日」


「そうだ」


 二週間。


 父が死んで、二週間で、婚約解消書が作られた。わたくしはその二週間に何をしていたのだろう。


 覚えていない。


 覚えていないが、一つだけ分かることがあった。父が死んだ直後の二週間、わたくしは喪に服していたはずだ。喪中の令嬢のところへ、書類を持っていくのは容易い。


 容易すぎる。


 喪中の娘は、差し出された紙を読まない。読む気力がない。それを知っている人間が、その二週間を選んだ。

【所見】句点なし、さんずいの跳ね。二十年より前に手ほどきを受けた役人の癖。該当は一人。


婚約解消書は、追い出すための紙ではなく、原簿を屋敷に留めるための紙でした。作られたのは父の死の二週間後です。


お読みくださりありがとうございました。

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