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記憶を失った悪女ですが、この婚約解消書の署名が偽物だということは分かります  作者: 久世まどか


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15/22

第15話 署名した理由

 彼は、婚約解消書を机の真ん中に置いた。二人の署名がある。片方は偽物で、片方は本物だ。


「俺は、これに署名した」


「存じております」


「三年前の春、四月十一日。ドレスデン卿の使いが持ってきた。俺は一晩考えて、翌朝署名した」


 わたくしは黙っていた。


「その一晩に、何を考えたかを話す」


 彼は椅子に座らなかった。立ったまま話した。


「使いは、二枚持ってきた。一枚がこれだ。もう一枚は——」


 彼は上着の内側から、四つ折りの紙を出した。開いて、机に置いた。紙は薄く、折り目が擦り切れていた。三年、持ち歩かれた紙の形をしていた。


 書いてあったのは、三行だった。


 ——ヴァルトハイム家次男へ。婚約を続ける場合、レーンハルト嬢の身の安全は保証されない。四月十二日までに解消書へ署名されたし。署名なき場合は、貴殿の同意とみなす。


 署名はない。


 わたくしは、その三行を二度読んだ。


「……脅迫状ですわ」


「そうだ」


「なぜ、公証院へ出さなかったのですか」


「出した。当日に。監査官に報告した」


「その方は」


「前任者だ。二年前に死んだ男だ」


 わたくしは、紙を見た。


「彼は、こう言った。『これは脅迫だ。だが証拠がない。差出人が分からない紙で、伯爵令嬢の後見人を告発することはできない。告発すれば、向こうは急ぐだけだ』」


「急ぐ、と」


「殺すなら早いうちに、ということだ」


 わたくしは、自分の手が冷たくなるのを感じた。


「俺は一晩考えた。考えて、署名した」


 彼は婚約解消書を指した。


「婚約が続いている限り、君はヴァルトハイム家に入る予定の人間だ。入られると困る人間がいる。入る前に消せば、それで終わる」


「ですから、解消なさった」


「解消すれば、君は入らない。入らないなら、消す理由が減る」


「減っただけで、無くなってはおりません」


「無くならなかった」彼は言った。「半月前、君は馬車ごと落ちた」


 部屋の中で、何かが軋んだ。わたくしの椅子だった。わたくしが動いたからだ。


「では、あなたは」


「間違えた」


 彼は初めて、椅子に手をついた。


「三年前、俺は君の命と婚約を秤にかけて、婚約を捨てた。捨てれば君が生きると思った。実際には、三年遅らせただけだった。俺がやったのは、時間を買っただけだ」


 わたくしは、何か言おうとした。


 言葉が出てこなかった。


「オリヴィア嬢。俺は君に一度も説明していない。三年間、一度も」


「なぜですか」


「説明すれば、君は納得する」


 彼は顔を上げた。


「納得した君は、俺のところへ戻ってこようとする。戻ってくれば、また消す理由が立つ。だから、君には俺が君を捨てたと思っていてもらう必要があった」


 わたくしは、椅子の背に手をかけた。


「……三年」


「三年だ」


「わたくしは、その三年のあいだ、あなたに捨てられた女として生きていたのですね」


「そうだ」


「そして、それを覚えておりません」


「そうだな」


 彼は、そこで少しだけ笑った。笑ったというより、顔の形が崩れただけだった。


「皮肉なものだ。三年かけて君に信じさせたことを、君は半月前に全部忘れた」


「では、三年は無駄でしたわね」


「無駄だ」


「無駄でしたが、生きております」


「そうだな」


 わたくしは、椅子に座り直した。


「監査官様。一つ、申し上げてよろしいですか」


「言え」


「わたくしは今、腹が立っております」


 彼が、こちらを見た。


「脅した相手にではありません。あなたにです」


「そうだろうな」


「三年前のわたくしは、十八でございました。十八の娘に、命が懸かっていることを知らせずに、婚約だけを切った」


「そうだ」


「知らせていれば、わたくしは何かできたかもしれません」


「できない」


「できなかったかもしれません。ですが、決めるのはわたくしでしたわ」


 彼は、何も言わなかった。


「あなたは、わたくしの代わりに決めました。叔父様と同じことをなさったのですわ」


 その言葉は、思ったよりまっすぐ出た。言ってから、行きすぎたかと思った。思ったが、取り消さなかった。


「……そうだな」


「否定なさいませんの」


「否定できないことは、しない」


 わたくしは、拡大鏡を手に取った。取って、また置いた。


「腹が立っておりますが、感謝もしております。両方ございます。どちらか一方にはなりません」


「両方でいい」


「よろしいのですか」


「片方だけ寄越されるほうが、俺は困る」


「なぜ」


「片方だけなら、扱い方が決まってしまう。感謝だけなら受け取る。怒りだけなら黙って聞く。両方だと、どちらもできない」


「できないと、どうなさいますの」


「そこに立っているしかない」


「立っていてくださいまし」


 彼は、立っていた。


 わたくしは、その場で三つ数えた。数え終えてから、話を戻した。わたくしは、机の上の脅迫状を見ていた。


 三行。差出人なし。


 筆跡は——わたくしは、拡大鏡を取った。


「オリヴィア嬢」


「失礼いたします」


 わたくしは紙を光の下に入れた。線が、細い。ペン先が新しい。溜まりはない。抜けは鋭い。なぞられていない。生きた字だ。そして、この字は——


「叔父様のものではありませんわ」


「何」


「叔父様の字は、財産目録の管理印の横に自署がございました。あれは横線が長い。この字は横線が短くて、縦が伸びております。別人ですわ」


「見間違いということは」


「ございません。横と縦の比は、書き手が変えられない癖の一つです。速さを変えても、大きさを変えても、比だけは残ります」


 ユリウスが、机に手をついた。


「三年、俺はあれを後見人の字だと思っていた」


「思っておいでだっただけですわ。照らしていらっしゃいませんもの」


「照らす相手がなかった」


「今はございます」


 わたくしは紙を置いた。


「監査官様。もう一つ、伺わせてください」


「言え」


「あなたは、この脅迫状に署名で応えました。相手は、それで満足したのですか」


 彼は答えなかった。


「三行のうち、要求は一つです。署名しろ、と。あなたは署名なさった。それで取引は終わったはずですわ。ですが」


 わたくしは、彼の顔を見た。


「その紙を、三年もお持ちになっている理由が分かりません。終わった取引の紙は、捨てるものです」


 ユリウスは、脅迫状を四つに折った。折って、上着の内側に戻した。


「終わっていない」


「では、何を差し出されたのですか」


 彼は、上着の上から胸を押さえた。


「明日でいいか」


「いいえ」


「……そうか」


 彼は扉のほうへ歩いた。歩いて、止まった。


「一つだけ言う。俺が差し出したのは、金でも鍵でもない」


 扉が開いた。


「俺は、そんなものを持っていない」

【所見】三行の脅迫状。差出人不明。筆跡は後見人のものではない。三年前から、もう一人いた。


署名は取引の対価でした。ただし、対価はそれだけではなかったようです。


お読みくださりありがとうございました。ここまでで先が気になりましたら、ブックマークを。灯り油代に充てさせていただきます。

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