第15話 署名した理由
彼は、婚約解消書を机の真ん中に置いた。二人の署名がある。片方は偽物で、片方は本物だ。
「俺は、これに署名した」
「存じております」
「三年前の春、四月十一日。ドレスデン卿の使いが持ってきた。俺は一晩考えて、翌朝署名した」
わたくしは黙っていた。
「その一晩に、何を考えたかを話す」
彼は椅子に座らなかった。立ったまま話した。
「使いは、二枚持ってきた。一枚がこれだ。もう一枚は——」
彼は上着の内側から、四つ折りの紙を出した。開いて、机に置いた。紙は薄く、折り目が擦り切れていた。三年、持ち歩かれた紙の形をしていた。
書いてあったのは、三行だった。
——ヴァルトハイム家次男へ。婚約を続ける場合、レーンハルト嬢の身の安全は保証されない。四月十二日までに解消書へ署名されたし。署名なき場合は、貴殿の同意とみなす。
署名はない。
わたくしは、その三行を二度読んだ。
「……脅迫状ですわ」
「そうだ」
「なぜ、公証院へ出さなかったのですか」
「出した。当日に。監査官に報告した」
「その方は」
「前任者だ。二年前に死んだ男だ」
わたくしは、紙を見た。
「彼は、こう言った。『これは脅迫だ。だが証拠がない。差出人が分からない紙で、伯爵令嬢の後見人を告発することはできない。告発すれば、向こうは急ぐだけだ』」
「急ぐ、と」
「殺すなら早いうちに、ということだ」
わたくしは、自分の手が冷たくなるのを感じた。
「俺は一晩考えた。考えて、署名した」
彼は婚約解消書を指した。
「婚約が続いている限り、君はヴァルトハイム家に入る予定の人間だ。入られると困る人間がいる。入る前に消せば、それで終わる」
「ですから、解消なさった」
「解消すれば、君は入らない。入らないなら、消す理由が減る」
「減っただけで、無くなってはおりません」
「無くならなかった」彼は言った。「半月前、君は馬車ごと落ちた」
部屋の中で、何かが軋んだ。わたくしの椅子だった。わたくしが動いたからだ。
「では、あなたは」
「間違えた」
彼は初めて、椅子に手をついた。
「三年前、俺は君の命と婚約を秤にかけて、婚約を捨てた。捨てれば君が生きると思った。実際には、三年遅らせただけだった。俺がやったのは、時間を買っただけだ」
わたくしは、何か言おうとした。
言葉が出てこなかった。
「オリヴィア嬢。俺は君に一度も説明していない。三年間、一度も」
「なぜですか」
「説明すれば、君は納得する」
彼は顔を上げた。
「納得した君は、俺のところへ戻ってこようとする。戻ってくれば、また消す理由が立つ。だから、君には俺が君を捨てたと思っていてもらう必要があった」
わたくしは、椅子の背に手をかけた。
「……三年」
「三年だ」
「わたくしは、その三年のあいだ、あなたに捨てられた女として生きていたのですね」
「そうだ」
「そして、それを覚えておりません」
「そうだな」
彼は、そこで少しだけ笑った。笑ったというより、顔の形が崩れただけだった。
「皮肉なものだ。三年かけて君に信じさせたことを、君は半月前に全部忘れた」
「では、三年は無駄でしたわね」
「無駄だ」
「無駄でしたが、生きております」
「そうだな」
わたくしは、椅子に座り直した。
「監査官様。一つ、申し上げてよろしいですか」
「言え」
「わたくしは今、腹が立っております」
彼が、こちらを見た。
「脅した相手にではありません。あなたにです」
「そうだろうな」
「三年前のわたくしは、十八でございました。十八の娘に、命が懸かっていることを知らせずに、婚約だけを切った」
「そうだ」
「知らせていれば、わたくしは何かできたかもしれません」
「できない」
「できなかったかもしれません。ですが、決めるのはわたくしでしたわ」
彼は、何も言わなかった。
「あなたは、わたくしの代わりに決めました。叔父様と同じことをなさったのですわ」
その言葉は、思ったよりまっすぐ出た。言ってから、行きすぎたかと思った。思ったが、取り消さなかった。
「……そうだな」
「否定なさいませんの」
「否定できないことは、しない」
わたくしは、拡大鏡を手に取った。取って、また置いた。
「腹が立っておりますが、感謝もしております。両方ございます。どちらか一方にはなりません」
「両方でいい」
「よろしいのですか」
「片方だけ寄越されるほうが、俺は困る」
「なぜ」
「片方だけなら、扱い方が決まってしまう。感謝だけなら受け取る。怒りだけなら黙って聞く。両方だと、どちらもできない」
「できないと、どうなさいますの」
「そこに立っているしかない」
「立っていてくださいまし」
彼は、立っていた。
わたくしは、その場で三つ数えた。数え終えてから、話を戻した。わたくしは、机の上の脅迫状を見ていた。
三行。差出人なし。
筆跡は——わたくしは、拡大鏡を取った。
「オリヴィア嬢」
「失礼いたします」
わたくしは紙を光の下に入れた。線が、細い。ペン先が新しい。溜まりはない。抜けは鋭い。なぞられていない。生きた字だ。そして、この字は——
「叔父様のものではありませんわ」
「何」
「叔父様の字は、財産目録の管理印の横に自署がございました。あれは横線が長い。この字は横線が短くて、縦が伸びております。別人ですわ」
「見間違いということは」
「ございません。横と縦の比は、書き手が変えられない癖の一つです。速さを変えても、大きさを変えても、比だけは残ります」
ユリウスが、机に手をついた。
「三年、俺はあれを後見人の字だと思っていた」
「思っておいでだっただけですわ。照らしていらっしゃいませんもの」
「照らす相手がなかった」
「今はございます」
わたくしは紙を置いた。
「監査官様。もう一つ、伺わせてください」
「言え」
「あなたは、この脅迫状に署名で応えました。相手は、それで満足したのですか」
彼は答えなかった。
「三行のうち、要求は一つです。署名しろ、と。あなたは署名なさった。それで取引は終わったはずですわ。ですが」
わたくしは、彼の顔を見た。
「その紙を、三年もお持ちになっている理由が分かりません。終わった取引の紙は、捨てるものです」
ユリウスは、脅迫状を四つに折った。折って、上着の内側に戻した。
「終わっていない」
「では、何を差し出されたのですか」
彼は、上着の上から胸を押さえた。
「明日でいいか」
「いいえ」
「……そうか」
彼は扉のほうへ歩いた。歩いて、止まった。
「一つだけ言う。俺が差し出したのは、金でも鍵でもない」
扉が開いた。
「俺は、そんなものを持っていない」
【所見】三行の脅迫状。差出人不明。筆跡は後見人のものではない。三年前から、もう一人いた。
署名は取引の対価でした。ただし、対価はそれだけではなかったようです。
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