第14話 わたくしは、あなたの字を知っている
鑑定室の机に、書類が積んであった。三年前の庫の出納に関わる書面。ユリウスが書記局から取り寄せたものだ。彼は取り寄せて、置いて、何も言わずに出ていった。
わたくしは一枚ずつ確かめた。署名を見る。日付を見る。溜まりを探す。抜けを見る。二十枚ほど進んだところで、手が止まった。
一枚の書面の欄外に、細い字で覚書が書いてある。
——「七十輯以降 照合待ち」
わたくしは、その九文字を見た。
見て、こう思った。
——急いで書いている。
「照」の右上が、上に逃げていた。
「……あら」
声が出た。
わたくしは、その字を三度読んだ。三度目に、自分が何をしたのかが分かった。わたくしは今、字を見て、書いた人を当てた。拡大鏡も使わず、原簿とも照らさず、ただ見て。
——監査官様の字だ。
なぜ分かるのか。
昨日、千枚に番号を振ってもらったから。それだけの根拠で、こんなに確信できるはずがない。
わたくしは椅子に座った。
三年間。
この人の字を、わたくしは何度見たのだろう。
覚えがない。何ひとつ。
けれど手が、いや、目が、覚えている。三年ぶんの「急ぐと右上がりになる字」が、どこかに残っている。わたくしは、覚書のある紙を持ち上げて、光にかざした。
紙を透かしても、そんなものは映らなかった。わたくしは念のため、残りの十枚も確かめた。
同じ字の覚書が、三枚に見つかった。三枚とも「照」の右上が逃げていた。三枚とも、同じ人の手だと分かった。分かってしまうことが、少し怖かった。
わたくしは、自分を疑うことにした。思い込みなら、外れるはずだ。外れるかどうかを確かめる方法がある。
わたくしはネルを呼んだ。
「ネル。お願いがございます」
「はい」
「この十枚から、監査官様の書き込みがあるものを抜いてくださいまし。わたくしには見せずに」
「なんでですか」
「わたくしを試すためですわ」
「面白そうですね」
ネルは十枚を裏返して並べ替えた。並べ替え終えてから、わたくしを呼んだ。わたくしは一枚ずつ表に返した。一枚目。違う。二枚目。違う。三枚目——右上が逃げている。
「これですわ」
「当たりです」
四枚目。違う。五枚目。当たり。六枚目から九枚目まで、違う。十枚目。当たり。
「三枚、全部当たりです」
「外れは」
「ゼロです」
わたくしは十枚を戻した。
「令嬢さま、すごいですね」
「すごくはありませんわ」
わたくしは、自分の手を見た。
「これは、わたくしが覚えたのではありません。三年前のわたくしが覚えたものが、残っているだけです」
「同じじゃないですか」
「違いますわ。わたくしは、覚えた場面を一つも持っておりません」
ネルは首をかしげた。
「……よく分かりませんけど」
「わたくしにも分かりません」
◇
「これを、いつお書きになりましたか」
夕方、戻ってきたユリウスに、わたくしはその紙を差し出した。
「欄外の覚書ですわ。『七十輯以降 照合待ち』」
彼は紙を受け取って、覚書を見た。
「二年前だ。引き継ぎのときに、七冊足りないことに気づいて書いた」
「気づいておられたのですか」
「気づいた。院長に報告した。院長は『前任者の頃からの整理漏れだ』と言った。それ以上は追わなかった」
「なぜ」
「追う理由がなかった。当時は」
彼は紙を返そうとして、途中で手を止めた。
「——待て」
「はい」
「君は今、これを俺の字だと言ったな」
「はい」
「照合はどうやった。俺の署名見本は原簿にない。俺は伯爵家の人間ではないし、証書を交わしたこともない」
わたくしは、答えを持っていなかった。
「……見て、分かりました」
「見て」
「はい」
「何と照らして」
「何とも」
部屋が、しばらく無音だった。
「昨日、番号を振っていただきました。それだけの数を見れば、癖は分かります」
「千枚に番号を振った。数字だけだ。仮名は一つも書いていない」
わたくしは、口を開いた。開いて、閉じた。そのとおりだった。数字しか見ていない。
仮名の癖は、数字からは出ない。「照」の右上が逃げることを、わたくしは昨日知ったのではない。
「オリヴィア嬢」
「はい」
「なぜ、俺の字が分かる」
わたくしは、自分の手を見た。この手は、三千枚書いて癖を覚える手だ。父にそう作られた手だ。三年のあいだ、この手は、この人の字を何枚見たのだろう。
覚書。伝言。書きかけの手帳。走り書き。覚えていない。一枚も覚えていない。覚えていないのに、手のほうが数えている。
「……分かりません」
わたくしはそう答えた。
「分かりませんが、分かります。それだけですわ」
「他に、分かるものはあるか」
わたくしは、少し考えた。
「監査官様は、紙を受け取るとき、指の背で縁をなぞられます」
「……ああ」
「それも、昨日知ったことではない気がいたします」
「他には」
「蝋燭の芯を、切ってから灯りをお使いになります」
「他には」
「扉を開けるとき、一度浅く開けて、それから広げます。人がいるかどうかを確かめておいでですわね」
彼は、扉のほうを見た。
「誰にも言われたことがない」
「言われるようなことではございませんもの」
「君は、それを三年前に見たのか」
「分かりません。ですが、初めて見たときに驚かなかったのは確かです」
わたくしは、机の上の紙を揃えた。
「驚かないというのは、二度目だということですわ。それだけが証拠です」
「弱い証拠だな」
「弱うございます。ですが、わたくしが三年ぶんで持ち帰れたのは、これだけですの」
彼は、紙を置いた。
「他の人間についてはどうだ。叔父上の癖は言えるか」
「言えません。半月しか見ておりませんので、字だけですわ」
「マリアンヌ嬢は」
「同じです」
「俺だけか」
「あなただけですわ」
ユリウスは、紙を持ったまま立っていた。わたくしは、彼が何か言うのを待った。
彼は言わなかった。
代わりに、紙を机に置いて、その上に手を置いた。置いたまま、動かさなかった。
「……監査官様?」
「いや」
彼は手をどけた。
「明日、話す」
「何をでしょう」
「否定できないことのほうだ」
「昨日は、否定できることが一つあるとおっしゃいました」
「同じ話だ」
彼は出ていった。
わたくしは机に残された紙を見た。欄外の九文字。右上に逃げた「照」の字。この字を、わたくしは知っている。
知っているという事実だけが、三年のあいだに何があったかを、たった一つ教えてくれるものだった。わたくしはそれを、うれしいのだと思わなかった。
夜になっても、思わなかった。
【所見】照合の手段を持たずに、書き手を当てた。物差しは記憶ではなく、手のほうにあった。
明日、彼が「否定できないこと」を話します。三年前の春に、彼が何に署名したのかという話です。
お読みくださりありがとうございました。




