第13話 原簿庫の鍵は二つ
第三章に入ります。ここから、監査官のほうの紙を見ます。
庫の扉は、鉄だった。
鍵穴が二つ、上下に並んでいる。上の鍵を公証院長が、下の鍵を担当監査官が持つ。二つが同時に回らなければ開かない。
院長は白髪の小柄な老人で、鍵を回すとすぐに帰った。長居する気がないのが分かる帰り方だった。
「院長様は、いつもああでいらっしゃいますか」
「開扉に立ち会うのは義務だが、中を見る義務はない。あの人は義務の範囲でしか動かない」
「便利な方ですわね」
「便利だな」
「院長様は、この庫に何が入っているかご存じですか」
「知っている。目録がある」
「目録はどこに」
「庫の中だ」
わたくしは足を止めた。
「庫の中の目録で、庫の中身を確かめるのですか」
「そうだ」
「では、中身と目録の両方を書き替えられる人間がいれば、誰も気づきませんわね」
彼は答えなかった。
「監査官様。それは、公証院の書式の穴でございましょう」
「穴だ。三十年、誰も塞いでいない」
「なぜ」
「塞ぐには、外から数える人間が要る。公証院より上の役所は一つしかない」
「書記局ですわね」
「そうだ」
庫の中は、棚が四列。天井まで、革表紙の背が並んでいた。わたくしは第七十輯の位置を探した。棚には、番号札が振ってある。第六十九輯の隣は——
第七十七輯だった。
七つ、抜けていた。
「七十輯から七十六輯まで。父が持ち出した七冊の場所ですわ」
「空だな」
「はい」
わたくしは棚に指を触れた。埃がない。
「監査官様。ここだけ、埃がございません」
ユリウスが屈んで、棚板を見た。
「他の棚は」
「積もっております。この七冊ぶんの幅だけ、拭かれておりますわ」
「三年前に持ち出されたものの跡が、拭いてある」
「はい」
「誰が」
わたくしは答えなかった。答えられなかったのではない。答えの候補が二人しかいなかったからだ。
◇
庫の帳面を確かめた。開扉記録。日付と、二人の署名。三年前の春から、頁をめくった。父の死んだ晩の日付を探す。
あった。
その日、庫は開いていた。開扉時刻は夜の九時。閉扉の記録は——空白だった。
「閉めた記録がございません」
「開けたまま、ということはありえない」
「では、閉めた人が書かなかったのですわ」
わたくしは署名欄を見た。
院長の署名と、担当監査官の署名。当時の担当監査官の名は、知らない人だった。わたくしはその署名を、拡大鏡で見た。
——溜まりが、あった。
「あ」の曲がりの外側に、小さな黒い粒。抜けを見る。丸い。
「監査官様。この署名、なぞられております」
彼は拡大鏡を受け取った。長いこと見ていた。
「……三つ揃っているか」
「溜まりと、抜けの丸みが。三つ目は、一枚では見られませんわ。一行しかございませんので」
「二つで十分だ」
「十分ではございません。ですが、二つで疑うには足ります」
彼は帳面を閉じた。
「当時の担当監査官は、この夜、庫に来ていない。誰かが名を書いた」
「その方は、今どちらに」
「二年前に亡くなった。病死だ」
「お確かめになりましたか」
「診断書を読んだ」
「どなたが書いた診断書ですか」
彼は答えなかった。
「後で調べる」
わたくしは、帳面をもう一度開いた。三年前の三月から、一年ぶんをめくった。
開扉は、月に二度か三度。証書の照合のたびに開ける。閉扉の署名は、どの頁にもきちんと入っていた。空白は、あの一頁だけだった。
「監査官様。この帳面、書式が変わっておりますわ」
「どこがだ」
「三年前の四月から、欄が一つ増えております。『持出の有無』という欄です」
彼が頁を並べた。三月までの頁には、その欄がない。四月からある。
「父が亡くなった翌月ですわ」
「増やしたのは誰だ」
「書式の改定は、公証院長の決裁でございましょう」
「そうだ」
わたくしは、四月以降の頁を順に見た。
「持出の有無」の欄は、すべて「無」と書かれていた。三年ぶん、一度も「有」がない。
「無、ばかりですわ」
「実際に持ち出していないなら、それでいい」
「ですが、七冊は既に無くなっております。三年前に」
「三月までは、そもそも欄が無い」
わたくしは頁を閉じた。
「よく出来ておりますわね。持ち出しが起きた月から欄を作れば、それより前は記録が存在しないことになります」
「存在しない記録は、争えない」
「はい」
庫の空気が、冷たかった。
◇
「オリヴィア嬢」
庫を出て、廊下を歩きながら、ユリウスが言った。
「聞かないのか」
「何をでしょう」
「今の担当監査官は俺だ。鍵は俺が持っている。棚の埃を拭ける人間は、院長と俺の二人だ」
わたくしは足を止めた。
止めるつもりはなかった。足のほうが止まった。
「……はい」
「聞け」
「監査官様」
「言え」
わたくしは彼を見た。
「あなたは、いつから鍵をお持ちですか」
「二年前だ。前任者が死んで、俺が引き継いだ」
「では、三年前の晩には、鍵をお持ちでなかった」
「持っていない」
「ですが、その二年のあいだに、棚を拭くことはおできになります」
「できる」
彼は否定しなかった。
わたくしは、それを聞いて、自分が何を期待していたのかを知った。否定してほしかったのだ。
「オリヴィア嬢。俺が拭いたなら、なぜ君を庫へ入れた」
「入れなければ、疑われるからですわ」
「そうだ。だから、それは答えにならない」
「はい」
廊下の窓から、午後の光が入っていた。
「わたくしは、あなたを信じておりません」
言ってしまってから、喉が痛くなった。
「そうだろうな」
「信じられる材料がございません。あなたは婚約解消書に署名なさいました。あなたは鍵をお持ちです。あなたは棚を拭けます。——三つ揃っております」
「揃っているな」
「なぜ、否定なさらないのですか」
ユリウスは窓のほうを見ていた。
「否定できることは、否定する。できないことは、しない」
「では、否定できることはございますか」
彼は答えなかった。
「一つも、ございませんの」
「一つある」
「伺います」
「今日ではない」
わたくしは、それ以上聞かなかった。
彼は廊下を歩いていった。
わたくしは、その背中を見ていた。背中を見ながら、いま自分がした問いの形が、ひどく見覚えのあるものだということに気づいた。
——覚えていないのに、書いていないことだけは分かる。
あのとき、誰も信じなかった。わたくしは今、あの人に同じ立場を渡したのだ。同じ立場を渡しておいて、答えは明日でよいと言われて、わたくしは待つと言った。
あの広間で、誰もわたくしにそれを言わなかった。
【所見】三年前の開扉記録。閉扉の署名は、なぞられている。名を書かれた本人は二年前に死んでいる。
棚の埃を拭ける人間は二人。オリヴィアは、そのうちの一人に面と向かって疑いを告げました。彼は否定しませんでした。
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