72・漏れ出たこの世を侵すもの
咄嗟に手を離したものの、【死】が【精霊琥珀】に広がっていく。
わかっていても止めることは出来ない。
【死】とはそういうものだと、感覚でわかる。
どれだけ他者に移そうが尽きせぬ【呪い】が、死んでいく。
崩れていく琥珀から、光が溢れ続けている。
その輝きは、不気味なほど紫だった。
まるで紫色の【気珠】――
「!」
それに思い当たった瞬間、全身に鳥肌が立つ。
まずい。
まずいまずいまずいまずいまずい!!
だとすればあの中にいるのは――
「違う!! アルガス!! その中にいるのはまともな精霊じゃない!!」
「今となっては……どうでもいいことだ……」
「馬鹿野郎!!」
紫色の光は強くなり、一気に収束した。
「あはははははははははははははははは!!」
視力が戻り切る前、耳にけたたましく響き渡る笑い声。
耳障りな音域。本能的不快感。
それが、不吉なものが解放されたことを如実に伝えて来る。
「出られた出られた出られた出られた出られた出られた出られた!!」
強烈な光によって奪われた視力が戻ったとき、それは眼前に浮遊していた。
一言で表すなら、全裸の女。
見た目だけ見れば、【精霊琥珀】に封じられていたままだ。
ただしその全身は、ぬらりとしたナマズやウナギのような質感の肌に覆われた青い肌をしており、ところどころ発光器官があるのか、光が上下している。
その瞳は黒く、明らかに精霊でもなければ、尋常の生物ではない。
「おお、よく出て来てくれた……我が愛しの君よ……」
アルガスは恍惚の笑みを浮かべ、よろよろと女に近づいていく。
【死】は琥珀に防がれたとはいえ、脚の代わりをしていた琥珀も【死】によって砕け始めている。
ガングレーナの凄まじい攻撃を受けながら、強引に塞いだ傷も広がっているだろう。
いつ倒れてもおかしくない。
俺はその隙に、ゼフィーに近づいた。
意識はないが琥珀はただの樹液となっている。
気管に入っている様子はないし、おそらく大丈夫だろう。
ならば、問題は――
「ああ、アルガス……会えて嬉しいわ」
「おお、おお……君の生の声を聴けるなんて、私は天にも昇る気持ちだよ……」
「そう……」
倒れそうなアルガスを、女が受け止めた。
そして――
「じゃあ、もう死んでも悔いはないでしょ?」
「なに?」
どしゅ。
肉を貫く、音。
「がっ」
アルガスが、血反吐を吐く。
女の腕が、アルガスの胸を貫いていた。
「なぜ……だい?」
アルガスは、どこにも恨みの込められていない、ただただ純粋な疑問をつぶやいた。
「別にあなたを嫌いではないわ。でも、お腹が空いたの。だから、いいでしょう?」
「それなら……いいさ」
「ええ、いただきます」
女は、突き入れた腕を引き戻し、心臓を掴み出した。
そしてそれを果物でも絞るかのように握り潰して血を啜る。
当然、アルガスは絶命した……。
「アアアア!! アルガスニナニヲ!!」
フィギュアサイズまで縮んでいた雷の精霊が、怒りに燃えて女に迫る。
放たれる稲妻が、女の肌の上を走るが、まるでフライパンの上の水滴のように表面だけなぞって滑っていく。
「ああ、お前もいたわね。ドラゴンどもに力を与えて知能も記憶も失った雷の搾りかす」
なに!?
白骨公主が稲妻を放っていたように、ドラゴンが雷の権能を持っているのは、そういうことか!!
ならば、あれは正真正銘、雷の精霊……!?
「本当に、お馬鹿さん」
女は、物理法則を無視するかのように雷の精霊を鷲づかみにした。
「オ、オマエハ……」
「笑える。それも忘れてるんだもんね。自分たちで封じたくせに、解く側にまわるなんて……ま、でも教えてあげる」
頬まで裂けんばかりに、女が笑った。
「私の名は、【深魔】ユラーゲル。この世を侵すものよ」
「ア」
一瞬、雷の精霊が絶望の表情を浮かべ、そのまま握り潰された――




