新典侍 3
頼子は、京都所司代との折衝において実に見事な差配を見せ、欣子内親王の篤い信任をも勝ち得ていた。
ある夜、夜御殿にて主上の身の回りの差配をしていた頼子に、主上は静かに声をかけられた。
「内親王が、此度のそなたの骨折りをたいそうお喜びであった。頼子のことをまことに頼もしく思っておいでだ。何か望む賞があれば、包み隠さず申してみよ」
頼子は平伏し、御床に敷かれた畳の縁に額を押し当てた。衣の擦れる音のなかに、微かな震えが混じる。
「恐れながら……。私は、内親王さまのあの混じり気のない御眼差しを仰ぎ見るたびに、己に課せられたお役目の重さに、胸の潰れる思いがいたすのでございます。なれど、主上をお支えせよとの院さまのご叡慮に背くことも叶いませぬ。
主上、どうか……この頼子を哀れと思し召し、お召しくだされませ……」
頼子もまた、公家の誇りと皇統の安泰という、抗えぬ大波のなかに身を投じた一人であった。
「頼子、長く寂しい思いをさせた」
主上は頼子の細い肩をそっと引き寄せられた。
「もう、内親王へ引け目を感じることはない。そなたが背負う重荷は、すべてこの私が引き受けよう」
頼子の献身の奥にある懊悩を汲み取られたとき、主上はそれが「内親王への思慕」を封じ込めねばならぬ己の苦悩と重なるのを感じておいでであった。
この夜を境に、主上は新典侍の深い情愛を受け入れ、夜を共にされるようになる。
◇
数ヶ月の後、仮御所の回廊を、新典侍懐妊の報が静かに、しかし確かな波紋となって駆け巡った。
その報に接した瞬間、欣子内親王は、御簾の奥で微動だにせず立ち尽くされた。視線は、畳の上の外光が途切れる影の境目に据えられたままである。
「いっそ、あの者が……」
途切れがちな呟きに、傍らに控えていた乳母が息を呑んで顔を上げた。内親王の伏せられた睫毛の端から、大粒の涙が白絹の袴を濡らして落ちていく。
「内親王さま……?」
恐る恐る問う乳母の声にも、お答えはない。九歳に満たぬ内親王にとって、主上が側室を召すことの真の意味や、頼子の胎内に宿った命がもたらす宮廷の均衡など、理知では推し量れても、胸の奥底で受け止めるにはあまりに早すぎた。
しかし、その心は、理屈を置き去りにして鋭く切り裂かれていた。
(私の代わりに、主上の御心を慰めて差し上げてと……この私が、そう望んだはずなのに)
あの大火の夜、漆黒の闇のなかで自分を呼び求め、その無事を確かめて深く安堵の息を漏らしてくださった主上。あの温き御手は、自分だけのものと信じたかった。頼子の優しさを知れば知るほど、その胎の命を拒みたくなる己がいる。
身の内に初めて湧き上がった暗い情念に、内親王ご自身が戦慄され、それ以上の言葉を喉の奥に押し込められた。小さな肩が激しく上下し、ついにその場に頽れられる。乳母は言葉を失い、ただその痛々しいほどに小さな御身体を、衣ごと強く抱きしめることしかできなかった。
同じ頃、主上の御座所でも、主上は祝賀に沸く堂上公家たちの拝謁を終え、一人静かに御目を閉じられていた。
(内親王……、私はそなたを傷つけてしまったのだろうか。どうか頼子を咎めないでやってほしい。
恨むのなら、この私一人を恨めばよい)
皇統を繋ぐという至上の大義のために、内親王も、頼子も、そしておそらくは⋯院までもが胸を痛めている。
(私は、帝位に就くと院さまにお誓い申し上げたあの瞬間に、この荊の道を歩むことを自ら選んだのだ)
この先、この重荷から解き放たれる日など来るのだろうか。父・典仁親王と成子内親王のように、生涯、秘めたる情念を抱えて生きることになるのかもしれない。
(しかし、内親王、そなたが傍らにいてくれるならば、私はどのような険しき路にも耐えてみせよう)
聖護院の庭片隅に咲き始めた白梅が、冷たい風のなかにほのかな香りを漂わせ、京の春の訪れを告げていた。
だが、大火を生き延びた二人の若き魂にとって、それはあまりに苦く、ただ課せられたお役目のみが重くのしかかる、容赦なき日々の幕開けであった。




