新典侍 2
夜も更けたというのに、聖護院の仮御所にある内親王の御所の灯火は、なおも消える気配がなかった。
(主上は、今宵もいまだ夜御殿にお入りにならぬ……。
関東との折衝が、滞っておいでなのだろうか。日に日に、慈悲を求めてこの聖護院の門前に集う民草が増えていく。この私にできることは、真に何一つないのだろうか……)
欣子内親王は硯に向かい、静かに筆を染め始められた。
『外からは、門前に集まった民の子らの泣き声や、地鳴りのように低く響く念仏の声が聞こえてまいります。
私は幼くして何の力もなく、飢えに喘ぐ子らの空腹を満たしてやる術もなく、ただ胸の潰れる思いにございます。どうか子らをお救いいただきたいという私の切なる願いを、関東の武家へ伝えたいのです。
頼子殿をお貸しくださいませ。
女の身なればこそ、私のこの一心が、かえって真っ直ぐに伝わるやもしれませんから――』
筆を置かれると、内親王は乳母を近くへ召された。
「乳母よ。この御文を主上にお届けしておくれ。頼子殿を使いとしてお貸しくださるよう、願い奉る文である。
明日、日が落ちたならば、頼子殿と二人で京都所司代へ赴いてくるのです」
「京都所司代に、でございますか」
乳母は息を呑み、伏せていた顔を上げた。
「そう。難しく考える必要はありません。ただ、焼け出された万民の窮状を内親王が深く案じていると、それだけを伝えてくれればよい」
迷いのない内親王の清らかな御眼差しを仰ぎ見、乳母はすべてを了解した。
「畏まりました。主上へ直ちに御文をお届けに上がります」
「欣子内親王さまより、御文をお持ちいたしました」
乳母は主上の御前に進み出た。
「夜分、恐れ多くも御座所へ罷り越しましたる段、平にご容赦くださりませ。内親王さまより、火急のお願いにございます」
主上は、このような時刻に何事であろうとご不審に思われながらも、届けられた御文を広げられた。
一文字ずつ丁寧に認められた筆跡を追ううち、主上の目元が微かに震える。
「……乳母が、頼子と共に所司代に会いに行くと申すのか」
「はい。武骨な役人相手なればこそ、女房が赴くほうが、かえって角が立たぬとお考えのご様子にございます」
「しかし……、内親王はなぜ頼子を使いにと? 乳母は訳を聞いているか」
「しかと伺ったわけではございませぬが……。主上のお側にお仕えする頼子殿を、深くご信頼なさっておいでなのでしょう。
頼子殿の誠実なお人柄ならば、所司代も聞く耳を持つのではとお考えになられたのだと存じます」
主上は深く息を吐き、静かに御文を畳まれた。いまだ夜御殿の召しを受けておらぬ頼子に、内親王がそこまでの信頼を寄せていることに、胸を打たれておいでであった。
「そうか……。典侍をここへ召せ」
少しして、召し出された葉室頼子が御座所へと参上した。
「頼子。欣子内親王さまが、使いとして京都所司代に会ってほしいと仰せである。赴いてくれるか」
「内親王さまのご叡慮とあらば、どこへなりとも」
頼子は深く平伏し、毅然とお答えした。
「では、明日の夜。内親王さまのご用向きは、乳母から詳しく聞くがよい。それと……夜分に女だけで動くのは危うい。京都所司代に顔が利く、そなたの兄・頼覚を同行させよう。護衛の兵も付ける」
「寛大なるご配慮、恐れ入ります」
乳母もまた、深く頭を下げた。
「それでは頼子殿、明日、日が落ちたならば私がこちらに参ります。よろしく頼みます」
◇
そして、翌日。一面の焼け野原となった、漆黒の闇の中を二つの輿が進んでいく。
それをお護りするように、葉室頼覚と護衛の武者たちが足早に進んでいた。
あたりはまだ焦げ臭いにおいが煙のように立ち込めている。所々に急造された掘っ立て小屋が点在しているものの、灯火をともしている家は一軒もない。
生きる者の気配が途絶えたかのような静寂が、一行を包んでいた。
やがて、京都所司代の陣屋へと行き着くと、物々しい警戒の門番が立ちはだかった。
「葉室頼覚でござる。所司代さまに火急のお目通りを願いたく、罷り越した」
頼覚の顔を知る役人の案内で、一同は奥の対面所へと通される。
そこへ、連日にわたる朝廷(武家伝奏)との激しい折衝で、すっかり疲れ果てた京都所司代が姿を現した。
「葉室殿、このような夜更けに何用でござるか……。む、これは……」
所司代は、頼覚の背後に控える二人の気品ある女性の姿を認め、眉根を寄せて表情をこわばらせた。
「所司代さま、このような時刻の不躾な訪問、平にお許しくだされ。
私は主上付きの典侍、葉室頼子と申します。そしてこちらは、欣子内親王さまの乳母にございます」
「主上付きの典侍……。それに、内親王さまの乳母殿が、なぜこのような場所に」
「本日は、欣子内親王さまの切なる思し召しをお伝えしたく、罷り越しました」
頼子は深く頭を下げ、凛とした声で言葉を続けた。
「内親王さまは未だ九歳であらせられますが、此度の大火で焼け出された民草を、たいそう深く案じておいででございます。
『御所が焼け落ちたというのに、今の朝廷には自力で立て直す力もない。飢え凍える民を救うことも叶わず、関東の武家は果たして万民をお救いくださるのだろうか』
と、夜も眠れぬほどに御心を痛めておいでなのです」
続いて、乳母が御前に進み出た。
「毎日のように、仮御所の門前には家を失った民草が集い、お救いくださりませと地を這うように泣き崩れております。
内親王さまは『どうか私に免じて、哀れな民をお救いください』と、そう所司代殿へ伝えてほしいとの御意にございます」
乳母は堰を切ったように一気に語ると、所司代の前に深く平伏した。
沈黙する所司代の横から、頼覚が静かに、しかし地を這うような凄みを帯びた声で畳みかけた。
「所司代殿、これを関東への『大義名分』とされよ。内親王さまを動かしたのは、門前に集まる数千の飢えた万民の怨嗟の声なのだ。
このまま武家が禁裏との面目争いに終始し、無駄に時を費やせば、行き場を失った民が牙を剥き、暴動を起こすやもしれぬ。そうなれば、洛中の治安を預かるそなたの首が飛ぶだけでは済まぬぞ。そのような破滅を、江戸表もお望みではあるまい」
所司代は息を呑み、据えていた視線を落とした。やがて深く、重い吐息が対面所に響く。九歳に満たぬ皇女の、万民を憐れむ純一なる御心と、それを盾にした公家側の乾坤一擲の懸け合いに、完全に気圧されたのだ。
「……相解り申した。
内親王さまがそこまで深く御心を痛めておいでであると。民草の堪忍もすでに限界である旨、至急、江戸へ早馬を飛ばしまする」
この夜を境に、頑なであった関東の態度がにわかに軟化し、民への救済米の放出と、内裏の造営が急速に進んでいくこととなる。




