新典侍 1
聖護院での避難生活は、これまでの禁裏での暮らしとは一変したものとなった。
いくら聖護院が広大な門跡寺院とはいえ、主上以下、大勢の皇族や公卿が一斉に押し寄せたため、圧倒的に部屋数が足りない。
主上が執務を行われる場所さえままならず、庭の一角に「一夜造御学問所」と呼ばれる仮の建物が急造されるほどであった。
しかし、その狭さが皮肉にも、主上と欣子の心の距離を近づけることになる。
堅牢な壁と幾重もの御簾で隔てられていた御所とは違い、聖護院では「表(政務の場)」と「奥(皇族方の生活の場)」の境が、簡易な障子や屏風一枚という有り様だった。
薄い仕切り越しに、京都所司代ら武家の役人と、武家伝奏の公卿たちの激しく緊迫した交渉の声が漏れ聞こえてくる。
朝廷は本来、幕府の法度によって政治的な発言や行動を厳しく禁じられていた。
しかし、飢饉と大火に打ちひしがれる民を救うのだと、主上は武家伝奏を呼び付け、その不甲斐なさを厳しくお咎めになった。
その凛とした佇まいと、民を慈しむお姿に、欣子はただの婚約者という枠を超え、深い敬愛の念を募らせていく。
この未曾有の災禍において、弱冠十七歳にして見事な陣頭指揮を執り、聖護院をまとめ上げた主上の手腕は、誰もが認めるところとなった。
その並びない働きを、誰よりもお喜びになった方がいる。後桜町上皇である。
上皇は主上を高くお褒めになり、その功を労う「褒美」を遣わされることとなった。
上皇から主上へ贈られたのは、側室――「新典侍」となる、葉室頼子という女性であった。
新たに主上付きとなった頼子が、欣子内親王の元へ挨拶に訪れた。
「美しく、お優しそうなお姉さまですね。主上は今、大火の後始末や関東との折衝で、寝る間もないほどにお疲れなのです」
欣子は、目の前に平伏する頼子を見つめ、真っ直ぐな瞳でどこまでも真摯に言葉を続けた。
「どうか、私に代わって、主上の御心を優しくお慰めして差し上げてくださいね」
その無垢な響きに、頼子は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。だが、すぐに恭しく伏目になると、声音を震わせることなく静かに返した。
「内親王さまの仰せのままに。誠心誠意、主上にお仕えいたします」
そのやり取りを見守っていた背後の女房たちの間で、一斉に目配せが交わされ、室内にはかすかなざわめきが広がった。
誰もが、頼子がただの女房ではなく、やがて主上の御子を産むべき「側室」であることを察していたからである。
場の空気に漂う、目に見えぬ歪みを敏感に感じ取った欣子は、不思議そうに振り返った。
「どうかしましたか、乳母や」
声をかけられた乳母は、胸の塞がるような切なさを必死に抑え、形ばかりの微笑みを作ってはぐらかした。
「いえ……、何でもございませぬ。
頼子殿があまりに麗しく、皆で見惚れておったのでございますよ」
「まあ、本当にそうね」
欣子はそう言って無邪気に笑った。
乳母の言葉に一片の疑いも持たないその笑顔が、かえって周囲の女房たちの胸を締め付けた。
その日の夕暮れ。
主上は、近習の高辻胤長から、昼間の挨拶の様子を聞かされることとなった。
胤長は主上が「祐宮」と呼ばれていた幼少期から影のように付き従い、欣子への秘めたる想いを誰よりも知る男である。
「……内親王さまは、頼子殿に対し『私の代わりに主上の御心を優しくお慰めして』と、真摯にお告げになったとのことにございます」
「内親王が、そのようなことを……」
主上は小さく息を呑み、沈痛な面持ちで顔を伏せられた。漆黒の大火の夜、万が一にも失いたくないと激しく心が震えた、あの九歳の婚約者。
彼女のあまりに純粋で無垢な言葉が、今の主上の胸には鋭い刃となって突き刺さる。
(あの健気な御心を、私は裏切らねばならぬのか)
欣子への罪悪感に苛まれた主上は、夜御殿に参る頼子に対して、どうしても余所余所しい態度を崩せずにいた。
だが、その頑なな様子を察した後桜町上皇に、主上は厳しく諭されることとなる。
「主上、頼子を遠ざけてはなりませぬ。世継ぎをもうけ、皇統を繋ぐことこそが天子の第一の義務。私情を交えて禁裏の安泰から目を背けることは、決して許されませぬぞ」
「はい……、ですが……」
主上はそこで言葉を飲み込んだ。上皇の言葉は、我が身を振り返る余地もないほどの正論であり、若き帝に抗えるものではなかった。
その様子を見た上皇は、ふと声音を和らげられた。
「主上は、成子内親王さまを覚えておいでですか」
「成子内親王さま……。
父上(典仁親王)の正妃でいらした方でしょうか」
「そうです。私の叔母にあたる方で、私にとっては姉のようなお人でした。
内親王が宮家に降嫁されることは稀ですが、時の帝の格別のご叡慮により、閑院宮家へ嫁がれたのです。
中御門天皇の直系の血を繋ぐという、重い命を帯びてな」
上皇は遠い目をされた。
「ですが、残念なことに成子内親王さまはお子に恵まれませんでした。それでも典仁親王は、婚姻から八年もの間、側室を置くことなく成子さまのご懐妊を待ち続けられたのです。
きっと、今の主上のようにお悩みになったことでしょう。成子さまを、深く愛おしんでおいででしたから」
上皇は主上の手元に、優しく視線を落とされた。
「頼子を受け入れたとて、欣子内親王を裏切るわけではないのですよ。主上がそれほどまでに内親王を大切に思ってくださること、私は嬉しく、ありがたく思っています」
「上皇さま……、申し訳ございませんでした。上皇さまは私の気持ちを分かってくださらないと、お恨み申し上げるところでございました。
ですが……どうか、少しだけお待ちいただけないでしょうか」
「少しだけ、ですね。分かりました。でも、長くは、いけませんよ。頼子もかわいそうですから」
主上はやむなく上皇の言葉に従い、頼子を側に置くようになる。そして、日々接して頼子の人柄を知るうち、まだ寝所に招くことはなかったが、次第に心を許していかれた。
頼子は決して、己の立場や実家の権勢を笠に着るような女性ではなかった。むしろ、激務に疲弊している主上を、影のように静かに、細やかな気配りで支え続ける、有能で優しい女性であった。
夜半、燭の火を整えていた頼子は、ふと手を止めた。遠く欣子の住まう御殿の方角へ、そっと視線を向ける。夕闇に沈む甍の上を、名残のように一筋の煙が立ち上っていた。
(内親王さま……どうか、お許しくださいませ)
声にならぬ詫びを胸の内に沈めて、頼子は再び静かに燭台へと向き直った。頼子自身もまた、欣子内親王への深い申し訳なさをその胸に抱えていたのである。




