天明の大火
欣子内親王の少女時代は、天明の大飢饉や大火など、禁裏を包む世情が激しく揺れ動く時期であった。
天明八年、一月三十日の深夜。
鴨川の東側より上がった火の手は、狂おしい強風にあおられ、瞬く間に京都御所へと迫る。京都の街を灰燼に帰した「天明の大火」である。
「欣子さま、欣子さま、お目覚めくださいませ!」
乳母に揺り起こされた欣子は、微睡みのなかから引き戻された。
「……どうしたのです、乳母や。夜半に騒がしいこと」
「大変でございます! 火事でございます。火がすぐそこまで迫っております。この衣をお召しになってください。まもなく女院さまがおいでになります!」
確かに、遠くから地鳴りにも似た地響きと、人々の怒号が響いてくる。焦げた木の香と熱気が御簾を揺らし、幼い欣子の肌にも、ただごとではない気配が伝わってきた。
慌てて身仕舞いを整えていると、先触れの声もないまま、廊下の向こうから常になく急しい衣擦れの音が近づいてきた。
いかなる時も静水のごとき気品を崩さぬ祖母・恭礼門院が、長い裾をさばく暇さえ惜しむように、息を切らせて姿を現した。その後ろから、数人の女房たちが髪を振り乱して必死に追いかけてくる。
「欣子、目覚めましたか。火が迫っています。御所にとどまっては危ない。まずは下鴨神社へ参りましょう。
輿に、乳母と一緒に乗るのです。決してはぐれてはなりませんよ」
「畏まりました。女院さまもお気をつけて……」
お供の者たちを引き連れ、赤く染まる夜闇の中、下鴨神社への避難が始まった。
揺れる輿の中で、欣子はたまらず声をあげた。
「お上は、祐宮さまは? ご無事なのですか?」
「主上のお側にはお付の者が多数控えております。心配されずとも大丈夫でございます」
「でも……、どちらにお逃げになったのかしら……」
御所は焼け落ち、ほとんどの者が着の身着のまま逃げ出すという有様であった。
欣子一行は燃え盛る炎を逃れ、命からがら下鴨の社の森へたどり着いた。
同じ頃、主上(光格天皇)の輿も境内に滑り込んできた。主上は自ら輿の御簾を跳ね上げるようにして降り立つと、鋭い視線で騒然とする周囲を見回した。
(内親王は、ご無事に避難されただろうか……)
真夜中の暗闇のなか、無数の人々が右往左往している気配が生々しく伝わってくる。しかし、吹き荒れる熱風のせいで松明を掲げることもできず、漆黒の闇に阻まれて欣子の輿を見つけ出すことができない。
焦燥に駆られ、輿の傍らに立ち尽くす天皇に従者が声をかけた。
「こちらが仮の御座所でございます」
「案内には及ばぬ!
それより、上皇さま、女院さまと内親王はご無事か。お怪我はないか。
誰ぞ確かめて参れ!」
「足元も暗く危のうございます。
様子は分かり次第ご報告いたしますので、まずは御座所にお入りください」
主上は今すぐにでも自ら闇のなかへ探しに行きたげなご様子であったが、周囲の必死の制止に、辛うじて思い留まられた。
「……相わかった。案内を」
主上は仮御所に設えられた座に腰を下ろすやいなや、固く握りしめた拳を膝に置き、じっと扉を睨みつけた。
(もしや……、あの炎のなかに取り残されたのではあるまいな……)
脳裏をよぎった最悪の仮定に、主上の胸に凍りつくような戦慄が走った。
まだ九歳の、うら若き許婚。
これまで「天子としての義務」あるいは「幼き妹」のように捉えていたはずの欣子という存在が、自分の中でこれほどまでに大きく、震えるほどに愛おしいものになっていたのか。
その刹那、息を切らせた知らせの者が駆け込んできた。
「上皇さまも無事に避難されておいでになります!」
「女院さまと内親王さまもお怪我なく、ご無事でございます!」
その言葉を聞いた瞬間、光格天皇の身体からすっと力が抜け、深く、深い安堵の吐息が漏れた。
◇
下鴨神社の境内にまで、さらに狂おしく渦巻く火の粉と煙が忍び寄り、再び緊迫した空気が走った。
「やむを得ん。
真夜中ではあるが、これより聖護院門跡までお逃げくださるよう、上皇さま、女院さまへすぐさまお伝えせよ。
これより動く!
皆の者、よいか。身の回りの物は一切持たずともよい。ただ息災であることを第一に心がけ、決して足元を乱さぬよう進むのだ」
主上の淀みない差配により、天子の一行をはじめ、欣子内親王、上皇、そして諸方の皇族たちも、赤く染まる夜闇を突いて聖護院へと次々に拠点を移していった。
◇
ようやく聖護院にたどり着いた欣子は、小さく安堵の吐息を漏らした。
ふと思いついたように立ち上がると、乳母や女房たちが慌ただしく御帳台の支度を調えているかたわらを通り過ぎ、静かに廊下へと出ていく。
いつもならば御簾の奥深くに身を置き、このようにみだりに姿を晒すようなことは決して許されぬ身であるが、今はそれを咎める境遇ではなかった。
夜明け間近の京の街には、まだあちこちに紅蓮の炎がくすぶり、黒煙が天を衝いている。
「御所はすっかり灰になってしまったのかしら。都の民たちは、無事に逃げ延びられたかしら……」
飢饉のあとに焼け出された民を思うと、たとえ命を長らえたとしても、家を失い、今日を生きる糧もないであろう彼らの行く末に、胸の塞がるような痛みを覚えるのであった。
すると、呆然と京の街を見つめる欣子を見つけて、主上(光格天皇)が足音もなく歩み寄ってこられた。
漆黒の夜闇のなかで募らせていた底知れぬ恐怖が、いま目の前に佇む彼女の無事な姿によって、ようやく静かに融けていくのを主上は感じておられた。
「内親王」
その低く涼やかな声に、欣子はハッとして、恥じらうように面を伏せた。
「お上……」
「怖ろしかったでしょう。お怪我はありませんでしたか」
「はい。輿を用意していただきましたし、乳母が側にいてくれましたから」
「それを聞いて安心しました」
「あの……、お上」
「なんでしょう、内親王。
何かご不自由がありましたか」
「いえ、そうではなく……。関東は、焼け出された民をお救いくださるのでしょうか。私たちはこうして屋根のある所へ移れましたが、家を失いし民は、飢饉の後で食べ物も乏しく、どうやって生きていくのかと……」
主上はしばし無言のまま、その言葉を胸の奥に受け止めるように目を伏せた。
(さすがは、女院さまがお育てになった内親王だ。まだ九歳だというのに、すでに国母としての御心構えを宿しておいでになる)
深く胸を打たれ、光格天皇は力強くうなずかれた。
「朝廷に力はありませんが、必ずや関東に働きかけてみせます。民を、決して見捨てはせぬ」
「はい」
欣子はほっとしたように、小さく、蕾のほころぶような微笑を浮かべた。
が、ふと我に返ったように頬を染め、手元にあった檜扇を慌てて広げて口元を隠す。
御簾越しではない、その鮮やかな笑顔の愛らしさに、主上の胸がかすかに昂った。
「……あ、いけない。いくら火事の混乱とはいえ、このような場でお上とお言葉を交わしているのが見つかりましたら、女院さまに大層お叱りを受けてしまいますわ」
欣子は、咎めを恐れる幼子のように小さく身をすくめながらも、背伸びをするように優雅な一礼を残し、慌ただしく部屋の奥へと入っていった。
衣を翻して去っていく幼き許婚の後ろ姿を、主上は目を細めて見送られた。
彼女が去ったあとの廊下には、ほのかに甘い薫物の余韻が残されている。
この未曾有の大火を乗り越え、必ずや京の都を、そして民を復興させてみせる。そしていつか、あの聡明で愛らしい内親王を、名実ともに己の正妃として迎えるのだ。
東の空から朝日が昇り、受難の夜を越えた聖護院の庭を、静かに金色に染め始めていた。




