六歳の春に
欣子内親王が六歳を迎えられた春のこと。
彼女の住まう女院御所に、仄かに匂い立つ桜の一枝と、一通の短い文が届けられた。
『桜の花が咲きました。
内親王はもうご覧になりましたか』
文に目を落とした内親王の、白粉の映える幼き頬がぽっと赤らむ。乳母はその様子を、目を細めて微笑ましく見つめていた。
しかし、欣子はふと眉を寄せ、小さく口を尖らせた。
「お上は、まだ私が文字も拙く、歌も詠めぬ子供とお思いなのでしょうか」
「歌をお詠みになって、お返しなさいますか。この乳母がお手伝いいたしましょう」
「ううん、自分で詠めるわ。
紡いでみるから、少し待っていて。
お上には、お花をありがとうございますとお伝えしてね」
乳母は一礼して、その場を静かに下がっていった。
◇
しばらく経った頃。
「欣子内親王さまよりの返書をお持ちいたしました」
乳母が、光格天皇(祐宮)の御前に進み出た。
「欣子さまはご機嫌麗しくおられたかな。いつぞや風変わりな手遊び(てすさび)を差し上げた折、『子ども扱いして』とご立腹であったと仄聞しておったのでな」
若き帝は、気遣わしげに尋ねられた。
「はい。本日は大層お慶びで、自ら筆を取られ、返歌をお詠みになりました」
「ほう、もう和歌を学ばれているのか。どれ……」
受け取った懐紙には、幼くも一筆ごとに力を込めて書かれた文字で、こう認められていた。
十日ばかり短い命の花ならば
吾の為にと手折りたもうな
(わずか十日ほどで散ってしまう儚い花ならば、私のために枝を折って命を縮めないでくださいませ)
御簾越しには決して見えぬはずの、その愛らしい姿を思い浮かべながら、光格天皇はふと目元を和ませられた。
(まだ「手折る」という言葉が、男女の間で交わされる深い契りの意味を持つとはご存じないであろうに……)
ただ純粋に、花の命の短さを哀れんでの一首。精一杯の背伸びをして応えようとする内親王の姿が、何ともいじらしく、愛らしかった。
「私からも、これからは折々に歌を差し上げますと伝えてくれ。内親王さまに笑われぬよう、私も精進せねばな」
帝は嬉しそうに、声を綻ばせられた。
◇
乳母が下がっていくと、入れ替わるように近習の公卿が声をかけた。
「閑院宮さまがお出ましでございます」
実父である典仁親王が、静かに部屋へ入ってきた。
「お上。先日来よりお話し申し上げております、側室の件でございますが……」
帝は静かに首を振られた。
「父上。そのことは、後桜町上皇さまとの堅き約束がございます。内親王さまとの婚儀が済むまでは、側に他の女人を置くことはいたしません」
「しかしお上、これは傍系の我が閑院宮家のためでもあるのです」
典仁親王は声をひそめた。
「お上は傍系の閑院宮家のご出身なればこそ、早く男子の世継ぎをもうけ、我が血筋を確固たるものにせねばなりませぬ。いつまた皇位が他の宮家に移るかも分からぬのですから。
上皇さまとのお約束は、欣子内親王さまを女御(正室)とされること。側室をお迎えになることまでお禁じにはなりますまい。何も遠慮なさることはないのです」
「遠慮しているのではありません。
私が、そうしたいのです」
帝の引き締まった面差しに、揺るぎない意志が宿る。
「本来ならば出家し、仏門に入るはずだった私が、こうして皇位に就けたのは父上のお陰です。我が家門の繁栄に尽くしたい気持ちに偽りはございません。ですが、天子として相応しくあるため、今は修めるべき学問が山ほどございます」
帝自身、それを少しも不自由だとは思っていなかった。それよりも、壁の向こうにいる許婚の欣子と、いつか真に向き合える日を心待ちにしていた。
張り詰めた規律の檻のような宮中において、欣子と心を通わせるひと時だけが、彼にとって唯一の救いであったのだ。
◇
だが、欣子と祐宮は、初めからわだかまりなく心を許し合っていたわけではなかった。
欣子は、自分が「天子に嫁ぐ」ということがどういう意味を持つのか、周囲の大人たちの囁きから幼心によく理解していた。
本来であれば、自分が四親王家の誰かに降嫁する場合、夫となる人は直系長女である自分に対して臣下としての礼を尽くさねばならない。それは夫婦というより、血統がもたらす厳然たる上下の法度であった。
しかし、自分と祐宮の場合は全く逆の運命をたどることとなる。家格の低い宮家から入られた祐宮が「天皇」となり、自分が「妃」として入内するのだ。
先ほどまでは臣下の礼を尽くすはずの御方が、今となっては主と仰がねばならぬ――。
ある日、欣子はたまらず乳母に胸の内を漏らした。
「ねえ、乳母や。あの方は宮家のお方なのに、主上となられたから、私はあの方にかしこまらなければならないの?」
「さようでございます。主上であられ、いずれ内親王さまの『背の君』となられるお方でございますから」
「でも……閑院宮さまは四親王家の中でも一番新しく、お母様は公家のご出身ではないと、女房たちが噂していたわ」
乳母はたちまち顔色を変え、声を潜めて諭した。
「そのようなことは、決して女院さまの前でお口にされてはなりませぬ。
上皇さまが我が子としてお迎えになり、お手元で直々に薫陶なさっておられる御方です。上皇さまのお眼鏡に叶われた、禁裏一の公達でいらっしゃいます」
欣子は神妙な面持ちで、小さく首を縦に振った。
「ごめんなさい……もう決して口にしないから、女院さまには……どうか」
「はい、お約束でございますよ」
その時、侍女が控える廊下から声をかけた。
「主上より、御歌が届きましてございます」
先日の桜の歌への、帝からの返歌であった。
春の夕暮れに燭の火がほのと揺れる中、乳母が恭しく受け取り、欣子の元へと広げられた。
十日ばかり今年の花は散りぬれど
来る年こそは共に眺めめ
(今年の花は十日ほどで散ってしまいますが、来年こそは、あなたと共にあの桜を眺めたいものです)
「来年は七歳……。まだ、お会いできませんのに」
欣子はぽつりと呟いた。
一度も顔を合わせたことのない、遠い存在の許婚。たまさか聞こえてくる素読の涼やかな声や、女房たちの噂話のなかにしか存在しなかった祐宮。
それでも、「あなたに早く会いたい。共に桜を眺めたい」と、真っ直ぐに想いを認めてくれた祐宮の真心が、幼い胸の奥にじんわりと温かく沁み渡っていく。
まだ見ぬ互いの姿を、白紙の行間から不器用に描き合いながら。




