譲位
中宮・欣子内親王は、院さま(後桜町上皇)と主上の励ましにより、我が子を失った深い悲しみから、少しずつ立ち直りつつあった。
それでも、婧子の子・寛宮を実子として迎え入れ、中御門流の正統としての誇りと愛を注ぐという、最後の一線だけは、幾年経っても越えられずにいた。
その頑なな心を動かしたのは、皮肉にも、あの「女房呪詛一件」であった。
己の身をもって罪を被った頼子の清廉と、その裏で企みを巡らせていた婧子の真実の姿を知ったとき、欣子の胸に去来したのは、憎しみではなかった。
(婧子殿もまた、この宮中という檻の中で、我が子を守らんと足掻いていたに過ぎぬのだ。あの人が背負わされた業も、頼子殿が被った業も、元をたどれば同じ一つの理――正統の血を絶やすまいとする、この朝廷の宿業ではないか)
我が子への未練を断ち切り、皇統を継ぐという新たな覚悟を血肉化するまでの、それはあまりにも孤独な、自分自身との戦いであった。
だが、頼子の犠牲を無駄にせぬためにも、欣子はついに、その一線を越える決意を固めたのである。
温仁親王を喪ってより、七年の歳月が過ぎていた。
文化4年(1807年)7月
寛宮は、勧修寺邸から御所に移り、
親王宣下を受け恵仁という諱を授かった。そして主上より儲君(皇嗣)に治定された。
その夜、人目を忍び、主上がそっと欣子の局を訪れた。
主上は欣子の手を握り、
「これからは二人で、この子を育てていくのだ。そなたは、これまでもこれからもひとりではない。よいな」
その手の温もりに、欣子の目から堰を切ったように涙がこぼれ落ちた。
かつて文に綴って下された
「一生をかけて、
私のすべてを賭して、そなたを護り抜く」
という主上の誓いは、今も何一つ変わっていなかった。
「はい、お上。
この命に代えましても、立派な東宮に育て上げてみせます」
この日より恵仁親王は、中宮・欣子の手元で、次代の天皇となるべく厳格な訓育を施されることとなった。
文化6年(1809年)
恵仁親王(寛宮)の立太子の礼が行われた。
宮中が華やかな祝祭に沸く中、欣子内親王はこの式に中宮として堂々と参列した。
恵仁親王を公式に「中宮の子」として天下に公表する。それは、欣子が名実ともに「国母」として宮中に復活したことを意味していた。
我が子を失って以来、足掛け九年に及ぶ長い蟄居が、ようやく解かれた瞬間であった。
そして、さらに8年後の文化14年(1817年)5月
主上(光格天皇)の宿願であった恵仁親王(仁孝天皇)へ譲位がなされた。
「主上、ついにこの日が参りました」
「ああ、欣子。そなたのおかげだ。
長い間、本当によく耐えてくれた」
盛大な行列が仙洞御所へと向かう。
光格上皇と、いまだ中宮の位にある欣子内親王の輿が、誇らしげに並んでいる。皇太后の位を賜るのは、なお三年の後のことであったが、この日の輿の連なりこそが、二人の歩んできた歳月の何よりの証であった。
沿道を埋め尽くす民衆の歓声を受けながら、二人は幾多の苦難を乗り越えた深い絆を確かめ合っていた。
しかし、その華やかな行列の列尾には、深く濃い影が落ちていた。
恵仁親王の生母・婧子は、我が子が帝位に就いたというのに、その身分はいまだ主上(光格上皇)付きの典侍にすぎない。
ゆえに、新帝の御所に残ることは許されず、仙洞御所へ向かう行列の中に、ひっそりと身を潜めるしかなかった。
頼子を追いやり、目障りな邪魔者は居なくなった。後宮の権力をすべて手に入れたはずだった。
それなのに、主上からは冷たく遠ざけられ、我が子は奪われ、凍りつくような孤独の中にいた。
前方を進む女房たちの、忍びやかな囁き声が、容赦なく婧子の耳に届く。
「大典侍(葉室頼子)さまも、仙洞御所へお戻りになられるとか」
「主上のご信頼は変わっていなかったのでございますね。皇太后さまも一目置かれていらっしゃる……」
その言葉は、婧子の胸の奥を容赦なく抉った。
主上のお側から追われ、命をかけて産んだ我が子は奪われ、自分が追い落としたはずの頼子までもが誇らしげに戻ってくるとは……。
「私には何もない。誰もいない」
華やかな雅楽の音色と民衆の歓声が遠く響く中、婧子はただ一人、揺れる輿の中で、音もなく涙を流し続けるしかなかった。
自らが招いた因果応報の闇に、深く、深く、沈んでいくように。




