勧修寺婧子(かじゅうじ ただこ)
まだ生木の香りも新しい御所の廊下を、真新しい畳の匂いと共に、女房たちの浮き立つ足音が行き交っていた。
三年にわたる聖護院での仮住まいに、ようやく終止符が打たれたのは、寛政二年(一七九〇年)霜月のことである。
◇
再建された御所での暮らしにもすっかり慣れた頃、宮中は光格天皇の正妃となる欣子内親王の入内へ向け、にわかに活気づき始めていた。
来たるべき中宮職の後宮を支えるべく、内侍司に連なる公家の息女たちが、女房見習いとして幾人か宮中へと召し出されることとなった。
これは、あくまで奥向きの実務――文書の取次ぎ、儀式の差配、諸事の記録などを一から仕込むためのものであり、主上のお褥に侍る身を選び定めるためのものではなかった。
見慣れぬ檜皮葺の甍を仰ぎ見ながら、婧子は緊張に強張る両手をそっと袖の内に隠した。今日から、この御所が我が住まいとなる。
寛政四年(一七九二年)、齢十二の婧子が、同じく見習いとして上がった幾人かの少女たちと共に宮中へ召されたのは、欣子内親王の入内を二年後に控えた頃であった。
勧修寺家は代々、有能な官僚や女房を数多く輩出してきた名門であり、実務派の家柄として朝廷で重きをなしていた。
勧修寺家の娘として、いずれは実務を統べる高級女官たることを見込まれての出仕であり、婧子自身もまた、その道を歩む心づもりでいた。
婧子は非常に聡明で機転の利く少女であったが、同時に虚栄心が強く、人を押しのけてでも高みに登ってみせるという野心を秘めていた。
彼女たちは、今や奥向きを差配する立場になった葉室頼子の下で指導を受け、宮中のしきたりや儀式作法を厳しく叩き込まれていく。
一方で歌道に関しては、名人であり、儀式や文化の復興に並々ならぬ熱意を注ぐ主上(光格天皇)自らが、直接筆を執って指導に当たられた。
主上から婧子へ授けられた御製(和歌)は、このようなものであった。
のちの世の 忘形見ともみよ 宮づかへ
はじめし冬の 初しぐれかな
(そなたが宮仕えを始めたこの冬の初時雨を、のちの人生で振り返ったときの愛おしい思い出としなさい)
これに対し、婧子は以下のように返歌を奉る。
宮づかへ はじめし冬の 初しぐれ
降りみ降らずみ 袖ぞぬれぬる
(宮仕えを始めたばかりのこの冬の初時雨は、降ったり止んだりして私の袖を濡らします。――慣れない宮中生活の緊張から、嬉しさと不安で涙がこぼれ、袖を濡らしております)
この緊迫感と瑞々しさが交錯する歌のやり取りを機に、主上による直接の歌道指南が始まった。
主上は激務の隙を縫っては見習い女房たちを集め、熱心に指導を重ねられた。
ある日、主上が婧子の提出した和歌の草稿(詠草)を広げる。
婧子は文机の前で平伏し、主上の言葉を静かに待つ。その周囲には、先輩格の女房たちが息をひそめて控えていた。
「……婧子」主上の低く通る声が響く。
「そなたが差し出したこの『秋の風』を題にした歌だが。
『君をのみ まつ夜の秋の 風の音に……』。なるほど、技巧は悪くない。だが、これではただ『寂しくて耐えられない』と涙に暮れるだけの、ありふれた女の歌だ。
平安の昔より、秋風を待つ夜の歌など星の数ほどある。そなたは後宮の実務を担う、名門・勧修寺の娘であろう。もっと歌に『格調』と、相手の心を動かす『理』を込めねば、宮廷の歌会では失笑を買うぞ」
主上からの厳しい言葉に、婧子の背筋がわずかにこわばる。しかし、彼女はただ畏まるだけの少女ではなかった。
「……身に余る御批点、恐れ入ります。私はまだ浅学の身。葉室様からも、宮中の作法とともに古典への学びが足りぬと、日々叱責されております。
されど、主上の御眼鏡にかなう歌の『格調』とは、どのように詠み直すべきものでございましょうか。不調法な私に、どうか直々のご指南を賜りたく存じます」
主上は硯に筆を浸しながら、静かに、しかし断固とした口調で答えられた。
「歌とは、ただの泣き言ではない。
相手がどれほど冷酷に振る舞おうとも、それを『深い宿縁』という大きな理で包み込み、相手に言い訳をさせないほどの強さが必要なのだ。
例えば、お前のその弱音に対して、私ならこう返す」
主上は迷いなく、手元の紙へすらすらと歌を書き付けながら詠み上げられた。
あはれとも いふに甲斐なき 契りかな
待つ夜の風の 音はひとつに
「……どうだ? そなたが一人で風の音を聞いて切ないと言うのなら、私は
『その切なさすら、二人の深い因縁なのだ。そなたの聞く風の音と、私の聞く風の音は同じひとつのもの。
なれば、そなた一人が寂しいわけではない』と、理詰めで返す。
こうして初めて、贈答としての歌のやり取り(相聞)が成立する。
これは『恋の感情』ではない。『言葉の応酬』なのだ。分かったか」
「……なるほど。『音はひとつに』という結びを以て、相手の孤独を優雅に封じ込めるのですね。
実に見事な御手並みでございます。
主上の和歌に対する執念、そして平安の朝儀を復興されようとする御意志の深さ、身に沁みて理解いたしました。
この贈答の形式、しかと手元に書き留め、勧修寺の女房としての教養に繋げさせていただきます」
婧子は深く平伏しながらも、その瞳の奥には冷静な計算が宿っていた。主上の言葉を完璧に理解した上で、自らの価値を売り込む言葉を淀みなく返す。
「うむ。そなたは物覚えが良いから教え甲斐がある。次の歌会では、朝廷の威信に恥じぬ歌を詠め。
……それから婧子、明日の朝儀の準備について、葉室と手筈は整っているか? 抜かりの無いように」
「はっ。そちらの実務もすべて手配済みでございます。
御講義、誠にありがとうございました。これにて失礼いたします」
婧子は隙のない一礼をして、その場を下がった。
――このように、主上と婧子の間で交わされた(ように見える)瑞々しい贈答歌は、その実、男女の相聞歌などでは決してなかった。
主上が課題を出し、婧子たちがそれに沿って歌を詠む。それを主上が添削・指導しながら、模範解答として返歌を示す。
それは、宮廷の学識を練り上げるための、極めて実務的で厳格な詠歌の修練に過ぎなかったのである。
しかし、これらの指導記録は婧子の手元に大切に残された。そして遥か後年、彼女の死後に勧修寺家によって『東京極院御詠草』として編纂されることになる。
そこに見えるのは、主上と婧子の間に流れる情愛の深さであり、絵に描いたような仲睦まじさであった。
だが、それこそは、帝の生母となった婧子の「造られた虚像」であった。
それらはすべて、婧子という女性の価値を高め、ひいては勧修寺家を宮廷内で格上げするための、周到に仕組まれた喧伝の具だったのである。




